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ファンク、そして坑道という「神話体系」

ベルクソンの「創造的進化」、ドゥルーズの「差異」、ティム・インゴルドの「ライン(線)」には、生命や自然現象を静的なものではなく、動的なものとしてとらえるという共通の考え方がある。

ベルクソンは、生命や進化の過程は創造的であり、一定の法則に従わないと主張し、ドゥルーズは現象がある時点で一定の状態に到達するのではなく、常に異なる可能性として「差異」の概念を提唱し、インゴルドは「線」の概念を通じて、生命や自然は連続的であり、静的なものではなく、線が絶え間なく形成・変化し続けているという観点からクロスオーバーに人類学を展開する。

彼らの世界観のなかには「諸行無常」の響きあり。Like a 平家物語。ベルクソンもドゥルーズもインゴルドも、テクストを媒介にしながら「声」によって「物語」を語る琵琶法師だ。

彼らが生命や自然現象を動的なものとしてとらえる背景には、エネルギーの流れや運動が重要な役割を担っている。具体的には、それぞれの理論の中で異なる解釈や言葉によって展開されているが、共通して強調されるのは、生命や自然現象に内在する生命力や力場、流動性や運動性、創造性や可能性など、なにかしらの「エネルギー」があるということだ。これらのエネルギーは、個別の現象や事象として完結するものではなく相互に作用し合っている。「一即多」であると同時に「多即一」。琵琶法師たちの「声」はアニミズムとも呼応しながら、普遍的な「何か」を物語る。

すべてを包括すると同時に個別の流動性や変化を生み出している根源的な原動力とは何なのかという問い。この世界を世界たらしめ、僕の生命を生命たらしめるもの。それは相対性理論とか量子力学とか超紐理論とか科学的な解釈で説明できるかもしれないし、神とか魂とか超現実的なものとして宗教的もしくはオカルト的な解釈だってできるだろう。科学もオカルトも常に表裏一体で、それはアプローチの違いにすぎない。大事なのは「それ」は目に見えない「何か」だってこと。

僕は、その「何か」に「ファンク」という概念を接続する。

ファンクは、より強いリズムとグルーヴを強調した「踊る」ための音楽だ。(少なくともアメリカにおける大衆音楽としての)黒人音楽の歴史は、踊るため、踊らせるための音楽の歴史であり、ファンクはジャズ、ソウル、リズム&ブルース、ロックンロールというダンスミュージックとしての黒人音楽の創造的進化によって生まれた音楽だ。

ファンクは踊るためにあるのか、ファンクがあるから踊ってしまうのか。強靭なリズムと、うねるようなグルーヴは僕の内側にある「何か」に直接作用し、僕を踊らせる。

「踊る」ということは有史以前からの原始的な欲求であり、神聖な行為だ。個はリズムの上で踊りエンドルフィンを解放し、他の個と結びつき大きなうねり、グルーヴを生み出す。ここにも「一即多」と「多即一」が同時にある。One Nation Under A Groove!!

「踊り」や「ダンス」は、単なるレクリエーションのひとつなんかじゃない。人間のなかにある本能であり生理反応だ。

ファンクは生命の源、エネルギーの源、そして全ての存在が相互作用している根源的な「エネルギー」だと、僕は解釈する。

ジョージ・クリントン師匠曰く、ファンクは作り出したりコントロールするものではない。『それ』は常にやってくるものであり、我々は『それ』をあるがままにキャッチし捕まえるだけなのだ。

僕にとって「ファンク」は音楽であると同時に、ひとつの概念だ。

ファンクは、人間を内側から突き動かすエネルギーの根源。ファンクは、無の中に「The One」を生み出す。

ジョージ・クリントン師匠が率いるファンカデリック、パーラメント、Pファンク軍団が鳴らしてきたのは、まぎれもない(uncut)ファンクであり、そこには常に「声」があり、その「声」は常に「神話」を語ってきた。

「Pファンク神話」によると、ブラックホールでPファンクがパーティーをしたことで宇宙全体が生まれたとされている。ビッグバンは(P)ファンクによって引き起こされ、宇宙のあらゆる現象はその残留エネルギーに影響されてるのだ。

創造的進化、差異、ライン(線)といった諸行無常のなかにある根源的なエネルギーこそが「ファンク」だ。ファンクが僕という存在を内側から突き動かしている。

Pファンクという音楽集団は、90年台にヒップホップによってサンプリング(転生)されてから再評価されているが、その派手で混沌とした変態的な見た目から色物として認識されることも多い。彼らが語る「神話」は『スタートレック』や『スターウォーズ』などを下敷きに、言葉遊びとアナロジーに溢れ、ジョージ・クリントン師匠自身は、そこに宗教的な意味合いなどないと語っている。それらはギャグでありジョークだともいえる。つまり彼らは「神話」を語る「道化師」なのだ。彼らの神話を「んな、アホな。」と笑うのは簡単だし、それはある意味で正しいPファンクの楽しみ方だ。でも、時として道化師という存在は劇薬にもなりうる。

声の大きな王によって、この世界は合理化、効率化、多様性という言葉を借りた個人主義による分断が、過剰な速度で進行している。もうこの流れは誰にも止めることはできない。こんな地獄のような状況のなかで、僕が「世界」そして「自分自身」を信じ肯定するためには、世界とつながる通路を見つけなければならない。その通路としての役割を果たしてきた「物語」すらも効力を失いつつある。僕がこれまでやってきた興味の対象を掘り(ディグり)自分のなかに坑道をつくる「坑道という行動」は、「物語なき世界」のなかで、僕自身のなかに自分なりの「神話体系」を創出しようとする行為なのかもしれない。

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