掌編『祈り』

煙草も酒も忘れてしまった母は、パチンコにはまった。
目を覚ますと公園に行き、水道水を飲む。蛇口に歯をあて、音を立てて飲む。顔も服もびしょ濡れになる。そのまま近くのコンビニへ。何も買わないまま、ぶらついて店を出る。そしてまた同じ公園に行き、水道水を飲み、パチンコに向かう。
パチンコで使うのは3000円。あたりが暗くなり、店が賑わい始めたころに玉はなくなってしまう。
しばらく手もとを見る。厚く硬く、皺まみれの手。そして涙を流す。数年前まで毎回声を出して泣いていたが、店員に何度も注意され、声を出さずに泣く術を覚えたらしい。母が涙を流すのを合図に店員が清掃に回りだすので、いそいそとパチンコ屋を出る。

帰るまでの道中、同じコンビニに寄り、2Lの水を買う。ペットボトルを抱きながら同じ公園で水道水を飲み、家に帰る。
家に着くのは19時35分。19時30分に着いてしまうと、アパートの階段の前でしゃがみこみ、また手のひらを眺めておいおいと泣く。それより遅くなることはない。

家に帰り、靴を脱ぐとすぐにトイレで用を足す。2Lのペットボトルを改めて抱きかかえ、歌い、撫で、何度も口づける。だいたい40分ほどかけてトイレから出ると、ペットボトルを隣に置き、彼女の父が納められている仏壇の前に座る。22時になるまで1時間半ほど、新聞紙を丁寧に手で切り、22時になるとその新聞紙たちを鶴の形に折り始める。祈り始める。
そこからはずっと折っている。だいたい4時ごろになると、疲れはて、ぽとっと倒れて寝てしまう。そして10時に目を覚ます。

母がこの生活を繰り返すようになり、もう6年になる。起きる、水を飲む、パチンコする、泣く、トイレ、祈る、眠る。母は絶対にこの生活を変えない。どんな大雨が降っても、台風が来ても。パチンコ屋の休みの日には、店の前で時間が来るまで座っている。起きる、水を飲む、パチンコする、泣く、トイレ、祈る、眠る。

鶴は作られたまま、所狭しと部屋に放られている。母は鶴そのものではなく、作ることに意味があると思っているらしい。踏みつけさえしないが、寝ながら垂れ流す小便に溺れ、染みて紙がよれても気にすることがない。
母は鶴を折りながら、何か口ずさむ。それはその日によって内容が変わる。ぶつぶつと「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と言い続けながら鶴を折っていたかと思えば、次の日は『となりのトトロ』の『さんぽ』を大声で熱唱しながら折ることもある。母が言葉を発するのは、鶴を折るときにかぎられている。

何度も保険の営業が来て、介護案内が来て、市職員が来た。数回警察が来て近隣住民が来て、NHK集金人が来たのは1度きりだった。
母が口にするのは水だけだった。だから便も尿もにおいがしなかった。便というが、胃や腸の機能が停止してしまった母の尻から出るのは、少し茶色っぽいだけで、完全に液体になっている。母の身体は頭の代わりに澄んでいた。

母は美人だった。それに人あたりが良く、前向きな人間だった。頼まれたら断ることが出来なかった。いつも笑顔で、機嫌の悪いことがなかった。だから色々な会の長を務めたし、どれもうまくこなした。もちろんトラブルもあったが、母が介入すれば必ずうまくいった。母の幼いころの写真を見たことがある。比喩でなく、まるきりそのままの母だった。大切に育てられた母には、幼いころの写真がたくさんあったが、どれも満面の笑みを浮かべていた。
きっと、そういう星の下に生まれた人なのだと思う。1つだけではない、たくさんの複合的な奇跡が混じって母は生まれ、育ち、父と結婚し、僕を産んだ。僕を産んでからも、母のそれは変わらなかった。全身がきらきらしている、宝石のような存在。母がいるだけで、場が明るくなり、なごんだ。母を嫌う人はいなかった。

