#9 ことば選び

ごきげんよう!
ご覧いただきありがとうございます。


導入

先日、「琴線に触れる」と「逆鱗に触れる」がどうやら混同されているという話題をSNSで目にしました。
これを皮切りに、難しい日本語や正しい日本語について多様な切り口から盛んに議論されていたかと思います。
この記事では、それらの議論の中心にあった、言葉や単語についての難しさや正しさを語ることはしませんが、言葉と自分の性格・性質について思うところを記しておきます。

この語り口から推察される通り、この記事も随分と寝かせてしまった結果、何を書こうしていたのか忘れてしまったので今回は内容もふんわり、量も少なめです。
なお、書いている途中で若干センチメンタルになったので、文章として醜さが目立ちます。許してください。

本編

私自身、どちらかというと言葉に対して敏感な性質があると感じています。
(もちろん自己評価なのでそれが正しいかは分かりませんし、あくまで相対的なものですが、一旦これを前提に進めていきます。)
そしてこの性質は私のややこしい性格の形成に間違いなく一役買っていますが、それ自体は「悪くない=消極的に好ましい」と感じています。

この性質は、幼少期の私の好奇心が先天的に言語(特に日本語や平仮名それ自体)に向いていたことに加え、両親の教育方針という後天的な要素により獲得されたのではないかと推測しています。
なぜなぜ期はありませんでしたが、「これは何か」「それはどういう意味か」という問いを頻発する期間があったようです。
この時少しでもアルファベットに興味が向いていたらもうちょっと外国語ができるようになったんじゃないかしら…

まず母親の教育方針についてですが、言葉の意味をすぐには教えてもらえませんでした。
少なくとも4歳(記憶がそこそこ明瞭に残っている)頃以降から、母親に「○○ってどういう意味〜?」と尋ねて、素直に「××××ってことよ〜」と返ってきた試しがありません。
必ず「何のために辞書があるん?自分で調べなさい。」と言われていました。
いや言葉キッッッツ、でも原文ママなんですよね…
現代風に言うところの「ggrks」と同義なので、以降この方針を「ggrks教育」と呼びます。
一見強烈なggrks教育ですが、このおかげで辞書を引くことを苦痛に感じたことがありません。
己で手を動かしていることが功を奏しているのか、ただ人に尋ねるよりも内容がすんなり頭に入ってきますし、記憶に残りやすかった気がします。

次に、父親の教育方針(クセに近い)についてですが、6歳頃からは間違った / あまり適切でない言葉を選ぶと「それはなんかちゃうな、変な日本語やな」と即座にツッコみが入っていました。
特にニュアンスの差への指摘が鋭く、日常会話に一定水準以上の正確さが求められていたように思います。
私としては出鼻を挫かれるので「どっちでもええやん…」となるときもありましたが、今思えば厳しい物言いではなかったことから、私の話をちゃんと聞いてあげようという配慮の表れだったのかもしれません。
流石に過大評価しすぎかも?
もちろんこの後、言葉の持つニュアンスがどう違うのかを辞書で調べて家族間で話し合うまでが1セットです。

このような方針の影響を多分に受け、紆余曲折を経て形成されたのが現在の私です。
今日も誰も読まないかもしれないnoteや、X (旧Twitter)の字数制限ギリギリのポストや下書きをせっせと拵えています。
水族館では水槽と近くの説明書きなら後者の方を長く見てしまいますし、「死に急ぎ」と「生き急ぎ」のニュアンスの違いについて考えたことをLINEで友人に聞かせるような人間になってしまいました。

そして、上述の通り言葉について敏感な性質を手に入れました。
ヤフコメやバズったポストの引用欄の過激な言葉遣いはげっそりしますし、書き込んだ人の本当の意思を正確に説明できていないようにも感じます。
Xのポストで特に文章として長いものは推敲のために下書きに入れて見返せるようにしてしまうため、常に文字制限カツカツで10個ほどのストックがあります。
ところで最近下書き機能が使えなくなっていませんか?とても困っています。

性格については、自分が考えていることや感じたことを正確さに重点を置いて言語化してから再認識するため、自身の内面の理解にとても時間がかかります。
大雑把な例えですが、「うわ今の私は悲しいかも!」と思ってから2日くらいかけて「『悲しい』ではなく『落胆した』が正しいな…特に○○の部分についてだな…××についてはむしろ『安心した』というのが適切かも…」と反芻してようやく自分の感情に名前をつけることができます。余談ですが、この5日後くらいにその話を友人に話す過程で「ただ『安心した』のではなく『溜飲が下がった』の方が近いぞ…」となることがあります。

総括

改めて厄介すぎる!!!!

厄介には違いないですが、自分のその性格を嫌いかと問われると、どちらかと言えば好きであり、きっとこれからも変えないだろうと思います。

コミュニケーションにおける発信側として私が目指しているものは、私のことを知ってほしい相手や私のことを知りたい相手には、私のことを正確に かつ 諦めることなく伝え続けることです。
相手に伝えることそれ自体をやめることはもちろんのこと、相手を傷つけて伝えることも、諦めるに値すると考えています。

そして、諦めないために私ができることは、充分に正しい言葉を探すことのみになるのではないかと思っています。(ここでの「正しい」には正確さだけではなく手段としての適切さを含みます。)

私にとって、ことば選びは自分自身の思いと相手方に考えを巡らせることができる大事な手段です。
語彙も少なく、精神もまだまだ未熟で、常に意識できているわけではありませんが、これからも私なりにことば選びに邁進していきたいです。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
それでは、またこんど!

かちょり


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