無題

天理人文:久保家左手の法則

皆さん、こんにちは。久保家です。

久保家のリビングにはホワイトボードがありまして、毎朝、そこに夫が考えたことを描いて、朝ごはんを食べながら夫婦でディスカッションをしているのですが、その内容をコンテンツとしてまとめてみようというのが今回の試みです。

コンテンツ名の「天理人文」は夫の造語でして、理系の夫が夢想した万物に通じる自然の道理(これが天理ですね)を、文化に詳しい妻との対話を通じて、言葉(文)にまとめるという意味です。

夫は理系出身ですが、割と「見えない」世界の話が好きです。自然科学(数学や物理)、テクノロジー、社会科学、歴史、文学、宗教のような分野に興味があります。妻は文系ですが、幼い頃から芸術関係の学校に通っていたこともあり、芸術・美術、心理学、社会科学、生物学、テクノロジー、哲学などに興味があります。

抽象的・空想的・観念的な夫と、具体的・現実的・実存的な妻が話をして、コミュニケーションが成り立つのかと思われるでしょうが、夫婦というのは面白いもので、差異があるほうが会話が弾むのですね。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、本日のテーマは「久保家左手の法則」です。言うまでもないですが、この左手でモデルをつくるという方法は、中学の理科の時間に出てきた「フレミング左手の法則」を参考にしています。

夫は、この左手を滑稽に動かしながら、パズルを解くように問題解決をするというスタイルが大好きでして、これこそ、教育の王道だと信じております(笑)頭で覚えるのではなくて、体で覚える。体を動かすことで頭が働き、言葉を生み出し、法則が再現されるという流れが、人間の考えるスタイルとして健全な気がします。

「久保家左手の法則」は、「楽しさ」「美しさ」「正しさ」という3つの関係性を表す法則です。

まず、「楽しさ」ですが、これは楽しいことを伝えていくことが大切だということです。今の日本は「安全な日本」だと思うのですね。安全という意味では世界一安全なのでしょうけど、それが絶対的な正義みたいになってしまって、楽しいことが抑制されていると感じるのです。

例えば、僕の地元の播州ではお祭りが盛んなんですけど、昔はお祭りで死ぬ人とかいて、祭りで死ぬなら本望だって人が多かったんですね。すごく狭い場所で屋台を練り合わせたりして、屋台に挟まれて大怪我する人も後を立たなかったわけです。

最近は、そんな話をすると怪訝な顔する人が多くて、危険なのでやめておけ、安全第一だとなるのですね。楽しいことよりも、安全が重視される時代になり、すっかり少子高齢化社会になってしまった。祭りの日に子作りしないからですよ(笑)

堺屋太一先生が「安全だけでいいなら、監獄に入ればいい。それでもみんな入りたがらないのは、監獄には幸福を追求する選択性がないからです。その意味で、今の日本はまるで監獄国家とも言えるほどです。その監獄国家から、幸福の追求ができる選択国家にしなきゃいけない」と言っておりまして、まさにその通りだと思うのですね。

ですから、21世紀は楽しい時代にしなくちゃいけない。楽しいことが、良いことだと、素直に言えるような社会にしたい。楽しいことは自然と伝わりますから、その流れを止めてはいけない。止めるのは、自然の道理に反するのじゃないかと思うのです。

次に、「美しさ」。これは定義が難しいのですが、ここではプラスとマイナスが打ち消しあって安定する、調和の状態になるのが「美しい」と考えます。

岡潔が「数学の本質は、調和の精神」と言っておりますが、夫はこの言葉が好きでして、放っておいたらエントロピーが増大して発散していく宇宙の中で、なんとかうまく散らかったものを整理して収束させたいと思う人間の気持ちといいますが、生命の本質のようなものに愛おしさを感じるのですね。

先に「楽しい」ことは良いことだと述べましたが、楽しいことと、美しいことが絡み合うところに、目指すべきものがあると思うのです。なんか、スピリチュアルみたいな感じになってきましたねw こうやって一人で考えていると抽象化し過ぎるので、久保家では対話というものを重要視するわけです。ウィトゲンシュタインではないですが、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」ですね。

最後に、「正しさ」。これがわかれば人生は成功したも同然です。正しいことをすれば、成功するのは当たり前ですから。「久保家左手の法則」の一番重要な部分にして本質。「正しい」こととは何か?

ここで宗教の登場です。正しいと言えば、昔から宗教と相場が決まっています。小室直樹先生の「イスラム原論」を読んで思ったのですが、イスラム社会であれば、正しいことがコーランに書いてあります。「宿命論的予定説」という、因果律と予定説のいいとこどりをしたような論理構成をとっているため、非常に一貫性が高く、まさに人類の叡智です。コーランに書いてあることを信じて、実行すればいい。そうすれば、人間は小室直樹先生の「イスラム原論」を読んで思ったのですが、イスラム社会であれば、正しいことがコーランに書いてあります。「宿命論的予定説」という、因果律と予定説のいいとこどりをしたような論理構成をとっているため、非常に一貫性が高く、まさに人類の叡智です。コーランに書いてあることを信じて、実行すればいい。そうすれば、人間は幸福になれます。

しかし、日本社会はイスラム社会ではないですから、そのような方法は取れませんよね。それに日本人、特に関西人は規範というものが大嫌いです。その民族性は考慮した上で正しいこととは何かについて考えてみる。

ここで「久保家左手の法則」の登場です。左手を見てください。中指が「楽しさ」、人差し指が「美しさ」、そして中指と人差し指の90度の方向に「正しさ」があるでしょう。つまり、楽しいだけでもダメ、美しいだけでもダメ、間違ってはいないけれどズレている。ですから、楽しいことは正しいことだとか、美しいことが正義だとは言えない。

楽しいことや、美しいことは個人によって人それぞれだから、正しいことも人それぞれ。誰にとっても正しいことなんて、お釈迦様でもわからない。でも、左手を見たら、だいたい親指は上を向いているでしょう。ですから、お互いの違いとか、価値とか、意思を認め合って、楽しく、美しく、上を向いて生きていきましょうというわけです。

はい、以上が夫の夢想したことですけど、対話に移りたいと思います。

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