ココア共和国2021年2月号雑記

はじめに

過去を振り返るシリーズ、第2弾です。本当に、ココア共和国は、変化してきた、そして変化してゆく詩誌なのだなと。つくづく感じました。みんなで作っているバンドみたいなものなのかもしれない。方向性の違いで解散してしまうようなことがないように祈っています。

傑作集Ⅰ

『ドッヂボールの詩』入間しゅか
ドッヂボールを小学生のころにやるのは、都道府県関係なく共通なのでしょうか。大好きでした。ドッヂボール。

<ボールだけが自由に陣地を移動できて、/ボールだけがひとりぼっちだった。>この詩は前後半があって、ここが転換点です。詩を書く人には色々な癖や特色があって。この詩の前半だけで成立させてしまう人と後半だけで成立させてしまう人がいます。どちらが良い悪いはもちろん無いのですが、両者には渡りがたい大きな溝がある、と考えていました。私の例でいうと、後半のようなタイプです。が、前半のようなものは、おもしろいと思っても、書いてみたいと思っても、逆立ちしても書けません。その逆も然りのようです。
だから作者さんのすごいのは、どちらもを書けてしまっている……ところももちろんなのですが、また、両方がうまくこの詩に混ざり、風味を損なっていません。どちらもこの詩に必要です。それがすごい。そして、またもうひとつ。「ボール」視点からいつの間にか、「ぼく」視点になっているところ。あっちこっちに行き交うボールを描写していて、そこからグンとズームバックさせています。そこに違和感がない。「ぼく」は、最後の4行にしか出てこないのに、読後にしっかり彼の姿が浮かびます。また、前半にも手を抜いていない。おもしろいし気持ちいい。はじめから「ぼく」視点だと、暗くて狭い詩になり、世界観が広がりません。ボールを加えるところに、陰と陽がくっきりと、読者の入りこみやすいかたちで全体像をつくりあげています。

傑作集Ⅱ

『冬ごもり』山口波子
こういう詩、すごく好きなのですが、横書き記事の特性上、魅力を伝えにくい……実際に読んでもらうのが1番なのですが。

ねむい、書けなくなる……ということを文字に起こしているものはいくつか見たことがありますし、私もあこがれたのですが、なんだかうまくいかなかった。この詩は、多く読んできたこの類のもののなかでも、ずば抜けてうまく描写されていて、文字あそびも含め、すごいです(実際に読んで欲しい)。
どんどん書けなくなってゆく、言葉が拙く、うまく話せなくなってゆくさまの描写。これの素晴らしさも然ることながら、<やがてまぶ/た/も/溶/け/て/き/ま/した><コーヒーが冷めるのにかかる時間が伸びるまで/ぐっすり/越せる、越せない、/占う前に花は枯れてた>このうまさ。作者さん独特の味が出ていて、「コーヒーが冷めるのにかかる時間が伸びるまで」。声に出して読みたいです。文章を読むこと、書くことの魅力を見出していて、さらに、切磋琢磨してきたのだろうなと感じます。でないと、この1行は出てこないのではないか。
冬ごもり。これ、コーヒーや花占いが出てくることから、きっと人間なんですよね。熊や鼠やの動物ではなくて、人間の主人公が、冬に溶けて眠る。だから言葉巧みでも不自然じゃないし、どこか神的な要素も感じます。どの点から視てもすごくて、とても私には書けないものです。


『うさぎ』松本侑子
『不思議の国のアリス』についての詩です。あのうさぎ、私も大好きで、すごく気持ちが分かります。友だちになりたいし、ああいう風になりたいな、とも思います。

私があの、不思議の国に導いてくれるうさぎを好きなのは、ここではないどこかへ行きたいからです。めちゃくちゃな夢を見たいから。でもうさぎはいません。だから小説や映画や詩に求めている気がしていて。それら芸術作品の作者のメタファーのような気がして、私もうさぎのようになりたいな、と思いながら、うさぎが大好きなんです。
その感情をそのまま詩にしてくれている、と感じました。すごく静かな詩なのですが、感情の爆発が見えます。良い子の恋も良い子の私も諦めたその背景には何があったのか。もっとおもしろいものを、めちゃくちゃなものを観させて。というだけでなく、こうなってしまった主人公の背景を想像せざるを得ません。なのに、何ひとつ言及されていない。何も無い現実への疲れ。共感したと同時に、あのうさぎの魅力を的確にあらわしながら、背景に涙が見えるこの詩がすごく好きです。

