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源助霊舎

窪田にとって、舟生源助は忘れていけない存在です。窪田町白山は窪田町通りの西側に位置していますが、かつては人家も少なく寂しい場所でした。
ところが、明治時代に入り、炭鉱が勃興すると、炭鉱から街への遊興を求めて多くの人が入り込み、舟生源助はこれに対応するため、明治31年(1898)に私費を投入して、窪田市街西側に料理店や待合、芸妓を集めた三業地を誘致しました。白山は酒井と川部村の道路が合流する交通の要所にあり、三業地が成立する要件がそろっていたのです。
誘致策が実って、明治時代から昭和にかけて、炭鉱景気を背景に各種遊興施設が進出。地元民は白山の字名を「源助町」に変更することを陳情するまでに至りました。
これは実現しませんでしたが、通称地名として親しまれ、昭和30年代までにぎわいをみせていました。今は、白山の西側に舟生源助の功績を祀る神社が祀られており、地元民による舟生源助に対する恩恵の念をみることができます。


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