弱音と本音と

たまに、いつかオットの優しや強さから見放されてしまうんじゃないかと思う。仕事で疲れている彼の弱音を聞いては突っぱねるような言い方をしてしまうし、いざ自分が同じ立場に晒された時は優しい言葉をかけてくれる彼の言葉に「そういうことじゃない何もわかっていない」って馬鹿な子どもみたいに駄々をこねる。何もわかっていないのは私なのに。

彼は私が自分で想像しているよりかもはるかに強い人間だと思っているし、それと同時に自分が理解しているのと同じくらい弱い人間だということも知っている。私だって大好きな人のことをすべて理解していたいつもりだけど、あまりにも相手が自分のことを知りすぎて、私は彼のことを何も知らないんじゃないのかと錯覚することもある。それでもきっとオットは「栞ちゃんは俺のこと本当によくわかってるよ」って何の疑いもなく笑ってくれるんたろうけど。

子どもが産まれたことをきっかけに仕事をストップし、再び復帰することをやんわりと誓いながら2人目が生まれ。それを理由にして私はのらりくらりと数年専業主婦という立場にあぐらをかいている。以前働いていた会社に連絡を入れることすら気が重くなかなか行動に移せなかった。しかし、ひょんなことから家庭支援センターの職員に保育園についてぽろっと相談したところ強く背中を押されて以前職場へ連絡を入れることが決まった。しぶしぶラインを開いて社長に復帰したい旨を綴るも、なかなか送信することができず。意を決して送ってみたはいいものの、何日も音沙汰はなくそのまま1ヶ月以上過ぎようとしている。
正直期待はしていなかった。でも、どこかで以前の会社に戻ってまた働けたらどれほど気楽だろうかとさえ考えている自分もいて。ただ、その会社はいろいろと不審に思う点も多かったので、かえって良かったのかもしれないと無理矢理にでも自分に区切りをつけるしかない。
復職するということへの重しに加えて、新しい職を探すための転職活動というハードルがさらに加わり、長い長い保育園の申し込み用紙にはなかなか手がつけないでいるばかりだ。

オットの一馬力でなんとか今の家計を維持できてはいるものの、ギリギリのラインで在ることは確かで。給料日と同時に訪れる数ある請求書に目を通す勇気さえなくて、彼に任せきり。節約しなければという意識はあるものの自分の嗜好品を削れるほど意識は高くなくて、何も捨てられないまま不安だけが膨らんでいく。
家計について一番に現実を目の当たりにしている彼からしてみれば、私に働いて欲しいという気持ちは強いだろうな。でも、それを無理強いすることはなく、ただがむしゃらに家族を養うため働いていてくれる。日に日に「働いてくれたら家計に少しでも余裕ができるし、本当に助かるよ」という言葉は強くなっているけれども。

私は何かしらの理由をつけて、どんどんと億劫なことから逃げているだけ。その理由付として一番都合のいいものが「育児」なのかもしれない。2人の子どもを長い時間1人で面倒見るのはとても大変だ!と言えば、みんなが労いの言葉をかけてくれるも知ってる。その言葉にはもちろん本音もあるし、何かから逃げるための都合のいいアイテムとして存在していることも多分嘘じゃない。

せめて、働きに出ることもなく家で子どもの面倒を見ているのであれば、親である姿勢や主婦で在る姿勢を見せるべきなんだろうけど。専業主婦としての基本的な姿勢はこなせても親という立場での立ち振る舞いが思うようにいかなくて、自分の感情を子どもたちにぶつけてしまうことが日常茶飯事。しまいには、ろくにご飯も作れず、家事もこなせず、子どもたちと一緒にのろのろとベットで遊び呆けて一日が終わってしまう日が続いてしまうことも。
そんな私の姿を見ても彼は決して否定をせず、「2人の子どもたちを面倒見てくれるだけで十分だよ」と私を包み込んでくれる。彼に甘え切った私は、おろそかにしていた家事という仕事を少し稼働させたことについて自信満々に『今日は〇〇できたよ』と話し、「ほんとうに!すごいじゃん!100点だね」って返ってくる言葉にあぐらをかいている。そしてふとした瞬間に、そのやり取りを思い出してとても悲しくなる。どれだけ自分への否定を繰り返しても何十年も付き合ってきたこの頭にある卑怯な立ち回りを理解しているし、結果いっそのこと死んでしまいたいという答えに行き着くことが増えた。世界で一番愚かで、世界で一番卑怯な希死念慮。