父について話す。父が死んだのは、8年前のことだった。父は厳格で、いつもしかめ面で、笑うことがなかった。暴力こそ振るわないものの、常に人を怯えさせる雰囲気を纏っていた。
僕はそんな父が嫌いではなかった。幼いころから毎日怒鳴られ、泣かされ、憎んでいたが、中学生くらいになると、父の弱さや格好良さ、洗練された思考が理解出来るようになり、憧れさえするようになった。そのころには父は穏やかとは言わないまでも、怒鳴ることは少なくなっていた。父は、理由なく怒鳴る人ではなかった。
父の生い立ちについてはよく知らない。昭和的な学生生活を送り、野球に打ちこみ、高校卒業後、プロからの勧誘を断り、昭和的な祖父の会社を継ぎ、借金だらけだった一家を、なんとか食べられるくらいに持ち直したという。そのことを母は誇りに思っているらしく、僕に何度か語ってくれた。父は、僕が何度聞いても自分のことを語りたがらなかった。
1度、誰もいない隙に父の部屋を覗いたことがある。クラシックギターが部屋の隅に置かれ、布団が綺麗に畳まれていた。机の上に古いノートパソコンと何冊かの新書、間に手紙が差さっていた。封筒には、母の名前が母の字で書かれていた。他には何も無かった。
父の死因はアナフィラキシーショックだった。職場で、弁当を食べてからだったという。即死だった。
毎日弁当を作るのを欠かさなかった母は、それから弁当を作らなくなった。僕もねだらなかった。不幸としか言いようがなかった。弁当の中の何かと何かが合わさり、父の身体を蝕んだのだ。医者にもよく分からないようだった。

そのころ、僕には恋人がいた。僕は高校2年生で、彼女も同い年だった。
彼女は、少し恥ずかしくなるくらい母に似ていた。見た目ではなく、いつも明るく前向きで、楽しそうに生きる人だった。
父に憧れ、その反動で母に言いようのない違和感を抱いていた僕は、やはり母のことも尊敬していたのだと、彼女と付き合ってしばらくしてから気づいた。
父が死んだことを伝えたとき、彼女は表情を変えないまま、笑顔のまま涙をこぼした。それは大きな目からゆっくりと溢れ、とめどなく流れ、少しずつ表情がゆがみ、それから顔を覆い、声を潜めて泣いた。行きつけのファミレス。制服姿の僕らを、周りの人たちは別れ話でもしているのかと、微笑ましそうに眺めていた。彼女は、病室で父を見たときの母と同じ泣き方をした。
付き合って1年と少しの僕の、見たことも話を聞いたこともない父の死に、そんなに泣けるものなのかと思うと吹き出してしまい、そんな僕を見て彼女も少し笑った。僕らはしばらく、笑いながら泣いていた。周りの人の目が奇妙なものを見るそれに変わっていくのに気づいたが、そんなことはどうでもよかった。

それから、彼女は母に会いたがった。僕はなんとなく気が向かなかったが、懸命に慣れない化粧を勉強したり、茶菓子を調べたりする姿に負け、会わせる約束をした。
母もいくぶん元気を取り戻していた。少なくとも、僕の前で泣いたりうつむいたり声が聞こえていなかったりすることはなくなっていた。表情も柔らかくなり、極端に父の話を避けるようになったことを除けば、いつもの母に戻っていた。父が死んでから、半年ほど経っていた。
僕は、2年近く隠していた彼女の存在を母に告げた。「分かってたわよ、そんなこと」と母は嬉しそうに言った。「で、いつ連れてきてくれるの?お母さん、美容院予約しなきゃ。歯医者さんも行かなきゃ。煙草の臭いを消してもらうの。あ、あそこのケーキも買わなきゃ。あそこ、予約しなきゃ買えないのよ。掃除もしなきゃ。ちょうどいいから新しい掃除機買おうかしら。テレビも古いもんね。こんなの恥ずかしい。ねえ、いつ?いつ?」
ずっと隠していたこと、そのせいで父に会わせられなかったこと。そんな後ろめたさに苛まれながら告白した僕のすべてを見透かすように、母はとびきり嬉しそうにそう言った。僕はいつだって、母に全部見透かされていた。高校生になっても、それは変わっていなかった。