傑作集Ⅲ

『愛してるなんて』古賀ふたつ
すごく短いです。だからこそ、響きます。

いやあ。いいなあ。分析なんてできないです。
私も言えない人間です。だから、地球最期の日だって言えないその気持ちはすごく分かります。でも、心底ではあるんです。愛してるという気持ちが。でも言えない。言いたくないとは似てるけどすこし違うんですよね。言えないんです。出来るけど、出来ないことってありますよね。身体が動かない。口が動かない。感情としてはっきり存在しているし、そう言われたら、同じく返すべきだと分かっているのですが。
<道端で花が咲いたら言えるかも>これは美しいからとか、どんな花とか、そういう意味じゃないと思うんです。「太陽が眩しかったから」人を殺してしまった異邦人と同じく、理由もきっかけもなんだっていいんです。そういう理不尽なことが、とても他人には理解できない感情が人間にはあります。
ううん、やっぱりこの詩は、この詩だけでとっぷりと浸ったほうが良いですよね。きっといつか、この主人公はそのことばを口にしてくれるでしょう。不器用だけど優しくてあたたかくて、すごくいいです。

佳作集Ⅰ

『ほんとうの冬より』らみちか
難しい詩だ、と感じました。一筋縄にはいきません。

使われている言葉ひとつひとつは難しくないのに、全体がうまく掴めません。読者はスっと頭に入ったのでしょうか。言葉はこびが、偶然私の理解しにくい種類なだけなのか…。
この詩の時系列は2つあります。現在と過去。過去は、ほんとうの冬を記憶している、10年前、学生のころの主人公です。1節目だけが過去、2、3、4節目が現在。
こことの比較。過去の「ぼく」は学校へ向かっていて、「ぼくたち」はあさってに呼ばれていました。よるのうちに冷やされた空気を、酸素を朝に感じ、世界の一番向こうまで焦点を合わせることだって出来ました。
現在の一人称は「私」になっています。唯一みんなと繋がっていた器官が鈍くなり、空気の濁った、だれにも見つからない部屋で幸福を抜け出し、きらきらしたいと、みんなを愛してみたいと思っている。そして最後。<明日がうまれない日/それでも続いていく時間が/繋いでゆく未来 を/照らしてほしい/春のこもれび>で締められます。
うん、やっと少しだけ分かった気がします。
私がこの詩を取り上げたいと思ったのは、後半のたまらない孤独感、熱く端的な表現からです。あさってに呼ばれていた過去、明日がうまれない現在。くどくなく、さらりとした対比がすごくかっこいいです。ここまで分解して、やっと少しだけ見えてくるくらいに薄められていて、でも一見でその熱が伝わる。
春と冬。冬は悲しげに、春は希望が描かれがちです。でもこの詩では逆で。春がこのうえなく孤独に描かれ、そしてだからこそ、学生のころのほんとうの冬が魅力的に感じられます。過去と現在なら現在が重きに置かれるはずだし、タイトルだって春のこもれびにしてしまいがちです。でも、あくまでメインは前半、タイトルもほんとうの冬より。で、メインを前半にするからこそ、後半も輝き、互いに照らしあっています。
技術が光る、頭の良さや経験だけではつくれない沼のような深さ、複雑さを感じました。これくらいやらないと、この輝きは出せないんですね。つくる側として、落ちこみました。


『排卵期』八尋由紀
2部構成の詩。いやあ、これもまた難しいです。私は男なので、排卵みたいな、女性ならではの感覚が掴みきれないのですが、詩にしたい魅力があるのは、すごく分かります。

