見出し画像

狩猟採集民のアナキズム

僕は時間の捉え方というものに興味がある。僕らが普段「時間」と読んでいるものは万人が効率よく動くために発明された概念であり「物差し」にすぎない。世界中どこの誰にとっても、1分は1分であり、1時間は1時間である。この西洋近代的「物差し」があるからこそ、僕らは誰かと待ち合わせをすることもできるし、なにか大きな物事を計画し、実行していくことができる。昨今のビジネスパーソンたちが口を揃えて言う「時間は誰にとってもも平等な資源であり、それをどう有効に使うか」みたいな決め台詞。これって彼らを筆頭に現代を生きる人々にとって時間は定量なのだという西洋近代的時間概念を前提としている考え方だ。もちろん僕も時計やカレンダーを使うが、何度も言うようにそれは時間というものを便宜上測るための「物差し」つまり道具としての時間でしかなく「時間」そのものではないのではないだろうか。

これは完全に僕個人の感覚でしかないのだが、時間って「時間」という定量価値的な資源が先にあるのではなく、ましてやそれをどう使うかということでもなく、なにか行動するなかに立ち上がるもの、それが「時間」なのではないかという感覚がある。

そうした「時間」に関する捉え方の違和感からくる興味により、アボリジニのドリームタイムについてや、小難しい哲学書にあたったこともあった。僕の知能では到底理解できないことも多かったのだが、自分の疾患のこともあり精神医学について少しずつ知っていく中で精神学者の中井久夫さんによる「カイロス」と「クロノス」という時間概念についての示唆が、僕にはとてもしっくりきた。

クロノスというのは先にも挙げた現代まで続く「物差し」や「資源」としての時間概念、つまり普遍的「定量時間」のことであり、これは農耕社会の成立とともに生まれた概念。それまでの狩猟採集社会とは違い、農耕社会では計画と分業によって作物を育て生産していくにあたって不特定多数の人間が同時に動ける時間概念がシステムとして必要となった。また、農耕社会の始まりによって、より大きな集団、定住、貧富、管理、権力などがうまれたという歴史は誰もが知るところではあると思うが、そこにはこの「定量時間」という時間概念が大きく起因しており、普遍的「定量時間」をベースとした社会システムというのは農耕社会の成立以降、基本的には変わっていない。

かたや、農耕社会成立以前の狩猟採集社会の時間概念が「カイロス」であり、この社会の中では普遍定量の時間概念など存在せず、「時間」というものは個々人による主観によるものだった。それは単に個々人が好き勝手に時間を過ごすということではなく、個人であれ集団であれ狩猟採集社会においては「圧倒的現在」が優位であり、そもそも(現在で言うところの)時間と呼ばれる概念はなかったのではないかと僕は推測する。つまり、彼らにとって時間とは使うものではなく、圧倒的現在を感じることそのものであり、その瞬間の中に立ち上がってくるものだったのではないだろうか。

農耕社会的定量時間「クロノス」は便利ではあるが、これを使って動いている社会には少なからず強迫性を伴う。社会が複雑になればなるほどその強迫性は、あらゆる面で強度を増していく。それは僕の目で見ると現在、個人のレベル、組織、社会のレベル、ひいては世界中でいろんな不具合を生じさせているようにも見える。(まあ、これは精神異常者であり社会不適合者である僕の主観なので、当たり前と言えば当たり前なのだが。)
僕自身、クロノス的社会の中に無理くりに自分をフィットさせよう、させなければという強迫の中で40年近く生きてきた堆積として、今現在精神を病んでいる。
僕は別に「クロノス」による社会システムそのものを否定するつもりもなければ、狩猟採集社会に回帰すべきだと言いたいわけではない。ただ、僕は「クロノス」と「カイロス」という時間概念に(どちらが良いとか悪いとかではなく)触れたことによって、少なくともなぜ自分が社会に不適合なのか、精神に異常をきたしているのかという構造に対して(あくまでひとつの)メタ的な認知を獲得したと思っている。

僕は文章の中で、自分に対してあえて「精神異常」であるとか「社会不適合」という強い言葉を使っているが、こうした自分の「異常」や「不適合」に対してその外側にある構造を自分なりに学び、認知することで、本質的にそれは「異常」でも「不適合」でもないということの入り口に立つことができる。

