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【畑の生活】自然であること。

2週間ぶりの畑。ほうれん草、小松菜、チンゲンサイ、葉物三銃士はどれくらい育つものなのか様子を見ていたが、外側の葉が褪せてきており、どうやらこれ以上大きくなる気配はない。長老によると時期が良ければもう少し大きくなる様だが、11月に入ってからの種まきでは少し遅かったみたいだ。ほうれん草とチンゲンサイは何度か間引きながら収穫していたので、残っている分をすべて引き抜いていく。なかなかの量ではあるが、ほうれん草は茹でると意外と少なくなる。ほぼ手つかずのままびっしりと生えている小松菜を半分ほど土から引き抜いた。収穫した小松菜は根にこんもりと土がついている。そのまま持って帰ると、後が大変だということをこれまでの収穫で学んでいるので、収穫したものはその場で軽く水洗いすることにしている。小松菜の束を適度により分け、土のついた根っこをバケツに張った水のなかで濯いでいく。冬の水は冷たい。そんな当たり前の感覚を感じながら、水の底に落ちていく土の重さを感じる。水から上げた小松菜の根からぽたりぽたりと雫がしたたる。お日様にかざすと根っこについた水滴がキラキラと反射して、銀色に輝く。僕はそれを美しいと思う。子どもの髪を梳かす様に、やさしく根っこをほぐしながら、食べられそうにない朽ちた葉を選り分けていく。畝の傍らの土手道で、ミニマルな作業を繰り返していると時間が止まったみたいな不思議な感覚になる。それは、例えば倉庫や工場の中で強いられる単純作業とはあきらかに異なる時間の流れ方だ。僕らはあまりに複雑に物事を捉え過ぎているのかもしれない。人間の生などというものは、結局のところ吐いて吸って、食べて排泄してというミニマルな運動の連続にすぎない。とっても自然なことだ。だから単純作業というものは本来心地よい。でも、それが人為的なものとして強いられると心地よくない。不自然だからだ。自然か、不自然か。心地よいのか、心地よくないのか。何かを選択したり行動する時、それ以外のことを考えるから話は複雑になり、悩みや不安は増殖し、袋小路へと入ってしまう。そんなことをぼんやりと考えながら作業している僕とて、まだまだ雑念のなかにいる。小松菜を洗う。葉を選別する。この瞬間を生きなければならない。結局のところ収穫した小松菜のうち3分の1は朽ちていたり、育ちきっていたりで食べられそうにない。せっかく育てたのに残念で仕方がない。少々腹を壊してでも食べたいくらいだが、自分一人ならまだしも、小さな子どももいるのでこれらは土に還すことにする。種まきの時期、収穫のタイミング、そして密集の度合いに気をつけなければならないということがよくわかった。農園の中には何箇所か、朽ちたり間引いたりした野菜を積み上げている場所がある。今は冬だからそのままだが、暖かくなってくるとそれらはやがて自然と土に還るそうだ。自然のコンポストといったところか。何が自然でなにが不自然か、畑に通う様になってから、ほんの少しだけ敏感になってきた気がする。それは不自然な環境にあってはなかなか捉えづらい感覚だ。僕は此岸と彼岸の往還者、つまり間(まあい)にある者であってエコロジストじゃない。僕にとって自然であるということはいかにニュートラルであるかということだ。

1ヶ月ほど前に密集していた小カブと二十日大根をいくつか間引いたものの、その後も目立った葉の成長はなく、おそらくピークは過ぎている。葉を束にして引き抜くと、もやしの様に細い根がするりと出てきた。やはり11月の種まきでは遅かったみたいだ。試しに葉をちぎって食べてみる。少し苦味があるが、十分食べられそうだ。これらは細かく切ってじゃこと炒めてふりかけにしよう。野菜ジュースに入れてもいいかもしれない。それはそれで楽しみだ。思い切ってカブと二十日大根を全部抜いていく。あまり力はいらない。根が深くまで伸びていないのが感触としてわかる。ちょっと残念に思いながらも次の葉に手をかけたとき、それまでと違う感触があった。少し重い。「これは!」と思い引き抜くと、土の中から3センチほどのちいさなカブが顔を出した。カブの赤ちゃんが生まれたみたいでとても愛らしかった。野菜を見てかわいいと思ったのは初めてだ。全部ダメかと思われた根菜類だったが、結果的にほんの少しではあるがカブと二十日大根の赤ちゃんが採れた。

家に帰って、採れたてのベビーリーフとサニーレタスの上にスライスした根菜類を散らす。カブも二十日大根も、断面は白くきらきらと輝いている。ほんの小さなその瑞々しさのなかに、土の記憶を湛えている。僕の口の中でシャキシャキという音と感触が心地よく響いた。

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