引用では伝わりづらいのですが、この詩は明らかに2つに分けられています。段落が区切られ、一節ごとに順々に繰り広げられます。ひとつは女の股の下をくぐった男の詩、もうひとつはすべて「私」から始まる詩です。男の詩から始まり、「私」の詩で終わります。ここが関係ないわけがなくて。
ううん、やはり『排卵』がテーマでしょう。<発光しない太陽は照り、濡れない雨は降り、苔野原は広がりをやめない。>ここ、女性器でしょうか。この記事ではそう決めつけて進みます。苔が執拗に出てくるのは、陰毛でしょう。だとして。<一週間ほどで岩は苔に包まれ、見えない風景画に閉じ込められた男は、ひとつの緑色になり、やがて芽となり、女の股から、発芽する。>岩になった男は苔に包まれ、芽となり、女の股から発芽し、この詩はおわります。
それではもうひとつの詩。<私は、影の濃い重なりならば、まだ産まれない泣き声が、下腹の内から、聞こえるのです。><私は、花畑の全ての花を、毟ることに成功し、全ての花を、燃やし尽くしたのです。><私は、あなたの波打つ、脈、道、から、流れ滴る液を、喰って、喰って、喰い尽くしたのです。>なんだか物騒ですが、この女性も、妊娠しているのでしょう。ひとつめの詩の男は、この女性から生まれたのか?いや、ちがう女性でしょう。最後。<私は、黒い下着を、身につけています、あなたのお葬式とお誕生日の、お祝いをしましょう。>これは、生まれた瞬間に子どもが死んでしまったことを示唆しています。だから……どうなのだろう。ひとつめの詩の男の可能性も充分ありますが。これはすごく感覚的なもので、根拠はないのですが、たぶんふたりは違う女性です。あんなに強く生まれ、芽吹いた男がそんなに簡単に死ぬはずがない、と思うんです。花畑の花をすべて毟り、燃やしてしまったこの「私」が、ひとつめの詩の男を生んだ女性なのか、そうでないのか、そうでないなら、なぜ同じ詩に入れる必要があったのか。きわめて生活的で人間的な「私」の詩と、ファンタジー色が強く、比喩にまみれて美しい「男」の詩、その対比と関係性に答えは出ません。し、ありませんが、印象的な詩です。またリベンジさせてください。


『マーチ』林 やは
マーチは、行進曲のことです。そしてこの詩には、パレードが出てきます。この詩が載っているのはココア共和国2月号ですが、3月、という意味のマーチは関係ないでしょうか。なさそうな気がしますね。

