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愛すべきストレス

情報過多の社会に産み落とされて何もかも嫌になることが度々あったけど、0歳時の赤ちゃんと生活していく中でその感情がより鮮明になってる。彼らは言葉もろくに喋ることができず、目の前に広がる正解はすべて瑞々しいもものばかり。目に入るすべての情報が大きな刺激となって毎日が艶やかに彩られている。だからこそ、一つ一つの動作においても全力で向き合い、惰性という言葉の裏側を走り続けているみたいに。そんな赤ちゃんと生活をともにすると、世の中に溢れる情報のノイズがモスキート音のように鳴り響いて頭が痛くなってきたり。いっそのこと「赤ちゃんかわいい」の感情しか機能しない人間になりたいな…って思うことも。


もっと自分自身が賢くて、寛容で、煩悩なんてものが存在しなければ、いまよりもずっと有益な情報を取捨選択して咀嚼することができたかもしれない。どこまでいっても人間臭い生き物なので、己の思想から生まれるユートピアにはいつまでもたどり着くことはできないだろうな。


どうして、こんな話をはじめたのだろうか?難しい前置きはなしにしよう。ワタシは育児と家事の合間にSNSを楽しんでいる。SNSをには、さまざまな人間の感情が右往左往していて、自分が思いもよらなかったヒントが転がり落ちていることもある。しかしその逆も然り。だだ漏れになった他人の胸の内を汲み取ることで、怒り・悲しみ・憤り、などを感じて疲れてしまうことも。多分絶対、自分のような人間はSNSに向いてないのだろうな。でも、人間臭い一面を抑えることができないからこそ、いろんな気持ちで雁字搦めなることをどこかで楽しみながらSNSを眺めているのも事実なのだろうな。


そんなSNSを通して、最近とても刺激の強いニュース?を2記事ほど目にした。一つは「某芸能人が死産を発表」、一つは「ある小学校で起きた残虐な事件の被害現場にいた少年少女たちのいま」といった2本立て。この2つの話題に共通するのは、いつどこで死と遭遇するかは未知数であること…。自分が母親になったいま命を守るということがどれほど尊いことなのか改めて実感させられる。上記であげたニュースを目にすると余計に。赤ちゃんが何事もなく健康に生まれていきてくれたこと、大きな声で叫びながら目の前の物事に一生懸命向き合っている事実、そしてこれからも健やかに成長できるという保証。これらはすべて奇跡に近いことなのかもしれないと。

現時点では、自分の手元で我が子を育てている状態なので、命の保証はすべてワタシに委ねられる。一瞬でも目を離したすきに、意図も簡単に死と隣合わせの状況が常に纏わり付いてる状態。後に集団生活がはじまることで己の監視下から開放されれば、成長を遂げるにあたり「自ら命を守る」という術も必要とされる。『いつ・どこで・なにが起こるか』というのは、誰しもがすべてを予想できるわけじゃない。ふわっと当たり前のように生きている生活の中に、実は0距離まで命の危険が迫っていることもある。そんなことを考えだしたらもうキリはないよね。自ら命を絶つことを選択する人もいて、どんな形であろうとも最終的に残された人々だけがやるせない気持ちで心をなぶり殺しにされること変りはないから。

上記のような事柄が延々と頭の中をぐるぐるして、いまワタシの赤ちゃんが当たり前に大きな声を出して笑っている事実あまりにも尊くて、でもそんな感情は目まぐるしい日常にかき消される。常に全力の緊張感を持って生活を送ることは難しいから、気が抜けたときに手遅れの現実を突きつけられるのかもしれない。だからなるべく定期的に、我が子が眩しい笑顔で笑いかけてくれるワンシーンを心の中で強く抱きしめないといけない。


悲しいニュースはなるべく受け取りたくないと感じる一方、在る種の注意喚起みないなものが稲妻みたいに走ることも。人間はストレスがないと死んでしまうのと同じ?幸せに満ち溢れた話題ばかりではいざというときの危機管理能力も乏しくなってしまうように…。己を戒めるためにも、刺激の強い情報は適度に必要だったりする?なるべく健やかで穏やかに生きていたいけれど、その尊い時間を守るためには摩擦が必要なんだよね。

最終的に、冒頭で語った感情を否定する結果になってしまった。ワタシは賢く物事を取捨選択しながら自分を気持ちよくすることができない人間だけれど、この人間臭さがあるおかげで適度な刺激を受けながら日々のリスクに備えているとしておこう。物は考えようでいいのだ。


嗚呼、今日も赤ちゃんが健やかな時間を過ごせていて、本当によかった。

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