ニーズカードを使って非暴力コミュニケーション(共感コミュニケーション)を体験する~キリスト者入門編②~

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エンパシー・サークルを実施する

 ここで以下のリンク先にある「共感(エンパシー)サークルのやり方」をエンパシーグループごとに声に出して読みあわせてください。ルールに従って、他人のニーズを推測し、自分のニーズに気づいていきましょう。自分のニーズに気づく鍵は、頭で考えるより、身体感覚です。自分の体が引き付けられる感じを大切にしてください。自分に一番近いニーズカードを選べたときは、身体感覚として腑に落ちた感覚、しっくりくる感じがあることが多いです。


エンパシー・サークル実施後に


十字架上の主イエスの祈りからNVCのニーズを考える

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23:34)
 有名な主イエスの祈りです。主イエスは、ご自身を十字架につけた一人ひとり、嘲笑する一人ひとりのことを思い、このように祈られました。さて、彼らのニーズは何だったのでしょう?
 ローマ兵に重たい荷物を無理やり運ばされて、嫌な思いをした人もいたでしょう。ローマ帝国の支配さえなければ、嫌々重たい荷物を無理に運ばされることもないのに…とボヤいていたのかもしれません。そんな中、イエスという人物が民衆の支持を集めていました。そしてエルサレムにやってくる。今こそ、軍事的に蜂起して、ローマ帝国の支配から解放され、自由になるぞ!と期待していたら、イエスという男はローマ帝国に対し軍事的なクーデターをするかと思いきや、全くそうではないようだ。あぁ、期待はずれ!期待した自分がバカみたい。そんな紛らわしい男は十字架につけてしまえ!「俺が期待した自由がないぞ!馬鹿野郎!できるものなら十字架から降りてみろ!」そんな罵声を浴びせた人もいたでしょう。
 さて、この人のニーズはなんだと思いますか?わたしの想像で書いている人物ですけど、彼のニーズは「自由」でした。自由になることを心から求めていたのです。自由になれない苛立ちが主イエスへの罵声となりました。しかし、罵声を浴びせたって自由にはなれないのです。その意味で、彼は「自分が何をしているのか知らないのです」
 当時の十字架刑は、現代のワイドショーでさらしものにされるところに近かったりします。現代において、不倫をした、薬物に手を出した…そんな人がいたら、視聴者の一定数は「ヒドい人ね」と見下します。その背景は、家庭や職場で認められたいのに、認めてもらえないうっぷんをワイドショーでさらしものになった芸能人を見て発散しているとも言えます。この人のニーズは「承認」です。ワイドショーを見て、見下して、「承認」された感じは多少あっても満たされるまでいくかは微妙です。おそらく2000年前も、主イエスを罵倒した人たちの中には「承認」を求めて、罵倒した人もいたのではないでしょうか。主イエスは罵倒して(多少は瞬間的にスカッとしたかもしれませんが)承認欲求が満たされるかというとそうでもなさそうです。その意味では「自分が何をしているのか知らないのです」
 わたしたちも、何かむしゃくしゃして、もやもやした気持ちのまま、誰かにつらくあたってしまうことがあります。そのときの自分のニーズは何だったのでしょう?「自由」をより感じたければ、別の手段もあったのではないでしょうか(例えば、ちょっと休憩をとって散歩するとか、短く趣味の時間を取る等)。「承認」が欲しければ、別の手段があったのではないでしょうか(親しい人と電話で話すとか、自分自身でも自己承認できるような納得できる家事をする等)。自分のニーズがわからないままでいたことが、他人ばかりか自分自身にも被害をもたらしているかもしれません。
 エンパシー・サークルで、自分のニーズに気づいてみて、それまで何かしらあった「むしゃくしゃ」や「もやもや」のようなものから自由になった手ごたえはありませんか。
 「何をしてほしいのか」と主イエスは問います(マタイ20:32)。その割に、わたしたちは自分の必要(ニーズ)がわからないまま、まごまごし、また自分や人につらくあたることもしやすい者です。そんな中、非暴力コミュニケーションというツールを通して、ニーズに気づくことは自分自身の平和、隣人間との平和を築く上で有益であることをお伝えできればと願っています。

ニーズそのものは罪でないし、美しい 

 NVCではニーズそのものは生きるうえで現れてくる求め、必要であって、それ自身を罪とは考えません。ニーズを満たす手段が不適切だとそれは罪となります。たとえば、「食べ物」を欲している人がいて、食べたいなぁという気持ちや食べること自体は罪ではありません。しかし、空腹だからと言って盗んだり、奪ったりして食べているならそれは罪と言えます。「承認」というニーズも周囲と信頼関係を築き、この人にこの奉仕をしてほしいと認められること自体は罪ではないことはおわかりになると思います。しかし、人を蹴落としてでも認められたい、となると、それは不適切でしょう。アダムでいうなら、神様に「承認」され続けたいから善悪の知識を食べない、ということもできたでしょうし、神のようになって認められたいと思う中で、善悪の知識の木の実を食べたなら、「承認」というニーズを悲劇的に満たそうとしているとも言えるでしょう。「承認」というニーズ自体はその人が生きようとしている命の美しさとNVCでは考えます。満たす手段が不適切だと時に暴力的なものとなったり、罪深いものとなったりするのです。自分の中にあるニーズを神から受けた命が生きようとしているほとばしり、美しさと見、他人の中にあるニーズも神から受けた命が生きようとしている美しさとして見ることができるなら、なんと素敵なことでしょうか。


ふりかえりのヒント

1.最近、あなたが誰かにつらくあたったとき、あなたの満たしたかったニーズは何だったのでしょうか?あなたのニーズを満たす手段は他人につらくあたる以外に何があるでしょうか?
2.自分や他人の中にあるニーズを美しいものとして見ていますか?

あとがき

 この文章は、大頭眞一氏が90分でニーズカードを使ってNVCを伝えるにはどうしたらよいか、という問いかけがきっかけで書くことになりました。なんでも牧師の妻たちの研修で伝える、ということで、聖書に忠実であることを願うキリスト者たちにすんなりNVCを体験できるものであれたらと思い、執筆しました。彼を通して、この文章を書く機会が持てたことをうれしく思っています。

 NVCを学びたければ、ネットで検索すれば、日本語で学ぶ環境はそれなりにあります。しかし、キリスト教的に消化されたNVCを学びたければ、その機会や文章は決して多くはありませんので、この文章をそういった方々に活用いただけるなら望外の喜びです。


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