はい。やっていきましょう。<ぼくの熟れたところから、聖域に達したきみが、分泌させる、ということ、そんな神聖なことを、きっと性愛だといって、おわらせてしまうことについて、ぼくたちは語らないといけない。>ここから始まります。これはセックスのことです。セックスはもっと神聖なのではないか、性愛と終わらせていいのか、がはじまり。
<類をみない、欲望に、ぼくらの神秘があるじゃないか、星のことだよ。きみは美しい存在になれるから、産むのだ。ぼくはそれを見つめているから、どうにも育てられなくなったら、その腹を、放とう。至福のこと、愛のこと、すべての偽りのこと、この、こと。悦に、いつか死体になるとき、星は、ぼくらの星ではないから、ぼくたちはある意味では、誕生を、祝福する。/(さきに死ぬよ、不老ではないから。)星が出てきました。星は、この詩ですごく大切な言葉です。そして星の指す意味は、ここで示されているんですね。類をみない欲望。そのなかの神秘を星だと呼んでいます。とりあえず続けます。<悦に、いつか死体になるとき、いくつもの星は、ぼくらの星ではないから、ぼくたちはある意味では、誕生を、祝福する。/(さきに死ぬよ、不老ではないから。)>また出てきました。いつか死体になるとき、いくつもの星は、ぼくらの星ではない。だから、ある意味では、誕生を祝福する。ここだけでは分かりにくい。けれど、ちゃんと付けてくれています。<(さきに死ぬよ、不老ではないから。)>ああ、沁みます。何度も言っているし、改めてなのですが、この1行1行の力強さ、美しさ、優しさは何なのでしょう。他にみたことがありません。最高。沁みます。
話を戻します。はい。星は死です。死んで、星になったとき、星は自分だけの星であり、死は自分だけの死です。だからある意味での誕生。これを祝福しています。
<パレードの途中で、自殺のことを考えていたのだ。だれのせいでもないと、いって、きみはきみのいのちを軽んじて、次の星を目指している。ぼくは永劫的に恋をしていた、きみが産むということが、偉大なものとは、微塵もおもっていない、世界。>さきほど、星とは、類をみない欲望とありましたが、星は死なので、類をみない欲望は自殺です。そして、死は、誕生もまた意味しています。だから、類をみない欲望は誕生でもあります。だからここの、<次の星を目指している>に繋がります。タイトルの『マーチ』は、ここのパレードに繋がっているんでしょうか。<きみが産むということ>は、何を指すのか。難しいですが、これも星だと思いました。死ぬこと、産まれること、そして産むこと。この3つはすべて同じで、すべて違います。
<これは懺悔だけれど、報復であり、また、救いでもあるよ。そっと、生命を粗末にして、愛欲を惜しんだ。きみが堕落しているといわれていた歴史に、愛だけが抵抗して、刻まれたものは、愛ではなかった。不老ではないから、ぼくたち、いつかは星だ。いれたい。きみの熟れたところは、つみになるみたいだ。また、尊い。いれたい。蜜だ。ぼくたちは、血液として、生きる。まだ、春はとおい。>前の節から、きみが自殺したのは分かっています。これは、そのことへの懺悔であり、報復であり、救いでもあると言っています。これって何?ここのことなのではないかと思います。<いれたい。きみの熟れたところは、つみになるみたいだ。また、尊い。いれたい。蜜だ。ぼくたちは、血液として、生きる。>愛欲。この詩は愛欲にはじまり愛欲に終わります。それを、自殺したきみに宛てたかった。どうしてか。愛欲は生であり、誕生であり、ということは死であるから。星だから。ちょっと、鳥肌が立ちました。全部回収されていく。そして1番初めに戻ります。生や死は神秘的なものとされていますが、セックスはそうされていませんでした。しかし、この詩をこうしてくぐり抜けると、神秘です。ただの性愛ではない。きみの自殺によってすべて導かれました。<まだ、春はとおい。>でこの詩は終わります。春は誕生ですよね。色々なスタートの季節です。この詩はまだ、死に潜っているみたいです。


『泣き虫の墓標』幻ノ月音
わああ、すごくいいです。前半と後半で毛色がちがっていて、そこもまたいい。溢れた感情の吐露。詩じゃなきゃできないですね。これ。

ナンテンの木、軽くですが調べました。たしかに赤い実が涙に見えます。いや、もう涙にしか見えない。家族のためにナンテンの苗を植えたおとうさんですが、ナンテンの赤い実には「幸せ・私の愛は増すばかり・よき家庭」という意味があるみたいです。よき家庭を願っておとうさんは植えたのでしょう。
よき家庭。この詩に母親は出てきません。兄弟も。ぼくとおとうさんだけです。でも、「家族のために」おとうさんは苗を植えた。ここをどう解釈するかは自由ですが、少なくとも、よい家庭とは言えなかったのでしょう。そして、「私の愛は増すばかり」。これは主人公のおとうさんへの想いに重なっているのではないでしょうか。これは亡くなっているという解釈で間違っていないでしょう。
目玉サイズの、手触りがいいだけの、空っぽの音がする石。そこに声を吹き込んで、根元に植えてこの詩は終わります。<もしもし、お父さんお父さん/そこはあたたかいですか?/ぼくはさびしいです>いやあ、これ、作れますか?かぎりなくこれに近い体験をしていないと、このセリフは書けないのではないか。この熱はすごいです。感情が溢れているのに、静かで品があって、しつこくない。この詩のなかで、主人公はおとうさんとふたりきりです。閉ざされた世界。あまりの美しさに、覗き見てしまったことに後ろめたささえ感じます。いや、沁みました。

