見出し画像

センチメンタルな旅

この話は過去に何度もしていると思うし、きっとこれからもふとした瞬間に思い出しては幾度となく語ってしまう。

少し遅めのお昼ご飯を済ませたベッドに連れて行き、二人で横になりながらコロコロと笑う彼女の丸いお腹をリズムよくポンポンと叩いているうちに突然入眠する姿を見ると本当に驚かされる。
さっきまで鈴が転がるように声をあげていたはずが、電池が切れたように目を瞑って寝息を立ててしまうのだから。その姿を目に留める中で、いま私の目線に写っているすべての流れをフィルムカメラで1秒ずつ切り取っておけたらなぁ…と思ったりして。タレ目でまん丸の真っ黒な眼差しが私を捉えながらも、夢の世界に旅立ってしまう瞬間すべてを。

その瞬間にふっと思い出したのがアラーキーこと荒木経惟の“センチメンタルな旅”だ。センチメンタルな旅とは、個人的なものを被写体とした「私写真」と呼ばれる写真集で、出版当時はそういった作品を世に出す写真家が非常に少なかったそう。
センチメンタルな旅は、アラーキーの妻である陽子がテーマとなった作品である。写真集の中では、出会いから別れに至るまでの色濃い時間がすべて残されている。陽子さんは1990年に子宮内腫で亡くなっており、入院に至るまでの日々や棺の中で眠るその姿までも写真集の中に掲載されている衝撃の作品だった。

この作品に出会った当時、夫と知り合い始めた。夫はハウススタジオで働きながら個人的にも写真に力を入れており、アラーキーのことについてもよく二人で話した。当時の私は写真という存在そのものに興味はあったものの、広く浅く上澄みを舐め取るように楽しんでいた程度だったため、実際に二人で会話を重ねていくうちに自分の中で少しずつ濃いものなっていたように思う。
私たちの出会いはマッチングアプリだったため、しばらくLINEのやり取りを経たあとに初めての顔合わせをした。その当日、彼は“写ルンです”を持ってきており、私との何気ない一瞬一瞬をすべて記録に残していた。

実際に顔を会わせる前、LINEでのやり取りで事前に「貴女の写真を撮りたい」とは伝えられていた。しかし当時の私は他人に写真を撮られることに恐ろしいほど抵抗があり、彼から向けられた言葉も少し躊躇していた。しかし現像された写真を見た瞬間にその恐怖がすべて吹き飛んでしまうほどの瑞々しい自分が映し出されていて。あの時の衝撃は今でもずっと私の記憶に刻まれている。

それから彼と付き合い始めて愛を育んでいく生活の中で、さまざまな私写真を撮ってきた。どこかで常に彼のシャッターが向けられる日常は少し気恥ずかしい面もあったが、少しずつ生活の一部に溶け込んでいき。現像した写真を二人で見返しては「いい写真だね」なんてケタケタと笑い合ったり。

数ある写真の中には、自分自身の精神が崩壊して自傷行為し、血の海となった一室で呆然と座っている姿も残されている。人によっては耳を疑う場面かもしれないが、あの一瞬でさえもシャッターを切ってくれた彼にある種の感謝に似た感情を覚えた。言葉ではうまく説明できないものの、撮影してくれたことへの有り難さではなく、カメラを向ける精神状態であったことが救いになっていたのかもしれない。

かつて夫と過ごした日々や何百枚に及ぶ生活の写真は、アラーキーの「愛情生活」に近いものをどこかで感じる。こんなことを言ったらアラーキーを好きな人に怒られてしまうかもしれないけど、私たちにしか残すことのできなかった“センチメンタル”な”旅や愛情生活”のような時間が数多くの写真たちに、濃密に、刻まれているのだ。

冒頭の話しに戻るが、久しぶりにセンチメンタルな旅を見返した時、ふと彼と過ごした生活のすべてが頭の中を巡った。そして最期まで妻の写真を残し続けたアラーキーの姿に、ふと涙がポロポロと溢れてしまい。
いまでは娘が産まれて互いの生活様式も大きく変わり、かつてほど写真を撮る機会も少なくなった。ただ、二人の写真ではなく娘の成長を見守る写真へと変化を遂げているのも事実。環境も大きく変わって映し出すものは変われど、愛情生活を切り取っている点では何も変わらないのかもしれない。

そして、手にとったセンチメンタルな旅を眺めながら、いつか彼よりも先に私の最期の時が来た際には棺に眠る姿を写真に納めてほしいと願う。これは単にアラーキーの衝撃的な作品に影響されているだけかもしれない。それでいたとしても、私はかつてのようにどんな場面でもシャッターを向ける彼の精神状態に救われていたいのだ。仮に、彼が私よりも先に旅立ってしまうことがあるのならば、下手くそなりに棺で目を瞑る冷たい抜け殻を写真に納めておきたいと思う。

そんな遠い未来を想像しながら、いろんな愛情が溢れてなみだがとめどなく溢れている。

私たちは運良く新しい命を授かることができた。彼と私、彼と私と猫、彼と私と猫と娘、日々変わりくゆく愛情生活を切り取るように。新しくこの世に産声をあげるであろう未知なるその姿に思いを馳せながら、なおも古い記憶を残し続けていきたい。

愛してるよ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?