ココア共和国2023年2月号雑記

はじめに

この号は、2022年12月に投稿されたものが掲載されています。僕はこの号で引退、これきりココア共和国に投稿しないと決めていたので、この雑記で培った力を最大限出して、ココア共和国で評価されるだろうと思える詩を投稿しました。『大けっさく』。結果、秋亜綺羅さんに「傑作だ。天才だ。」と言っていただき、傑作集Ⅰにも載せてもらえました。表紙にも名前が載ってる。やったあ。
引退なのですこしだけ話させてください。この詩をいじくりまわしているとき、アメーバを思っていたんですよ。自分の作れるものって所詮かぎられていて。アメーバは内から出てくるものなので、質感や色は変えられないんですよ。でも、それを相手の気に入るように形づくることは出来る。相手はどんな形を好むのか?といってもひとつではない。このアメーバはどんな形になら出来るのか。そんなことを考えながら1年読みこんできた僕なりの集大成で、高く評価してもらえました。
でも正直、あんまり嬉しくなかったんですよね。ハードルを下げるために言うわけではないのですが。どうしてなのだろう?いまだによく分かっていないのだけれど、相手がピッチャーだとして(色々例えてすみません)、自分がバッターなんです。で、何度フルスイングで挑んでもうまく球が飛ばなかった僕は、相手のフォームや癖、持ち球を研究しました。1年間。それしかやってこなかった。研究に研究を尽くし、満を持して打席に立ち、そして結果を残せた。相手の持ち球の中でも自分の打てる球を選び、球の癖からヒットしやすいフォームに変えて。
スポーツ選手ならそれでいいのですが、あまりに商業的というか、戦略的にすぎて、じゃあ自分の書きたいものはこういうものなのか?と言うと、また違う気がして。しかも人と人の間のことですから、いくら研究したからと言って、毎度こんなのを打てるわけじゃない。相手だって変わります。努力はしましたが偶然もやはり否定出来ない。しかもほかのピッチャーには、てんで対応出来ない。
ね。表現って何なんでしょうね。売れるものだけがそれではないと分かっていても、売れなければ食べていけませんし。難しいですよね。

傑作集Ⅰ

『雪だるま』吉岡幸一
すごくいいにおいのする詩です。内容は、どろどろしているんですよ。ゆがんでいて、とても狭い。けれど、情景の美しさ、清々しさがそれをちょうど良い塩梅で緩和させています。

<海辺の観光ホテルに一人で来たのは、より深く孤独の底に沈んでいたかったから、と五十を過ぎた男が云ったら滑稽でしょうか。>このはじまり。ここに詰めこまれています。五十過ぎの男の孤独、海辺のホテル。この詩は終始「ですます」調です。これがまた、礼儀正しさというか、客観性、読まれていることを意識しているのだな、と――読者はそこまで感じなくとも――暗に伝わる。だからこの世界は、ぎりぎりのところで開かれていて、青臭さがないんです。
<来て四日目の午後、私はホテルの前に広がる草原にでると、手袋もしない手で雪をかき集めました。>前半の近代日本文学的美しさも然ることながら、やはりここからでしょう。ラスト、これを描ききることができたのは、豊潤な舞台設定、随所にわたる言葉遣いへの心配りによるものです。みんな、これを描きたくて、でもどうしても描けない。読み返すほどその広大さに驚かされます。とてつもない詩です。

傑作集Ⅱ

『夜行性』森谷流河
とても難しいです。でも、とても共感できました。そして多分それは、僕だけじゃない。

<あさおきて かおをあらって/わたしは アサガオを枯らします>もうこのはじまりからすごいです。そして、<だって きれいだから/がんばって生きていて/そのうち枯れるうつくしさがあるのだから>ここに続きます。これが、最初の2行で離れかけた読者をぐっと掴みます。
<鏡をみると思ってしまう/よるを含んだカラスがあさに鳴くような/そういうわたしってきれいだなって>ああ、もう。言葉がほとばしっています。鋭くて新鮮で、力強い。詩情をふんだんに感じさせてくれる詩はたくさんありますが、端々の言葉に、語感に酔わせてくれる詩はなかなかないです。生々しいにおいがする、けれど地に足が着いていません。ふわふわとどこまでも読者を連れて行ってくれます。


『私は、晴れてから傘を買った』オリエンタル納言
タイトルを見て、思わず声が漏れてしまいました。というのは、僕も似たことを書いてみたことがあったんです。でも、採用されませんでした。この詩は傑作集に収められています。くやしい。