佳作集Ⅱ

『アウフヘーベン(あるいはカメムシの味)』西川真周
私は作者さんの詩を、初めて読んだのがこの『アウフヘーベン(あるいはカメムシの味)』でした。後述しますが、読みながらドキドキしていたんです。このあそびが好きな人がいるのか、いや、いるのは知っていたけれど、このあそびを出来るひとがいるのか、と。バウムクーヘンみたいな、マリトッツオみたいな、ルンバみたいなものを想像していたし多くの読者はそれを想像すると思います。で、調べてみると、アウフヘーベンは、「対立する二者を超越した結論を導く」という意味らしい。スマホが瞬時に、長ったらしい説明を様々展開してくれた、あの瞬間をいまでも覚えています。やっぱりそうだったという、99が100になった、たまらない嬉しさがあり、頑張ってくれたGoogleへの申し訳なさもあり。

間違えていたら本当に申し訳ないのですが、かなり自信を持って、作者さんは松本人志ファンだと思います。でなければ、立川談志のように、松本人志作品を観て「俺とおなじだ」と思うかもしれません。氏が嫌いなら、すごく傷つくかもしれません。すみません。が、私ははっきりと、松本人志味を感じました。
M-1グランプリ審査員を務める彼の、登場時にアナウンスされる有名な言葉。「漫才の歴史は彼以前、彼以後に分かれる」。色々な理由がありますが、それまでは、1を100に展開してゆく芸人がほとんどすべてだったのに対し、彼は0から、無から有へ創りだしたのもまた、彼以前にはなかった発明であると思っていて。無なので、なんだっていいんです。言いたい放題、正解がないのですべて好きに展開出来ます。だからこそ、説得力と想像力が人並みはずれていなければならないのですが、私の好きなその芸を、この詩は完璧に身につけています。
真似だけなら誰だってできるだろう、というのは違います。天性の才能がなければ、ここまで出来ません。作者さんは松本人志を通らずにここを開拓したのだろうか。なら、誰が好きなのだろうか。松本人志のこれを知らない人がこれを読んだとき、この物凄さに気づくのだろうか。あながちファンであるだけに、俯瞰してみることが出来ません。すごく気になります。
松本人志が書いたものとしてこれが紹介されても、誰もーー熱心なファンでさえもーー違和感を抱かないし、むしろ納得とともに、喜ばれることと思います。
人の醜いところ、馬鹿なところ、可愛らしいところを描いています。<アウフヘーベンのひとつくらいなくたって生きていける/あったほうが便利だと言われて買ってみたものの/アウフヘーベンのない生活のほうがもちろん長かったわけだから/アウフヘーベンがなくてもぜんぜん平気だ>ここから、<まあでもせっかく修理保証があるんだったらアウフヘーベン屋に/電話して家まで来てもらったほうがいいかもしれない>ここに繋げる凄さ。絶対に必要のないくだり。ああ、馬鹿で可愛い。「笑いは緊張と緩和」とよく言われますが、この詩はずっと緩和しています、あるいはずっと緊張しています。むしろ笑いというのは、怖さ(狂気)と可愛らしさの共存だと私は思っていて。この詩にはどちらも含まれているんですよね。全編わたってすべての行が面白いのですが、ここの展開があるかないかで随分雰囲気が変わってくると思います。人間味。考えてできるものではない。感覚的なものでしょう。
どんなボケもあざとい要素は含まれます。わざとそう言っているんですから。それも分かったうえで鑑賞者は楽しむわけですが、それでもやはり。しかしこの詩は、随所に突っ込みどころが用意されていて、それがあざとくないです。なぜか。無から創っているからです。作者さんのアウフヘーベンなのだから、誰も否定できません。いや、できるのですが、否定すればもう全部おかしい。だから何もおかしくない。完璧って、こういうことを言うのでしょう。完璧を完璧に創ってしまっています。
最後。<真新しいアウフヘーベンが部屋の真ん中にぽつんと置かれていて/それがまるで世界のすべてのように思えた/口の中がカメムシの味がした>タイトルにも使われているカメムシ。これは……分かりません。なんだって良かったのかもしれない。語感や意外性でカメムシを取り出してきたのかもしれないし、あるいは何か意味があるような雰囲気もしています。アウフヘーベンは文脈から食べ物でないことは確かなのですが、掴めそうでぬるぬると掴めません。とにかく嫌悪感、どんな読者の口に広がっても顔をしかめさせるものならば何でも良かったのかもしれません。主人公はどうしてそんな味がしたのか。孤独感からか。ひとりでひたすら話させ、雄弁な思考を流れのままに暴露したからこそ、この暗いオチが引き立ちます。
いやあ、これは本当に好きです。何度も何度も何度も読みたい。アウフヘーベン。もはや輝いていて眩しい。私が死んで、墓が建てられるとするなら、1文字も欠かさずこの詩を貼りつけてほしい。松本人志嫌いの方なら……本当に申し訳ありません。私が勝手にそう思っただけなので、気にしないでください。


