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【畑の生活】無我の記憶

此方と彼方を行ったり来たり。此岸と彼岸を往復する。此岸にあるとき彼岸を想い、彼岸にあるとき此岸を想う。僕はふたつの岸を空間的に水平移動することによって、自分の次元を垂直に拡張しつつある。それは対話にも似ている。対話は単なるキャッチボールではない。書くこと、読むこと、話すことの本質、根源のようなものは、意思の伝達という手段のもっと手前にある対象と混ざり合うことだ。空間、時間、物理、肉体、絶対的に隔てられている自と他、つまり此岸と彼岸の間に生ずる往復運動が物理世界とは別のところで圧倒的現実を立ち上げる。それは吉本隆明の言うところの(対)幻想なのかもしれない。僕らは圧倒的現実という幻想のなかに生きている。それは絶対的隔たりのなかに浮かび上がる、無我の記憶なのではないか。人間は自と他を隔つことで自我を持ち複雑に進化してきた。それはある意味で、人間とそれ以外を隔てるという代償を支払ったのだとも言える。この世界の中に概念的直線が存在しないように境界線というものは存在しない。でも、人間はあらゆるところに境界線を引くことで自我をより強固なものにしてきた。この世界のどこを探したって境界線など存在しない。境界線は幻想であり、自我こそ幻想だ。人間がはらんでいるあらゆる問題は自我という幻想に依拠する。自我という幻想のなかでは「自分を持つ」ことは能動的態度でありポジティブなこと、「自分を持っていない」というのは受動的態度でありネガティブなことと捉えられる。どちらが良いとか悪いとかの議論ではなく、そもそも「自分」とは「持つ」ようなものではない。「ない」のだ。人間が人間として支払い続けている代償、つまり自我と自我の境界線を越えて、無我の記憶に触れようとすることが生に対して真に能動的な態度といえるのではないか。畑という彼岸へ行く道すがら、僕はぼんやりそんなことを考えていた。

追記:ヘッダー画像は子どもが保育園で書いた絵。もちろん本人は適当に書いてるんだろうけど、彼らの絵には時々「!?」と思わせられることがある。子どもは無我の記憶を純粋記憶として知覚しているのかも。そんなことを思ったり。誤謬、誤謬。

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