オットはいつだって味方で居てくれるはずなのに、私はどうだろうか。仮に私と彼との立場が真逆になったとして、同じようなことができるだろうか。もちろん私だって彼を愛しているから相手の悪いところを飲み込んだり補う努力はするだろうけど、まったく同じ器の大きさで受け取めることは難しいだろうな。
大好きだからこそ与えられた分それ以上のものを与えていたいと思うのに、きっと私はオットにはもちろん娘や息子にも与えられてばかりで居続けている。彼らに寄りかかって、弱音を吐いて、丁寧に作り上げられた愛情を惰性で手をつけるジャンクフードみたいに扱ってるんじゃないかって物凄く怖くなるよ。

与えられてばかりの私は、いつか見放されてしまうんじゃないかって夜中にふと恐ろしくなる。今日みたいな夜に。
自分の感情を子どもたちや彼にぶつけないよう努める、基本的な家事育児をこなす、保育園の申し込み書類に記入をする、転職活動の目処を立てる。すべて難しいことじゃないし誰もがきっと、簡単じゃないこともあるかもしれないけど少しの勇気と努力があれば進めることばかり。今の私にはその"勇気と努力"が欠落してる。だからいっそのこと彼らから見放されてもきっとこの家は健やかに成長し続けるんじゃないかって。

結局全部都合のいい理由をつけて逃げているだけなんだけど、だんだん自分がどうしたいのかさえわからなくなってきちゃった。いや、どうしたいか?なんて考えている猶予もないし答えはしっかり決まっているのに。ずっと小さい頃から期限までに提出物を渡せず先生に怒られてばっかりで、もう怒る人もいなくなった。その代わりジワジワと自分の首が絞められて息ができなくなることも許されなくなってる。
当たり前だけど、どうしたって逃げられない物事は人生においていくつもあって"やるしかないからやる"でなんとか息絶え絶えも生活が続いていく。

『もうしょうがないよやるしかないよ』ってさ、これまで送ってきた自分の人生を振り返ってみると大きな財産なんじゃないかな。若い頃は捨てるものが何もないからすごく強くなった気でいたけど、守るものを失うことに怯えない日々は一見とても楽に見えるけど、私という人間にとっては目を覆いたくなるようほどの残酷な拷問よりも恐ろしくて苦しくて痛くて真っ暗だった。
朝起きてかつての空っぽだった人生に戻ってしまっていたとしたら、正気を失って人間を辞めてしまうかもしれない。

何故だかわからないけどいまは少し自分の気持ちが落ち込んでいて自分の中に決めている最低限のルールさえ破ってしまっているけど、それでもかつての人生と照らし合わせてみると今は幸せな夢を見ているようなんだよ。オットや娘や息子や猫にたくさんのものを与えられている証拠だな。
じゃあ明日はいつものルールに沿って部屋を隅々まで掃除し、保育園の申込書を記入して転職先を探し、オットのことを心の底から理解して慈しみ、娘や息子をいっさい怒ることなく全力で遊び尽くして一日を終えられるか?といったら絶対に無理なんだけど。だって私の気持ちはまだしょぼしょぼしてるし。

でも私は大前提として彼らに「見放される」ことなんて一ミリも望んでいない。若い頃のように大切なものをすべて手放して自分を傷つける形での自傷行為ができるほど心の体力は残っていない。これらを踏まえみると、いま目の前にある窮屈に感じるすべての物事や自分の愚かさを糾すことについて"放棄する理由"が実はどこを探しても見当たらない。

見放してほしくない理由しか、ここには残ってない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?