ぶち転がせ!思想道場!
世の中にはテンプレートというものがある。
いわゆる型であり、それに当てはめることで綺麗に作品が出来上がる、というものだ。
書いてて思うんだけどさ。
なんかムカつかねえか?この文。
最初から説明しようしようとしてムカつくんだよな。
確かにその方が読みやすいけどさ。
自由じゃねえんだよな。
世の中の全部ぶっ壊して、勝ち誇ろうとする奴はもういない。
悲しい。
みんな生きていこうとしている。真っ当に、できるだけ真っ当に。
アンチテーゼがいない。衆目に晒されなくなっている。
頭がおかしいことひけらかしてゲラゲラ笑えよ。
人間、というものが最近どんどん許せなくなってきた。
私は他人を愛することができない。自分にしか愛着がないし、それを他人に持つことができない。そういう奴はいっぱいいる。しかし、それを他人には晒さない。もしくは自覚していない。なんで?
ある時から嘘がつけなくなった。というよりは、パーソナリティを隠すことが無理になった。自分のことを全て話した相手でなければ、その人と対話することさえできない。なのでそうでない人と話すときは、大概話さないか、上部の会話を繰り広げている。
自分のことを知ってほしい、という自意識が暴走しているのだとしたら、こんなにも悲しいことはない。私という人間のキメラを他人が理解できることはない。つぎはぎだらけのモンスターである。そのため知ってもらうという行為は基本的に意味をなさない。私という人間はどこにもいない。
文章として書くことで自分への理解が進んだ。要するに、影響されたものに甘んじることが嫌なのだ。
人間は生きている以上、他の人からの影響をどこかで受けている。それがなんであるかは人それぞれだけど、わかりやすい例で言うならネットミームや流行かもしれない。
私は、それがなかったはずの人間の姿を夢想する。
私はかつてより、チャットサイトで人格形成が行われてきた。
かわいくなりたかった時に、文字だけだかわいくなれるのだからあこがれないはずはない。
チャットでかわいくあるためのテクニック。と言うより、自分が思うかわいいに全力だった。
ただ、これは自分しか見ていないのだ。
自分で自分のアイドルに縋っている。滑稽だ。
この姿は、あまり人に見せられるようなものじゃない。
そう気付いた時から、インターネットの自分というものはダメになった。
この、私の中のインターネットに造られた部分を切り離したくて切り離したくてしょうがない。だから、人のインターネットに造られた部分を見ると過剰に反応してしまう。殺したくなってしまう。
真っ当に自分を愛せているものへの僻み。
自己肯定ができない分、他人を殺して誇ろうとする。
まとめ
私は、偶像の自分しか愛せなかった。故に他者への関心が薄く、愛情を持てない。それゆえに、他人をちゃんと愛せる人間を見ると死にたくなってしまう。
しかし、偶像の自分しか愛せなかった自分のような、自分のことしか考えていない人間を見ると同族嫌悪で殺したくなってしまう。
私の性格は、インターネットというものに影響を受けたことによって生まれたように感じている。いろんな人の直接的な思考を浴びたことで混ざってしまった。
やばい訳分かんなくなってきた。
人一人の思考を文章にまとめようとしているのが間違いなのかもしれない。
困った時に思いつく言葉が、殺せ、か、助けてくれ、しかない。
殺伐。
好きに文章を書き殴ることは楽しい。
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