いやあ、そうですね。「晴れているのに傘を差す」というのは、よくあることなんでしょうか?僕は思いついたとき、かなり画期的で刺激的で独創的だと思ったのだけれど。
こういう詩にしやすい類のものをテーマにするとき、どうしても視野が狭く、青臭くみられがちだと思うんです。たぶん、僕の書いたのも、そうだったのでしょう。
じゃあどうしてこの詩は高く評価されているのかというと、思考がとても開けているから。というか、書かれてゆくにつれ、どんどん開けるんですよね。それがすごく快感です。
文章を書いていると、ほつれていた糸がするすると抜け、あっさりと解決してしまうことがある。この詩では、その奇跡がひしひしと伝わってきます。
<少し生ぬるい雨を、傘も差さずに歩いてみる>ここでこの詩は二分してますね。で、これ、すごくないですか。声に出して読みたい。めちゃくちゃ気持ちいい1行です。詩です。
<降り注ぐ雨の声を聞きたくて/気が付けば雨は止み、空は笑顔を取り戻す/「泣いてなんかいないよ。ただ、水がこぼれただけなんだ」/そう言われているような気がした>そして、<だから私は、晴れてから傘を買った>タイトルに入ります。溜めて溜めて溜めて、出している。会心の一撃。ぱっと世界が開けます。
この詩、何と言っても、1行1行の力の強さがすごいです。なめらかでリズミカルでありながら、いちいち胸をえぐってくる。
こういう、あまりに詩的なものを詩にするには、まだ何かが必要なんですね。この詩にはひらめきがあり、文体の強さがあります。こういうものを手にして、いつでも取り出せるようになった人を詩人と呼ぶのでしょう。


『日傘の女』あさとよしや
傘の詩が続きます。でも、まったくちがうタイプの詩です。でもどちらも詩です。詩をふんだんに感じます。詩ってすごい。

「その秋、母は美しく発狂した」は、田村隆一の『腐刻画』という詩からなんですね。<かわりにと 今朝方読んだある詩の一節の文意を探ることに努めた/「その秋、母はうつくしく発狂した」とはいったいどういうことだろう/パンチラインとしては最強であろうが それはどういう意味だろう/言葉の衝撃度に頼り過ぎてはいないか 美しい発狂とはなんだろう>そして、<まるで 日傘を差した女のようだな と若い車夫が思うたころ>に繋がります。
この詩(『日傘の女』のことです)、すっごく好きなんです。美しくて、狂気的で、きちんと完成されている。ココアの短い指定数のなか、半端に終わっていない。練りに練らないと収まらないと思うんです。
でも、1番驚いたのは、この詩が『腐刻画』からインスパイアされているだろう、ということ。書いてしまってから気づいたのではないでしょう。そして、車夫にそのことを言わせている。べつに、あの詩に触れなくたってよかったと思うんです。これだけ無駄のない世界で、文体さえコンパクトにしながら、この場面だけ余分です。むしろ読者にどういう詩なのか調べさせてしまうだけ世界から逸脱させてしまう。でもどうしても書かざるを得なかったのは、この詩は『腐刻画』なしに作られなかったから。
僕はそんなことは出来ません。こんなすごい詩を書けないし、他人の詩を解決しようと思って詩を書けません。こうして一語一語を吟味し、だらだらとひもといてゆくだけ。だから、間違いもあります。この文章だって、作者さんに「そんな気で書いたんじゃねえよバーカ」と言われればそれまでです。途端に価値が無くなります。むしろマイナスを生んでしまう。
けれど、こういう詩の書き方(僕の解釈が合っていればですが)は、正解がない。だから間違いもない。思えば、何も読まないで何かを書くことなんて出来ないんですよね。幼児だって、母や花や太陽を知らなければ、それを絵に描けないでしょう。咀嚼したから放てるわけです。この詩の特別なのは、作中でなにを咀嚼したのかをあきらかにしているところ、これについて書こうと思って書いたところ、そしてそれが、また素晴らしい詩になっているところだと思います。端々に詩が感じられて、全体として頑丈なつくりになっています。世界を充分堪能できただけでなく、色々と考えさせられました。

