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【畑の生活】純粋経験

長老は腰巻からメジャーを取り出し畝を実測する。長老は目分量ではなくしっかりと実測することが大切だと言う。畝には最終的にマルチと呼ばれる黒いビニールをかける。マルチの幅が1メートルで、畝の幅が1メートル。マルチは土をかぶせて固定するのでその分、畝の両端をレーキと呼ばれるフォーク状のトンボのような農具を使って削っていかなければならない。木の柄を握り、レーキの爪を刺して土をかく。ザッと心地よい音が身体に伝わる。僕は「かく」ということを「核」で感じる。畝と畝の間は狭い。隣の畝からレーキを下ろすとやりやすいのだと長老は教えてくれた。もっとへっぴり腰になるかと思っていたが、意外と手応えがある。これはきっと僕の筋がいいのではなく、レーキの長さと道具としての作り、そして立ち位置のバランスがとれているからなのだろう。長老は「良い」とも「悪い」とも言わない。ひとかき、ひとかき感触を確かめながら、9メートル40センチの畝を削っていく。

いよいよ土をつくっていく。まずは20kgの堆肥を畝の表面に敷いていく。長老は袋の端をハサミで完全に開き畝の上にどんと置く。袋を倒し、そのまま引きずっていけば中身がうまい具合に出てくると教えてくれた。やり方はひとそれぞれだが、長老はこれが一番手っ取り早いのだと笑う。長老に言われた通り袋を引きずっていくと、しっとりとした黒い堆肥が白く乾いた畝の上にこぼれていく。適当にゆすりながら引きずっていくと、ちょうど畝の終わりで袋の中身がなくなった。ところどころムラがあるので、まんべんなく慣らしていく。堆肥を手で撫でると土の匂いがする。堆肥の中には枯葉のかけらやゴロゴロした牛糞だったであろう塊など、いろんなものが含まれていることがわかる。やっぱり土はいきものの死骸だ。死骸は腐敗ではなく発酵している。発酵する死骸には温度がある。呼吸している。つまり死骸は生きている。僕は「有機物」という言葉を知っているし、これまで幾度となく言葉として使ってきただろう。でも、僕は「有機物」というものについてなにも知ってはいなかった。僕は堆肥に触れることで「有機物」というものをはじめて理解した気がする。いや、理解というのも違う。これは頭で考えて認識するような類のものではない、もっと手前のもの。西田幾多郎のいう純粋経験とはこういうことなのかもしれない。これが実感だ。純粋経験は言葉にしようとすればするほど小さくなってしまう。それでも僕はこの言葉たりえないものをなんとか言葉にしようとする。なぜなのだろう。僕は言葉にすることで純粋経験が死骸になったとしても、言葉という「有機物」は温度を持ち、呼吸し、息づいて、あらたな循環を生み出していくのだと信じたい。

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