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窪田町の発祥

窪田の発祥については、洪積台地から沖積平地に移行する地形を利用して集落が生まれたことから始まると推定されます。
江戸時代の元和8年(1622)には、磐城平藩の内藤家の婚姻関係にあった土方家が菊多郡内に1万石を与えられ、他国の領地と合わせて2万石の大名となり、大地の一角に陣屋(現勿来第一小学校)を構えました。しかし、御家騒動で元年(1684)に廃藩となり、以降は幕府領、棚倉藩の分領として統治されていました。この間、窪田は陣屋町として町通りを中心にいわき地方南部や常睦国多賀郡北部における商業の中心地として栄えました。
明治時代を迎え、明治30年(1897)2月、鉄道が窪田から約4km離れた関田に設置されたため、一時街は衰退しますが、明治42年(1909)に勿来駅前と酒井原(後に川部村まで)を結ぶ馬車軌道が施設され、明治時代後期からは勃興した石炭産業によって、街は消費地としてふたたび活況を呈するようになりました。
しかし昭和30年代から石炭産業は衰退。これに代わるように、街の北東部に十条(現日本)製紙が進出して街を支えますが、交通形態の変化で街の中央を通っていた国道289号は大高地区に付け替えられ、今、街は静かなたたずまいをみせています。

  • いわき市HPアーカイブ


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