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15年前の自分を愛する。

朝、子どもを保育園に送って行ったあと、仕事の時間までスケボーをするのが習慣になりつつある。ふたりの子どもがいる朝はとにかく慌ただしいし、すみやかに事が運び、穏やかに過ごせることの方が稀だ。今までは子どもを保育園に送って行った後、ほとんど惰性でコンビニに寄って缶コーヒーを買って一服するのがなんとなくルーティーンになっていたが、一息つくのも束の間で、結局はもやもやとした気持ちを引き摺りながら家に戻り、そのままなし崩し的に仕事を始める。コロナ禍以降在宅仕事になってからの数年、ずっとそんなサイクルだった。

ドラムは今も続けてはいるし楽しい。メンタル的にも良い影響を及ぼしているのを実感している。でも、日々の中に習慣として組み込むというよりは、月2回のレッスンと、あとはなんとか時間を見つけて隙間で練習するというのが現状だ。

ドラムもそうだが、去年あたりから「やりたい」と思ったこと、思っていたことは年齢や時間といった「やらない理由」や「やれない理由」を探す前にとにかくやることにしている。続くかどうかなんて、やってみなくちゃわからない。心の底から「楽しい」と思えることをやることがメンタルにとって何よりも薬になる。そして「やりたいこと」「楽しい」と思えることは、僕の場合、まったく新しい「何か」ではなく、結局のところ15年前の自分のなかにあった。15年前、僕はバンドを辞め、同年代から数年遅れて就職した。今思えば同年代から数年遅れていわゆる「社会人」として就職するということに少なからずプレッシャーを感じていたのだと思う。「真っ当に生きねば」必要以上にそう思い込んで、僕はレコードも音楽機材も売り払い、スケボーにも乗らなくなった。

15年間、人並みに紆余曲折があった。何度か仕事も変わったし、多くの失敗もあった。一生消えないであろう傷も負った。かといって、なにも楽しいことがなかったわけじゃない。でも、それだけでは僕のなかにぽっかりあいた穴を埋めることはできず、知らず知らずの間にその穴はどんどん大きくなって、やがて僕自身を飲み込んでいった。

僕は今、無理やり蓋をした15年前の続きをしているのだと思う。これは僕自身や周囲の人たちを見てきた経験による個人的実感でしかないのだが、人は25歳を過ぎると本質的なところは変わらないのではないかと思う。それは成長が止まるとかそういうことではなくて、人間としてなにか土台となる根っこや幹のようなものができあがるのが25歳くらいなんじゃないかということ。そして、自分にとって本当に大切なものも、傷や喪失を癒してくれる「何か」も、きっとそのなかにあると思っている。それは些細なものかもしれないし、他人から見れば馬鹿みたいなものかもしれない。でも、そんなことは関係ない。自分にとって本当に大切なものは自分にしかわからないし、それが大切だと思うのなら、一生大切にするべきだ。それが何より自分自身を愛することであり、それはきっと他人を愛することにも繋がる。なんとも勢いに任せて偉そうなことを書いてしまったが、それが今の僕がうっすらと実感しはじめていることだ。

朝の公園で、スケボーに乗って風を感じる数分間。僕はあらゆる重力から解放される。20代の頃のように無理にトリックの練習にも縛られず、スケートそのものを楽しんでいる。ミドルエイジクライシス。そう言われてしまえばそれまでかもしれない。でも、僕は公園からの帰り道、家に向かいながら確かな充足感と清々しさを感じている。

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