暖かくて心地よくて甘ったるい
邦画は自分が育ってきた環境や文化が色濃く描かされていることが多いこともあって、洋画よりも感情移入しやすい場面が度々ある。もちろん、作品によっては洋画だって強い共感を得ることがあるが。単館系と呼ばれるような日常の延長線上を描いた作品においては、特に強い影響力を受けることが多い。かつては単館系の邦画を見漁っては、映画のワンシーンのような生活がしたいと常々思っていた。どんなにクソッタレな生活だって「映画」になってしまえば多少輝いてみてるような気がして。うだつの上がらない毎日から開放されたいばかりに、自分のすべてを皇帝できる材料の一つとして、私の生活が映画のワンシーンだったらいいのに…とさえ願った。
大田区にあるボロアパートで、うつ病で休職中の男とニートだった私は、二人で暇つぶしがてら「百円の恋」をTSUTAYAでレンタルした。映画を見終わったあと、狭いキッチンで煙草を吸う私の後ろに彼が立って何気なく腰に手を回した際に「なんか、映画のしょうもないワンシーンみたいだね」って笑いながら言ってて。多分そのセリフは、さっきまで観ていた百円の恋のことを言っているだろうけど、作中にはキッチンで煙草を吸う女性のシーンはなくて。ただ、どうしようもない二人が狭いアパートで所狭しと暮らし、行き場のない感情をセックスにぶつけている感じが、よくある単館系の邦画っぽくて、二人で乾いた笑いが出たのを覚えてる。
そんな風にかつては自分のだらしなくて下品な人生を映画に例えることで、多少の美化を望んでた。その環境から脱却することへの努力よりも、都合のいい方向に物事を捉えて噛み砕いてほうが気持ち良かったし。あの頃感じてた辛い想いも多少は緩和されていんじゃない?
今となっては生活も気持ちも大きく変化して、面白いくらい真人間として生きてる。正しく、誠実に、あるがままに。それで十分なはずなのに、たまに観る単館系のだらしない描写が映える映画を観れば、多分エモいって言葉に引きづられて「映画みたいな生活もいいな」って思っちゃうよね。でも、映画だから通用する話であって、現実にそのだらしない生活が起こってしまえば心身ともにとてつもなく負荷が大きくなる。架空の物語みたいに、だらしない情景は全然お洒落じゃなくて、日曜日の午後にやってる『ザ・ノンフィクション』くらい気持ちがやられちゃう。どれだけ映画のワンシーンのようなフィルターをかけても鮮明すぎる真実は残酷。
その残酷さを強く感じたのは、テアトル横浜で観た「愛の渦」。ニートの主人公がナケナシの金を握りしめて乱交パーティーに参加し、そこでセックスした女性に特別な感情を抱くも、自分の意思とは異なる結果に終わる映画。久しぶりに一人で映画館に足を運んで観た作品で、女なのに主人公の男性に感情移入してしまって、無性に悔しくて帰り道に泣いたのを覚えてる。あの頃は、何もかも最悪で全部のことにムカついていた。クソッタレの渦に翻弄される中で愛の渦をみてしまったがために、いろんな感情が爆発して、思ううように己の人生にフィルターもかけられなくて。映画館の中にいた何名かの男性に声でもかけられて、行きずりにラブホでも連行されて、セックスでもしちゃわないかな?って考えてた。今思えば、恥ずかしいくらい馬鹿らしい妄想で、今でもあの頃の惨めな自分に目が当てられないよ。
いま目の前に溢れている正しい現実は、あの頃喉から手がでるほど望んでいた人生だった。叶うはずがないと捻くれきった結果、きらびやかな生活を想像することさえ悲しくて、しょうもない映画のワンシーンのようなフィルターで真実をオブラートに包んで。でも、あの頃胸に秘めていた望みがいま真実になってる。この甘すぎるリアルに浸るあまり、たまには刺激がほしいなんて、罰当たりなことを考えてるバカ。生温くて、気持ちよくて、暖かくて、心地いい場所に居るはずなのに、ふとした瞬間に下落してしまいたくなる時がある。とはいえ、想像の範囲を超えることはなく、この心地いい世界から下落した場所を高みの見物しているみたいに。絶対にいまの生活を失いたくないという頑な想いはあって。
産後1ヶ月里帰りをした時、よく利用していた地元の路線バスに揺られながら、『いまの夫と出会って東京で暮らし、結婚して子どもを授かったことがずべて幻だったら…』と想像してみた。路線バスの窓からは、泥沼の中にいたあの頃の目によく映っていた景色だったから、すべて振り出しに戻ってしまったら?と想像して、とてつもなく恐ろしくなってしまって。仮に、あの頃の人生をもう一度繰り返された場合、同じように映画のフィルターをかけてやり過ごすことはできないと思う。本当に、死んでしまうと思う。だから、いま此処にあるすべてのものを強く抱きしめなければいけない。
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