傑作集Ⅲ

『カマキリ』まつりぺきん
詩って何なのか、色んな人の詩をずっと読んでいるのですが分かりませんでした。でも、この詩ですこしその道がひらけたような気がしました。

友だちにカマキリを取られてしまうという、可愛らしくて残酷な詩です。こういうことって忘れたふりをしていますが、誰でも身に覚えがあると思います。まず驚いたのが、作者さんのご年齢。僕より倍くらい歳が離れていました。かなり前、ココア共和国に9歳の子の詩が載ったことがあります。3ヶ月くらい連続で載ったのかな。魅力的で、何度も取り上げさせてもらいました。
年齢でどうこう言うのは、性別や人種で言うのと少し違うようであまり変わらない気がするので言いたくないのだけれど、とにかく、1番初めに驚いたのはそこです。年齢を重ねられていながら、小学生が書いたと言っても誰も疑わないような詩を書けてしまう。あの子の名前で書かれていても信じますよ、僕。すごいですよね。ピカソの言葉を思いました。
詩について、なのですが。<そうか/逃げちゃったのか/もういないのか>ここです。これ!詩って何ですか?って聞かれたとき、書いて見せられます。これだよ!って。僕の思う詩です。ちょっとさかのぼりますね。<預かってくれてありがとう、と言うと/「ゴメン、あれは、逃げた」と目を伏せた/そのカマキリは、とたずねると/「これは、オレが」/そう言って、友だちは背を向けた><大きくて、きれいなうす緑で、つるつるして/本当にカッコよかったカマキリ><そうか/逃げちゃったのか/もういないのか>ここで終わりです。いやあ、<「ゴメン、あれは、逃げた」と目を伏せた>でもいいな。<「これは、オレが」>でもいい。<本当にカッコよかったカマキリ>でも。詩です。詩ですよ。これ。


『逡巡』泊木空
この独特のテンポ、無軌道に流れる言葉たち、すごく好きです。こういうタイプの詩が僕は1番好きなのだけれど、あまり取り上げられないでいます。それは、ただ語感が気持ちいいだけ(と僕は思ってしまった)のものが多いから。けれど、この詩は違いました。

いきなりですが。最後です。<ちょうど生存に適さないこの時代/僕ら被差別対象は/改行の度に溢れる何かを愛おしく思って/前に進めないでいます>これですよね。ここが逡巡であり、ここまでのすべての言葉たちをゆっくりと片づけていきます。たとえば、冒頭。<鼻の頭のざらざらに違和感を覚えて/気を取られているうちに/君の体が使い古しのゴムのように/破かれてしまった>ここ。最後に浮かび上がる人物像が、こことマッチするんです。姿形が重なってぴったりとはまる。
それから、ここ。<一瞬を括弧に閉じ込めて/精神の鎮座する回転椅子に/肉体を固定しようとする試みは/何をもって成功と呼べばいいのでしょう>秋亜綺羅さんが、「抽象的すぎないこと」をココア掲載の基準のひとつに示していましたが、すると、言葉の美しさ、軽やかさはみるみる勢いがなくなるんですよね。具体と抽象のはざま、どちらもを含まなければならない。この一節はそのお手本のようだと思いました。低空飛行し続け、何度も落ちそうになりながら、ぎりぎりのところで持ち直す。すごく悩みながら言葉を選んで、やはり削って、継ぎ足して、という痕跡が見えるような気がします。
僕はこんなものを書きたくて、でも書けないでいるので。すごく羨ましいです。遠く見果てぬ壁のようではなく、少なからず共感もできました。ずっと隣に置いておきたい詩です。


『人魚回収保護専門業者』西川真周
いやあ、雑記を始める前から、きちんと全部の詩を読む前から作者さんの詩が好きで、強く惹かれていたのだけれど、色んな詩を読むとよりその独自性を強く感じるし、またおそらく作者さん自身も実力をつけてゆき、ひとりその頂きにいるのだなあ、と感じます。

<俺はその人魚に生活と嫌気と集金人の話をしてから/プール付きのモーテルに泊まらせた/二、三日してから人魚はちぎったウロコを一枚フロントに預けて/まだ暗い朝のうちに海へと還っていった/モーテルのロビーにはたくさんのウロコが飾られている>このラスト。ここが核ですよね。ここまでは前座にすぎない。で、この詩の魅力は、ほとんどを占める前座がまた素晴らしい。すごく楽しんで書いていることが伝わります。もう、何も考えていないのではないかとさえ思わせる。ただ好き勝手書いて、で、なぜ評価されるかというと、きちんと落とすからですよね。よく分からない生物に、よく分からない職業。読者にきちんと把握させないといけない、納得させないといけない。僕なら思いついても(とてもこんな面白そうなもの、思いつけないのだけど)、へこたれます。無理だ。できっこない。でもやってのけてしまいます。苦労の跡もなくやっているので簡単そうに見えますが、とても難しい所業だと思います。誰でも出来ることじゃない。
そしてまた核が、深い余韻を持たせる。映像が鮮明に浮かびます。詩的です。素敵です。