『あの日』橘いずみ
時々取り上げる、すごく短い詩です。時々しか取り上げないのは、難しいからです。でも、どうしても載せたかった。素敵です。

なぜこんなにことば少なに、読者に訴えかけられるのでしょう。答えは無い。のに、ずんと心に重くのしかかります。
タイトルの問題。なぜ『あの日』なのか。あの日とは何なのか。この空白が気持ちいい。ぞくぞくします。
作者さんの中には答えがある気がするんです。それを、詩として形づくれるぎりぎりまで削ったのではないか。そこに答えがある、という、たしかな重みがあります。
ここから私の展開。人が揺れたら風を感じるんです。なら、風を感じれば人も感じられるのではないか。主人公は人をすごく求めているのではないでしょうか。どんなものからも人を感じたい。『あの日』とされているからには、『あの人』を。『あの日』にいなくなってしまった『あの人』を。やつれた顔で人を求める主人公の顔が浮かびます。
この短さでこの完成度、『あの日』をタイトルにできるセンス。力の底が見えません。素敵、のひとことに尽きます。ありがとうございます。


『雛』丘白月
鳥になりたい、その願望を詩にできてしまうことがまずすごい。そして着地点。取り上げずにいられませんでした。

この主人公は、本当に鳥になりたい人ではありません。「あなた」に鳥のように扱われたい人です。
でも、これ、本当に最初から「あなた」を意識して書いたのでしょうか。<好きです/心の中であふれる思いが/言葉を探しても見つからない>ここから毛色が変わるわけですが、それまでを読んでみて、作者さんは、本当に「鳥になりたい」を詩にしようとしてたのではないかな、と思うんです。でないと、前半にここまで鳥について詳細に、詩的に、全力で取り組まないのではないか。そのくらい、ここはここで熱があります。
先ほど引用した箇所、その直前で一度この詩は終わってしまったのではないでしょうか。そこから、何に、どう繋げるのか……。往々にしてこのパターンはうまくいきません。もうその音楽は止まってしまったんです。完成としても、リズムが変わってくる。どうしても違和感が出ます。
でも、「あなた」を出現させて見事に完成させてしまいました。作者さん、どんな題材でも詩にできるのでは?いちいち熱がすごくて、リズム感覚が心地良いです。


