雑記『君たちはどう生きるか』、あるいは芸術のこと

『君たちはどう生きるか』。話題になっていますね。僕はほとんどジブリに触れてこなくて、というか映画をほとんど観てこなかったので、この映画の内容について何か言えるような立場にないんです。だからあらすじを書いたりしないし、ここがどうだった、みたいなことも書きません。書けません。でも、まったくあの映画に触れたくない、という方は読まない方がいいと思う(そんな人、そもそもこの記事にアクセスしてないか)。掬った灰汁くらいは書いてしまうつもりだから。

ジブリで、観たと自信を持って言えるもの、ひとつもないんです。幼いころーー幼稚園に通っていたころーー『千と千尋の神隠し』が公開され、ものすごい人気を博し、何度も観させられました。内容も何となく覚えているのだけれど、いま観ると抱く感想は変わるだろうし。ジブリどころか映画さえほとんど観ていない人間の言うことだ、ということを最初に分かっていてもらいたい。

『君たちはどう生きるか』。これはねえ。はじまってすぐ、「おれのやりたかったことだ」と思いました。レビューは文字通り賛否両論で、「子ども連れのお母さんが開始20分くらいで席を立っていた」と書かれていたのが印象的でした。そのお母さんがどういう意図だったかはともかく、僕もまったく同じ気持ちだった。もう、開始20分でいいんですよ。お前のやりたいことは分かった。すごいよ、と。
それは、肯定的な意味でね。色んな方が言っていますが、この映画は芸術なんです。じゃあ芸術って何だ?というと、本能だと思います。自分の中にこびりついて取れない、誰にも理解されないもの。狂気と呼ばれたり業と呼ばれたりするもの。たとえば、それを具現化したのが『太陽の塔』です。が、ここではそれをアニメに、映画にしています。
芸術の厄介なのは、こびりついているそれが、うまくほじくり出せるかどうか、作品が完成するまで分からないんです。そしてその完成はごく稀で、奇跡に近いことです。そこに実力はほとんど関係がない。描き始めたばかりの者が完成させてしまえたり(猫田道子『うわさのベーコン』)、生涯かけてもたどり着けなかったりする。

話がそれました。僕がこういった作品を好きなのは、教訓めいていないからなんです。いや、たまにはそういうものもいいのだけれど、やはり、至高は芸術にあると思う。ここにあると思う。
理由は色々あります。まず、「作るのが難しいから」。僕はこういったものを作ることの難しさを、先生が、「キャンバスにキャンバスを描く」と語ったことをよく思い出します。何を描いたって、観た人は何か考えてしまいます。それは、描いている側もそうです。「こんなことが言いたい」。「こんなこと、誰も言ったことないんじゃないか?」「こんなふうに描くとかっこいいんじゃない?」「こことそこ、矛盾してない?」そう囁く自分自身との格闘。それが1番辛い。描きたいものなら、矛盾したっていいんです。でも、わざと矛盾させてもいけない。
言いたいことは、誰かが絶対に言っています。芸術以外に、本能以外にオリジナルなんてありえないんです。そして、本能で描かれたものは、決まって唯一無二です。「お前らもおれの真似をしろ、こう生きろ」なんて、そんなふうに書かれた作品は、自分が疲れている時に寄り添ってくれません。そういうことを嫌うんです。芸術は。何も思われたくない、何も伝えたくない、だって、これは自分の中にある欠片なのだから。自分だから。じゃあどうして描くのかって、たまらなく楽しいんです。説教も楽しいですが、説教よりも楽しい。砂場で山をつくることに意味を求めることの無意味さに近いかもしれません。やりたいからやるんです。だから本能だと思っています(じゃあ砂山は芸術なのか?そうです。あなたが作りたいと思って作った砂山は芸術です)。
次に、「古くならないから」。芸術は古くならない。そして、限りなく広い。だって、メッセージが無いんです。ドラえもんがそこらじゅうで飛び回る世界にも、侍が馬で百姓の頭を踏みつぶす世界にも芸術の価値は変わらない。どんな環境に生きていても、国が違っても時代が違っても、言語が価値観が違っても、その人の中で芸術は燦然と輝き続けます。
最後に、「否定しないから」。そのキャンバスは真っ白(あるいは真っ黒、あるいは真っ青、あるいは真っ緑、あるいは……)です。だから僕があの映画についてどんな解釈をしようと、あなたがどんな解釈をしようと、20分で退席したお母さんが何を言おうと正解です。そのキャンバスの前に人間は無力です。作者さえ。それはその作者のものですが、それはその作者ですが、どうして出来てしまったのか、誰にも分かりません。

何か食べたい、眠りたい、というのは生存のためです。では、誰かを抱きたいというのは?それは、生存のためでも、子孫繁栄のためでもないと思う。だってそれなら、コンドームなんて代物、受けつけるわけないから。眠るときに目を開かれているのと、食べるとき口にラップを覆われているのと同じことですから。本来の目的がそれ(生存、繁殖)なら、付けた瞬間に萎れるはずなんです。人が人を抱きたい(抱かれたい)と思うのは、その人を知りたいと思うからです。その人の、他人に見せない部分を、誰にも見せない部分を見たい。感じたい。これ、芸術と似ていると思うんですよね。僕はこの映画を4回観ましたが、4回宮﨑駿に抱かれたわけです。抱いたわけです。彼の、それを見て感じたわけです。これ、あんまり共感されないのだけれど、わかる人いないかなあ。誰か味方になってほしい。でないと、ただの変態だと自分を決めつけざるを得なくなってしまう。

ともかくね、こういう作品が大好きなんです。おもしろいですよね。人は理性で人の形を成しているのに、本能をむき出しにすると、こんなにも人を惹きつけるのか。
と言っても、最初に書いたとおり、この映画、賛否両論です。YouTubeのレビュー動画なんか見ると、否定的意見の方が多い。「おれのやりたかったことだ」と書きましたが、僕は、こういうものが、賞賛される社会を作りたいんです。文学で。なぜって、それは、僕の大好きなもので、でも、「かっこつけてる」とか「誰でも描ける」とか「気持ち悪い」とか「意味が分からない」とか否定的な意見が多いから。それをひっくり返して認めさせることは、ある種、自分が認められることと同義だと思うから。あと、これを好きな人が増えれば商売になるし、商売になれば作る人が増えて、僕はその分たくさん読める(観られる)から。供給が足りていない。もっと抱きたい。抱かれたい。
映画をまったく知らない僕でも、顔も名前も過去作品も知っているような人が、これまでやってきたことをひっくり返して『君たちはどう生きるか』を作り、上映した。そして、低評価もあるけれど、高く評価している声の方がやはり多い。そのことがすごく嬉しかった。そしてーー変な言い方になるけれどーー否定的な意見が多いのもまた、嬉しかった。これが多方面から絶賛されていたら、きっと僕は、することが無くなってしまっていました。この評価を変えたいんです。良いものは良いものなんだって、語り継がれるべきものだし、作り続けられるものだから。僕の死ぬまでに、この評価を底上げしたい。どうすればいいかなあ。とにかく、強く励ましてもらえた映画でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?