佳作集Ⅰ

『みつだそう』ハラダナツロ
すっごく綺麗です。絵画みたいです。何度も何度も、じっと見てしまいました。

「みつだそう」は、赤っぽい黄色のことらしいです。調べてみたらすぐ出てきました。ここでは西日に使われていますね。<歩くだけでエモーショナルな人間たち、柔らかな靴跡はいつまでも残る。ベビーカーとおばあさん、それから虫図鑑、そうして東京はすこし寒い、>この描写。何度読んでも飽きません。ただ情景を描いているだけでなく、読者を心酔させる力があります。ちょっと読んだだけじゃ真似できない才能と胆力を感じました。
そして、魅力的な詩の多くがそうであるように、この詩にはあきらかにされていない点があります。<きいろい線の内側には私だけが入れない。>2回繰り返されるこれ。ちょっと戻りますね。<よく晴れたクリスマスイブ、死ぬなら今日のような空のいろの日、各駅停車を芦花公園駅で降りたらきっっとそうしよう、そんな色の、みつだそうの西日。>語り手はみつだそうの色を、死ぬのにうってつけの空のいろだと言っています。「きいろ」や「みつだそう」「空のいろ」など、色はひらがなで書かれていますが、<そんな色の、みつだそうの西日>みつだそうの西日には「色」と感じが使われています。もうひとつ繰り返されているのは、みつだそうの西日は冷たいということ。赤っぽい黄色のみつだそう、こんなにあたたかい色味はないのに。最後まで引用してしまうと、あまりにし過ぎているので省きますが、この疾走感、唐突に消えてしまう世界。読後、電車の音が鳴り響きます。語り手はきっと、「いろ」の世界を愛していたのではないか、「色」の世界に耐えられなかったのではないかと思いました。はじまりからおわりまで、ずっと糸が張りつめています。すごく好きな詩です。

佳作集Ⅱ

『拝啓』山羊アキミチ
先生への手紙です。が、詩中に拝啓という言葉は出てきません。文字数だけで言えば、拝啓は入れても構わないんです。でも、タイトルにしています。タイトルだけにしています。

先生と主人公の関係性はまったく語られません。でも、親密なのが伝わる。それは、本音を晒していることが分かるから。説明がまったくないのが、僕の素敵だと思ったところです。手紙なんだからそれが自然なのですが、やはり、どうしても説明したくなってしまう。それがないから、こちらは盗み見している気分になることが出来る。世界観に没入出来ます。
内容について書こうと思ったのですが(というか実際に書いたのだけれど)、長くなりすぎるので省きます。この詩の真の魅力はそこではないと思ったので。<女子高生がずっと叫んで 写真を撮っていました/ベンチでは清掃員のおばあさんが 一息ついていました/雲ひとつありませんでした/このずっと上に 宇宙があるなんて なんだか こわいです>ここが核なのではないかな、と思いました。先生への信頼や、ぐるぐるとまわる、若人特有の思考。独特の美しさを湛えた、唯一の輝きを持つ詩だと思いました。


『波辺を夢想して』鈴木春道
女性を描く作家はたくさんいます。色々世相が変わっていますが、女性は、やはり、男性と違うもので、多くの人たちがその底なしの魅力をどうにか描こうと躍起になっていますが、この詩もまた、女性を描いています。

<其処に或る女人が一念発起した様子で我らの誰か一人を抱いた。/と、続々と女人が我らを抱きしめる。/我らの身体は温まり温まり凍死はせず、終に微かに瞼を開き。/と、女人が見える、種族の違う女人が見える。/我らは何もかもを忘れ、女人の生肌に甘え、眠りに行く。>ラストのここですよね。これ、すっごく伝わります。女性独特の美しさ。フェミニズムやLGBTQなど語られて久しいですが、やはり、ここ、この人が男だと様相は変わると思うんです。良い悪いじゃなく。ここに女人をあてたのは、それだけの効果があるからだと思う。そしてそれは、すごくよく分かる。
驚いたのはこの女人、種族が違うんですね。人魚なのか幽霊なのか原住民なのか分かりませんが、とにかく種族が違うのだと。種族の違う見ず知らずの他人ですよ。しかも遭難し、力尽き、死を覚悟しているところに。最悪の事態です。なのに、彼女に抱かれ、主人公たちは生き返るんです。<我らは何もかもを忘れ、女人の生肌に甘え、眠りに行く。>すごい一文です。無駄がなく、なのに、このうえなくあたたかい。一筋のきらめきがすさまじいです。