『鎖塚』かとうみき
鎖塚についての本を少し前に読んでいて、だから最後の1行が重くのしかかりました。

いや、引用していてもドキドキする詩でした。1文1文に重みがあり、最後の1行は深呼吸してからでないと無理だった。作者さんはどう感じながら書いたのでしょう。
<絆という言葉の大バーゲンが起きた頃/絆という言葉の鎖に繋がれた>これ、再稼働という言葉や十年という言葉もあるところから、3.11のことでしょう。当時は絶対に悪く言えない風潮がありましたし、いまもありますが、主人公は、だからこそ苦しみました。そしてコロナ禍、底も見えないどん底にいる。
<流されるように生きてきて/漂流した場所で生きている>ここ、すごく印象的です。これは日本政府のことなのか、世界全体のことなのか、あるいは自分自身のことなのか。全部違うような気がして、全部合っているような気もする。不思議です。それは、どれだったとしても、自分に大きく影響するからでしょう。
そして、これ。<鎖塚として葬られる日は近い>鎖塚の歴史を語ることはここではしませんが(長くなるので)、個人の力の範疇を越えた現象が絶えず起こり続け、流されるしかない主人公に、この1行で幕を閉じさせるのはすごいです。努力とか希望とか友情とか、一切垣間見せません。すごく好みです。どうせ詩を書くなら、こうでなくっちゃな、と思います。キラキラした詩も素敵なのだけれど。

佳作集Ⅲ

『灯りの詩』雨後晴太郎
色んな作品があります。色んな物語があります。でも、それって、ボーイミーツガールのように、ひとことで終わらせてしまえるんです。それを終わらせない、どんな表現をして、どれだけ読者の心をふるわせるか、が作者にできることです。

噛めば噛むほどクセになります。この言葉づかい。まくしたてているようで、ゆっくりとひとつひとつ語ってくれているようで。作者さん独特のものです。
そうかあ、この詩がひとことで収まらないのは、色んな見方ができるからかもしれないです。主人公と「君」の関係。ただの恋人同士ではない気がするんですよね。かといって、浅い仲でもない……主人公の想いが強いだけで、本当は一方通行なのかもしれない。長く連れ添ってきた老夫婦のように見えるし、遠距離恋愛のカップルにも、あこがれの人への片想いにも読めます。
で、それなのに、誰もが共感し得る恋愛観を語っているんです。これはすごい。読者自身の置かれている環境や自意識によって、色んな捉え方が出来ます。鏡のような詩です。
うまい言い方が見つからないのだけれど、たくさんの人に受け入れられる詩だと思います。
詩って、すごく閉鎖的だと思うんです。あまり顔を表にさらして、堂々と見せるようなものではないというか、有名な詩人の方もいますが、ごく個人的な作業。この記事を書いていても、日記を盗み見している気分になることがあるんですよね。自分と向き合った末に書けた、ということが多い気がして。この詩もそういうところはあると思うのですが、開けている感じがしたんですよね。読者を想定しているというか、他の詩と少しタイプがちがう。どうしてなのでしょう。作者さんはエンタメをたくさん吸収してきて、見る、見られるという関係に慣れっこなのでしょうか。どうしたらこんなものが書けるのか、詳しく聞いてみたいです。


『水の中の花』殿岡秀秋
こういうことってありますよね。「こういうことってありますよね」を文章に、しかも詩にするというのは、技術だけじゃない、度胸や運も必要になると思います。

作者さんの実体験のような気がします。でないと、なかなかこんなものは書けない。書こうとも思えないんじゃないか。
1行目から伝わる緊張感は、最後まで解かれません。この少年は大丈夫なのか、何か大変な目にあったりしないか。しかし、何も起きない。この何も起きないのが、すごく好きです。何も起きないのがいいんだと思うんです。
少年のなかだけで完結された物語。これを書くのって、度胸いるよなあと一見で思いましたが、読み直すと違いますね。作者さん、めちゃくちゃ自信があるんだと思います。文体にそれが見える。それが悪いんじゃないんです。強靭な文章で、それをご自身で分かってらっしゃる気がします。だからこそ、これを書けるだろうと踏みこむことが出来た。度胸は度胸なのですが、素人とはすこし違う雰囲気を纏っています。一撃一撃が鈍く重くのしかかってくる感覚。やられました。

おわりに

途中で気づいたのですが、この号、初めて私が詩を投稿した号でした。そして、佳作に載せてもらえた号。
ずいぶん昔に思えますが、いまでも活躍されえいる方が多々いらっしゃって、継続というのは真の才能のひとつなのだな、と。私はあまり自信がないので、なんとかこの雑記を努力の跡として継続していますが、楽しげに続けている方々をみていると、羨ましくあり、闘争心も湧きます。負けないぞ、と。

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