馬肉かなめが講談やライブについて考えたあれこれ

僕が2021年から始めたエロ講談について書きたい。

このコンセプトは「お笑いの舞台で通用する、落語の技術を盛り込んだネタ」だ。
今から書くことは全て後付けかもしれない。全てはナミ極を講談にしたい欲求から始まったと言ってもいいからだ。
全て戦略で行ったように書くが、所詮は趣味でやってることなので偶然うまくいったことをそれっぽく書いてるだけだ。



僕はお笑いの舞台に立つことは「半分は趣味、半分は本業の仕入れ」

僕の本業は「YouTubeを始めとした動画制作およびライブ制作」だ。めちゃくちゃ広く言えば作家のようなものだが、自分に肩書きをつけるほど何者でもない。それでもゆくゆくはそういった仕事をしたい。
単純に面白い人たちと面白いものを作りたいと考えている。裏方思考で自分が売れることより周りの知人たちが売れた方が楽しいし、そこに混ぜてもらって一緒になんかやって終わりに飯でもいけたら最高だ。ただ自分はそこまで仕事が出来るわけでもなければ、何かに特化しているわけでもない。
そうなると自分が面白いことを考えられることを身をもって証明することが近道ではないかと考えた。


つまりライブに出る意義は以下のようになる

①自分の考えためちゃくちゃ面白いネタを発表する

②面白い人と交流を持つ、自分を知ってもらう、ライブについて詳しくなる

③あらゆる方面から仕事のチャンスを掴む



最初からこの道筋を立ててた訳ではないが、①をナミ極講談ならこれが達成出来ると思ったのだ。面白いし誰も見たことないし、落語のスキルを活かせるし、たくさんネタも作れる。これを名刺代わりにたくさんのライブに出ようと決意が固まった。
そもそも講談師でもないのに講談で飯を食おうとするのは、弁護士でもないのに弁護士事務所を構えるようなもの(裁判は弁護士がいなくても出来るけど、それを商売にしたらアウト)なので、これで生きていこうと考えていないのもある。
よく、元芸人の作家はいるけど、作家前提で勉強のために芸人やってた人っていないのかなと考える。非効率だからいないだろうけど。



講談の前に漫才をやってみて
講談をやる前に落研の同期と漫才を2度ほどしたが、そこそこのウケだった。
新たな分野に頭を使うのは楽しいし新鮮だが、突き抜けはしないだろうなと肌で感じた。
趣味でやる分にはいいかもしれないが、なんかこう自分がやってる意義があまりない気になってしまう。
落語は四年間みっちりやってきてそこそこ落語の筋肉がついてきたのに、これを投げ出してまた漫才の筋肉を一から鍛え直すには時間がかかる。
なんでもゼロからの積み上げより、自分の中にある武器を使う方が楽だ。


脱賞レース
エロ講談は確実に賞レースを捨てている。このスタイルである以上、既存の大会に調整することはない。大会ですり減らすくらいなら1年でも長く出来た方が絶対いい。
賞レースはお笑いのレベルを上げるが、ネタの画一化が進む弊害が出てくる。
漫才やコントは表現の一つにしか過ぎない。お笑いライブに出てお客さんが満足するのは潜在意識として「舞台で笑いをベースとした面白いものを見る」ことであって必ずしも漫才やコントの形式が見たい訳ではない。
エントリーライブなんて4分間何やってもいいんだから、ウケるなら歌でもマジックでもやればいいのにとも思う。僕はそれが講談だっただけだ。
お笑いライブだからって形式までお笑いにする必要ないし、だからこそ目立つので。