日曜日、よく晴れた日だった。ケーキは止めた方がいいとの僕の忠告を聞き、彼女はフィナンシェと煎餅というよく分からない手土産を持ち、一緒に家に行った。
その後のことはよく覚えていない。僕も緊張していたのだと思う。しかし母と彼女がLINEを交換していたこと、化粧品の話で盛り上がっていたこと、くっついて2人で自撮りしていたことは覚えている。本当の親子みたいだ、と僕が言うと、2人同時に、音を立てて満面の笑みを浮かべた。
それからというもの、彼女はことあるごとに母に会いたがった。「噂には聞いていたけど、すごく素敵な人ね。おこがましいけど、私たち、本当に前世では親子だったんじゃないかな」
母も「本当にいい子で良かった」と何度も言った。「本当に、本当にいい子で良かった。お母さん心配してたんだから。大事にしなさいよ、あんた。傷つけちゃダメよ。ケンカしちゃダメよ。ケンカしたら、全部あんたが悪いと思いなさい。とにかく謝りなさい。もしあんたとあの子と別れるようなことがあっても、母さん、2人で遊びに行ったりしちゃうからね。それでたくさんご馳走してあげるって。そう言ってたって言ってあげてちょうだい」母は彼女と会ってから、より話すようになった。よく笑うようになった。
実際、母と彼女は2人でどこかに出かけることもあった。僕が部活やらバイトやらでデートの誘いを断った日、家に帰ると2人でゲームしたり化粧品を勧めあったりケーキを食べたりしていた。親子というより、姉妹か友だちのようだった。そのようにして月日が経ち、僕らは大学生になった。

僕は高校卒業とほとんど同時に免許を取ったが、彼女はお金を貯めていたので少し遅れた。だから彼女が免許を取ったばかりのころ、隣に座って教えるのは僕の役目だった。彼女は、はやく運転が上手くなって母を乗せたいのだと言った。「だってお義母さん、きみと奥さんと孫の4人でドライブするのがずっと夢だったって、前に1度だけ言ってたのよ。まだ半分だけかもしれないけど、叶えてあげたいの」僕も聞いたことがない夢だった。
彼女は僕を乗せ、ほとんど毎日練習をした。彼女は運動神経が悪いこともあり、試験にも何度か落ちたが運転に慣れるのにも時間がかかった。母はそのことを知らなかった。「絶対内緒にしてね。バレないようにね。お義母さんのお誕生日にサプライズしたいんだから。それまでに絶対上手くなるの」彼女は何度も僕にそう言い聞かせた。
母の誕生日の何ヶ月も前に、彼女は完璧に車を乗りこなせるようになった。「もう言うことないよ。僕なんかより全然上手い」と言ったが、「まだまだなの」と彼女は練習をやめなかった。

そして母の誕生日。僕を助手席、母を後部座席に乗せ、彼女が運転した。僕も知らなかったのだけれど、車で1時間ほどかかる場所、海の見える綺麗な旅館を彼女は予約していた。
突然のことに、母は車の弾むほどに喜んだ。そしてしばらく車を弾ませると、ぐすぐすと涙ぐんだ。「本当に私は幸せね。これ以上の幸せってないわ。ありがとう。本当に嬉しい。もうここで死んでもいいわ。あ、ちゃんと着いてから死にたいわね。ご飯も食べてからがいいな。お土産も買いましょうね。ああ、すっごく楽しみ。本当にありがとう。やっぱり帰って、落ち着いてお茶でも飲んで、思い出に浸っ」逆走したトラックが正面からこちらに突っこんできた。あちらがブレーキを踏んだころにはもう遅かった。軽自動車の前部分は踏み潰され、粉々に砕け、車が詰まっていてバックも出来ないまま、僕らはただ踏み続けられた。母の悲鳴だけが甲高く響いた。一瞬の出来事だった。

彼女と僕は一命をとりとめたが、それだけだった。2人とも、二度と目が覚めることはないでしょうという医者の声が聞こえ、同時に彼女の両親の泣きじゃくる声が聞こえた。母は、異様に静かだった。
もちろん彼女の両親は母を責めた。それ以外に責める相手がいなかった。トラックの運転手は救急車を呼ぶこともせず、手元にあったハサミを自分の胸に何度も突き刺し、それでも死ねないと分かったので近くのビルの屋上まで駆け、飛び降りてしまった。
しかし、何も話せない、目の焦点が合わない母に何を言っても無駄なのだと悟り、彼女の両親はまた泣いた。母は少し頬が切れた程度で、ほとんど無傷だった。

母がこの生活をするようになったのは、それからのことだ。彼女はどうか分からないけれど、僕は意識だけはっきりしたまま、身体のどこも動かせず、目を覚ますことも出来ないでいる。いつ死んでもおかしくないまま、6年を生きている。あるいは母の祈りのせいなのかもしれない。ありがとう、母さん。ごめんね。俺はもう、大丈夫だから。
僕が彼女が生きているかぎり、変わらず祈り続ける母に、ただ、この声だけを伝えたくて生きている。隣で折り、祈り続けている。

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