狩猟採集社会の中では精神疾患や統合失調症的な傾向のある人たち、中井先生の言葉を借りるならば「心のうぶ毛」が敏感な人たち(S親和者)は「病い」ではなく「能力」とされ、コミュニティのなかでリスペクトされ、とても重要な存在、役割を担っていたそうだ。しかし、農耕社会の成立以降、社会が複雑化していくなかで、時代や場所によって「魔女」であったり「病気」というラベルを刻印され、「異常」「不適合」として、社会のなかから分離、分断、隔離されてきた歴史がある。

昨今では「多様性」なんて言葉で、そうした人たちも「社会の一員として」みたいなお題目が至るところで掲げられていたりもする。もちろん、そんな社会になれば良いなと心から願うが、今現在のそれはただ都合の良い免罪符でしかないし、なんの当てにもならない。

僕たちは世界を変えることができない。

だからこそ、僕は僕自身を少しでも理解し、こんなディストピアのなかでも自分のことを愛せるように学び、あらゆることを実践していく。それが僕にとっての圧倒的現在であり、そこに立ち上がってくるものこそ「カイロス」としての時間なのではないだろうか。

「あと何分、あと何時間。」楽しいことであろうがなかろうが、そんなことを気にして生きるのは時間の奴隷だ。人は時間を使っていたつもりが、いつの間にか時間に使われて生きている。

僕は自分のことを「S親和者」だとは言わないが、少なくとも狩猟採集民であり「野生の人」なのだとは思う。(そう考えると、畑がうまくフィットしなかったのも合点がいく。という言い訳。都合の良い解釈。それでいい。)

この世界のあらゆる強迫に対抗しうるのは、圧倒的現在、主観的時間としてのカイロスを立ち上げることだと思っている。

ドラムを叩き自分自身がビートになる、その一瞬。
スケボーをプッシュし風を感じる、その一瞬。
誰かと夢中で対話し笑い合う、その一瞬。
僕の精神はあらゆる重力から解放され、自由になる。

それが、僕の実感するカイロス。

カイロスは、「生の拡充」その爆発が生まれる(主客身分の)一瞬のなかに立ち上がる。

「生の拡充」とは明治、大正の無政府主義者(アナキスト)である大杉栄の言葉だ。

かくして生の拡充はわれわれの唯一の生の義務となる。われわれの生の執念深い要請を満足させるものは、ただもっとも有効なる活動のみとなる。また生の必然の論理は、生の拡充を障礙せんとするいっさいの事物を除去し破壊すべく、われわれに命ずる。そしてこの命令に背く時、われわれの生は、われわれの自我は、停滞し、腐敗し、壊滅する。
(中略)
僕は僕自身の生活において、この反逆の中に、無限の美を享楽しつつある。そして僕のいわゆる実行の芸術なる意義もまた、要するにここにある。実行とは生の直接の活動である。そして頭脳の科学的洗練を受けた近代人の実行は、いわゆる「本気の沙汰でない」実行ではない。前後の思慮のない実行ではない。またあながちに手ばかりに任した実行ではない。
大杉栄『大杉栄評論集』(岩波文庫)より

僕は過激派でもなければ、政治思想としての「アナキズム」について心酔しているわけではない。ただ、すくなくとも大杉の主張する根本的な精神としてのアナキズムには僕自身とても共感するし、大いに学ぶべきところがあると思っている。

兵隊の足並は、もとよりそれ自身無意識的なのであるが、われわれの足並をそれと揃わすように強制する。それに逆らうにはほとんど不断の努力を要する。しかもこの努力がやがてはばかばかしい無駄骨折りのように思えてくる。そしてついにわれわれは、強制された足並を、自分の本来の足並だと思うようになる。
大杉栄『大杉栄評論集』(岩波文庫)

こうした無意識の強制、強迫に対し、僕は幸か不幸か違和感と不具合を生じてしまっているのは事実だ。でも、中井先生や大杉のような先人たちからの学び、そして僕のことを気にかけ、肯定してくれる仲間や家族の存在に勇気をもらっている。それもまた事実だ。

社会の標準とされるあらゆるシステムや因習、価値観、それらを僕は否定しない。でも、それらは僕を否定するだろう。だからこそ、誰でもない僕自身が僕のことを愛してやらねばならない。生の拡充、カイロスを生きて。

僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ。
大杉栄『大杉栄評論集』(岩波文庫)

僕は現代の狩猟採集民。野生のアナキストだ。
政治的主張のためではなく、僕が僕自身の生を拡充するその行為によって、僕はこの狂った世界に対し「Fxxx」と叫び続ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?