『小さな旅行』妻咲邦香
失恋の詩は数あれど、ここまでリアリティのあるものはそうないのではないかと思います。

やはり、髭ですよね。ここでは髭が鍵になっています。<いつか彼女は髭を剃った/いつだったかはわからない/僕の知らない間に/僕の知らない誰かのために>この、何とも言えない感情。これ、主人公は冒頭で気づいているのに、髭を指摘しなかったんですよ。髭すら愛していたんですよね。なのに、知らない間に剃ってしまっていた。しかも、浮気だと確信しています。こういうの、分かるものなんですかね。自分にもう気がないな、というのは何となく分かりそうなものですが、とにかく、彼女は知らない誰かを好きになってしまい、気がそぞろになってしまいました。<そのうち二人で旅行して、それは僕のよりも少し大きくて/そしてメリーゴーランドを見つけたら乗るのだろう/僕の知らない誰かと/乗りたくもないかもしれないのに>この、<乗りたくもないかもしれないのに>がすごいです。無くても成り立つのに、余分じゃない。語られない主人公の感情がひしひしと伝わります。可愛らしさもある。
そして最後。小さな旅行というタイトルの意味することが判明します。なるほどこれは小さな旅行です。そんななか、オープンカーとすれ違っていた主人公は、髭にすれ違われます。僕はオープンカーとすれ違い、髭は僕とすれ違います。この、主語の入れ替え。すごくないですか!?消化不良を起こさず、読後もしっかりとこの感情を分けてくれます。美しく、瑞々しく、苦い詩です。

佳作集Ⅲ

『痛い』渋谷縷々子
あまり意識してなかったのですが、この号、12月に投稿されたものが収められているんですね。いまは真夏ですが、この詩はとても冬です。いつ読んでも冬です。

<終わってしまうことが怖いから、/またねと言って手を振っているわたし。/冬は乾燥していて、痛い。>冬という単語が出てくるのは冒頭とここだけです。あとは金木犀も出てきますが、それだけ。なのに、この肌に突き刺さるような寒さ。詩全体に冬が、痛みが蔓延しています。世界観の構築とか、そんな生ぬるいものじゃなく、これは作者さんが血のにじむ思いで書いたものなのではないか、と感じました。読んでいてこちらまで息が詰まる。主人公のどうしようもなさに胸が痛みます。同情とか、共感とか、そういうものの付け入る隙を与えません。清々しいほどの絶望が遺書のようでもあり、しかし詩でしか現せない美しさがはっきりと感じられます。


『白鳥橋』酒部 朔
もうこれは純文学ですよ。それも、映像化の可能な。とんでもなく美しいです。美しいなんて言葉じゃ足りない。

いやあ、もうどこを引用したらいいか分かんないな。全部です。この世界を構築するのに、何もかも必要です。<最後の一滴まで飲まなかったあのコーヒーを/お母さんの煮物の人参の赤いかけらを/好きと言わないままだった好きな人を/軽自動車のエンジンをかけながら思う>ここに、作者さんの真価が発揮されているというか。情景描写が素晴らしいのだけれど、ただ、それだけに留まりません。ともすれば、この部分は蛇足になりかねないんですよね。白鳥が、雪景色があまりに美しいから。なのに、主人公の個人的な回想がそれに負けていません。むしろ美しさを両方が補い合っている。いやあ、ちょっとすごすぎるな。この詩だけで、1冊分の価値があります。しばらくこの景色がこびりついて取れそうもない。

おわりに

もうこの記事も長いことやっています。傑作集の詩だけにしようかな、なんて思ったりもするのですが(なにしろ全部何度も読むので時間がかかる)、佳作集にもすごい詩がたくさんあって。目前の金銀財宝を見ないふりして通り抜けることの出来ない性分らしい。ココア共和国の感想を書いている方は他にも何人かいらっしゃって、ほとんど1か月前のものなんですよね。半年も遅れて出してるの、僕だけなんじゃないか。ペース上げていかないといけないのかなあ。やり始めるとすっごく楽しいんです。よだれが出るくらい。でも、気力と体力を大量に消費するので、なかなか手がつけられない。みんなすごいなあ。

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