漫才で目立つにはM-1で結果を出すか、M-1でできないネタをするしかない。どちらにせよ漫才をやる以上M-1からは逃れることはできない。漫才でなくともお笑いにはあらゆる賞レースがある。
大会は強い刺激でありながら他者との比較を余儀なくされる。自分のアスリートが目覚め、芸術家が追いやられ、ビジネスマンが判断するようになる。そこで負けたら自己嫌悪になるし1年を棒に振った気になる。そして自分は面白くないと自己否定してしまったら単純に生きててつまんなくなる。
もちろん全てが0か100ではないし、人それぞれ大会にいろんな距離感がある。ただ大会を意識してしまうとかなり針路を変えられないか?と常々考えていた。面白すぎるネタができたから世に出したくてたまらないならまだしも、大会が先にあってそこに向けて面白いものを作ろうとするのはあまり魅力的ではない。R-1の魅力度の低さもあるが。ただ大会に合わせて売れようとするギャンブルが嫌なだけであって、社会人のR-1会ったらなんとなく出る気がする。いつものネタをやるだけだから。アマチュアR-1が出来たら、みんな売れる気がない分、本家よりゲテモノが出てきそうでそれはそれで楽しみではある。


学生の頃
今や、講談の感想には「上手い」と書かれるが、学生の頃は台本重視の新作落語を武器にしていた。台本の面白さを武器にしたいがあまり、演技にあえて力を入れないスタイルだった。しかも下ネタはダサいと思ってほぼやってない。新作落語の経験があるからこそ今があるが、新作落語で講談と同じようにウケるかと言われたら難しい。そもそも当時は台本の構成と大喜利こそ最強だと思っていたが、そうではないことが段々分かってきた。必ず人間が演じるものなんだから、上手さや稽古量がしっかりしてないとそもそも見る気が削がれたり、ネタに集中出来なかったりする。自分がそれを覆せる天才脚本家でもないことが分かった以上、自分がゼロイチで作ることに拘らないようになった。それを過去の自分が知ったらガッカリするかもしれないけど、漫画村パク山を見たら抱腹絶倒すると思う。常に過去の自分を笑わせるネタをやりたいと常々思っているので。


裏切らない笑い
お笑いは裏切る笑いがベースにあって、それは演者と客との知恵比べというか「俺の笑いについてこれるかな?」みたいな領域に入っている。学生の頃はこれを落語でやってたし、普通に落語通りやる人を創造性がないとちょっと下に見てる時があった。しかし、今や自分がしてることは後者に近い。それがお笑いライブでも十分に、むしろ新鮮なものとして受け入れられていることが面白いな〜と毎度思う。
落語をやりすぎると身内しかいない状況から「落語って同世代の一般人には伝わらないんじゃないか」と不安になるがそれは落語のせいではなく、落語をしてる自分がつまらないかも、という不安が正体だったりするが。そういうこと考えるから余計に落語を同世代の友人に見せたいと思わなくなるんじゃないかと思う。
落語講談は昔の話でベタなものだ。それはお笑いの新しくて裏切る笑いと真逆だ。ただ、ベタで全く裏切らないエロ講談はここまでウケてるんだから、落語お笑いの客にはウケない子もと言った不安は幻想だし、幻想にしたかった。
俺がウケてるんだから落語家になった落研の人はもっと面白いんだと言ってやりたい。


カリフォルニアロールだ
馬肉かなめのネタは寿司で言えばカリフォルニアロールだ。外国人の口に会うようにタバスコやマヨネーズを入れた寿司。僕は寿司を握りたい訳じゃない。美味い料理を作りたくて、自分の経験からできる最大限のものが寿司の技術を使ったカリフォルニアロールというだけだ。寿司職人やそのマニアから見たら寿司屋で修行もしてない人間が外国人に向けてカリフォルニアロールを出してたら「寿司が勘違いされるだろ!」と怒るだろう。そんな伝統があるからこそ寿司は素晴らしいわけで。落語はちゃんとやったが、講談はマニアな訳ではないし。
今やってるのはファストフードならぬファスト講談だ。
4分でエロ漫画で修行してない講談。
講談は奥は深いがその奥まで行けた人って何人いるだろうか。
そもそも99%の人達は入口すら知らず死んでいくのでは?
マックがなかったらハンバーガー食べずに死んだ人多いだろうし。
そう考えてるのもファスト講談を無理矢理肯定するためだけなのかもしれない。
講談が一度でも最高のエンタメになろうとしたか?
なぜ衰退したのか分かるか?
などいろいろ考えることはあるが、これはもはや、落語講談浪曲などの昔の演芸に対する問題提起なのかもしれない。
これが世に知られて物議を醸せばゴールなのかもしれない。


自分でも書いてるうちによく分からなくなってきたので終わり!

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