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2月9日(木)父という存在

田舎から牡蠣が届いたということで、実家に招かれ夕飯をご馳走になる。家族という煩わしくも、温かな集合体。

父と話さないといけない件があり、ほんの少しだけ久しぶりに面と向かって話をした。良いとか悪いとか抜きに、あらためて父は理知の人たと感じた。ルール、約束、筋。父が言うことはいつだって圧倒的正論だ。幼少期の僕は、そんな圧倒的正論に異論を挟める余地などあるはずもなく、ただ従属せざるをえなかった。父はいつだって「筋」に沿うことを重んじ、それを正しさとした。でも、僕はその「筋」に沿うことが正しいという圧力に常に息苦しさを感じて生きてきた。今にして思うと、僕は確固として存在する「筋」に沿うのではなく、ただ自由に散歩する「線」が描きたかったのだ。正しさだけが正しさじゃない。父と僕の根源的な相入れなさは、きっとそこにあるのだと思う。

とはいえ、父そのものを否定したいわけではない。父を否定することは僕自身を否定することにもつながる。僕の中にも父のような理知、正論的思考が存在すると思う瞬間があるからだ。それが先天的なものなのか、矯正されたものかは今となってはわからない。明確に二元論で語れるものではないが、父のような正論原理的クロノス思考と野生主観的カイロス思考、ふたつの相入れない思考が僕の中に同時に存在している。僕が精神に異常を抱えているのは、そうした弊害によるものなのだと思う。

父のことを恨む気持ちはさらさらない。でも、父と対峙するのはこの歳になっても苦手だ。でも、父と向き合うことは自分のなかにあるアンビバレントな思考や感情と向き合い、それ自体を受け入れることでもあるのだと思う。完全にわかりあうことは不可能だし、別にそんなことは望んでいないが、父も老い限られつつある時間の中で、父といかに向き合い、僕自身がどのように折り合いをつけるかということは、少し大袈裟かもしれないが僕の人生にとってひとつの大きなテーマである。


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