ココア共和国2022年9月号雑記

はじめに

書くことないので、これから、その号に送った自分の詩のことを書こうと思います。2022年9月号では、佳作集Ⅲに『光夜』を選んでもらってますね。いやあ。これはいいのになあ。笑
私、『ぼのぼの』が好きなんですよ。すごく。で、その中でも好きなエピソードのうちのひとつに、川はどこに流れてゆくのだろう?というものがあるんです。川は流れ続けている。誰が流しているんだろう。どこから流れ始め、どこへ流れ着くのだろう、と疑問に思ったぼのぼのは、川の流れ着く場所を突き止める、という話。
それを詩にしたくて。その感動を詩にしたんですけど、まあ、ちょっとかっこつけすぎたのかなあ。うまくいかないものですね。選んでもらっただけありがたいんだけど。

傑作集Ⅰ

『テレビジョン』笠原メイ
この詩は切実です。真に迫っています。この詩を、私は茶化すことができない。

始めのころは、なんだかあたたかい詩かと、タイトルも相まって、お茶目な詩かな、と思うのですが、ちがいます。本気です。それが痛いほど伝わってくる。
どうしても理解できない人がいます。それが、主人公にとっての父親だった。父親がそうであってしまった。この詩にはたくさんの救いがあります。友人は優しいし、母親も理解してくれているように描かれている。それでいいじゃん、充分じゃん、気にしなきゃいいじゃん、という人もいるかもしれない。けれど、違うんですよね。この父親の邪悪は、ちょっとすごいところがあると思います。<台所で茶碗を洗うとテレビの邪魔だと怒鳴った>父親の直接的な攻撃が描かれているのはここだけです。だからすごい。なのに、この存在感。理解のできなさ。
テレビというアイテムもまた、すごくいいんです。子ども世代と親世代では、テレビの捉え方がまったく違う。親世代は、テレビを重宝しますよね。テレビの始まりから知っていた、というわけではないのでしょうが、幼いころからの大きな娯楽だった。絶対的なものだった。子どもの世代からすれば、全然つまらないもので、大したことないもので、自由がないもので、昔のものです。私もそちら側の年齢なので、主人公により感情移入してしまったのかもしれません。
たくさんの救いがあると書きましたが、なによりの救いは最後。<僕はこの詩をあなたの葬式で読むだろう>ここですよね。<死にたいと思わない日はなかった>主人公が、父親より長生きしてやろうと思っている。この恨み方は相当のものです。どんな人でも呪いのようなもの、コンプレックスは持っているものですが、この主人公の場合は父親だったのでしょう。
いやあ、しんどい。胸が苦しい。そしてこの切実な思いを、詩に昇華できる作者さんが本当にすごいです。頭が上がらない。これができるって、とんでもない才能だと思います。もう怖いもの無しでしょう。4つに分けられた構成もさることながら、素人にはできない所業です。


『黒い皿』高平 九
ええ……と声が漏れてしまいました。なんでこんなことをするんだ。胸がえぐれる思いになります。

苦しい。引用していて苦しくなる詩があります。そしてそれは、もれなく素晴らしい詩なのだ、と最近気づきました。
これ、戦争なんですね、きっと。<見上げると銀白の機影がゆく ゆっくりと罪を置き去りにしてもどかしいほど/ゆっくりと雲のなかに逃げ込もうとしている>ここでしか明記されていませんが、敵機に打ちこまれてしまった場面を描写しているんですね。黒い皿、という表現は作者さん自身のものでしょうか。検索してもちょっと出てきませんでしたが、あの、地面のあの感じは確かに黒い皿ですね。<黒い皿の縁に立ちあがり>ここ、すごく好きです。いや、すごく嫌いなのだけど。いいなあ。いや、よくないんだけど。表現方法がすごいんです。もうどうしようも敵わないんですよ。人間は。それを描写しているんですよね。奴らにとっては、私たちなんておもちゃも同然なんです。勝てない。そのどうしようもなさが描かれている。私たちの小ささ。
なんでこんなことするんだ、というのは、やっぱり、前半にあります。こんなに愛しいあたたかい家族を描いておいて、ラストでぐちゃぐちゃにしてしまう。それだけ悲惨さを表したいのかもしれないけれど、これは、実体験だったり、あるいはなにかノンフィクションから影響されたのでしょうか。完全な創作なら、ちょっとすごすぎます。人間の想像力を超えた暴力。
<ゆっくりと罪を置き去りにしてもどかしいほど/ゆっくりと雲のなかに逃げ込もうとしている ゆっくりだ あまりにゆっくりすぎて腹がたつ ちくしょう 逃がしてたまるか>そして、なによりの暴力はこれです。胸が熱くなる。受動的で優しい主人公の、どうにもならない理不尽な怒り。それは理不尽への怒りです。何に怒ったらいいのか分からないから、なにもかもに腹が立つ。もどかしい。ちょっと、冷静に観ることが出来ない詩です。また読み直したい。


『追いかけたい』金森さかな
すっごくよく分かります。この主人公は、分かられたくないのだろうし、分かるよなんて言われたくないのだろうけれど。それも分かります。

私の痺れたのはここ。<だからチューペットが砕けた瞬間/あ  と思って飛び降りました>現代版カミュの『異邦人』みたい。すっごく分かるんです。で、ありながら、分かられようとしていないんですよね。そういう態度が、また、共感を呼びます。チューペットというのもまたいい。
この詩は7つに分かれていますが、私は、5つに分けられると思っていて。<はじめての臨死体験に/フランボワーズのソルベを添えて>から、<キスしたいぐらい鯉はかわいい>ここまでは1つなのではないか。で、この1連が表したいのは、この中に入っているここ、<ちゃんとするってどんなかんじ?>なのではないかと思いました。どんなかんじ?それが分からないんです。たしかに、それが分からないと、もう、何も分からないですよね。
そして最後。<コップの底に残った梅のジャムごと/粉々にしてやりたくなるぐらい/強烈にあなたを覚えています>ここであんまり引用したくないのですが、引用したくてたまりません。それくらい気持ちいい。これを最後に持ってくる。つい忘れてしまいましたが、これ、恋が大きなテーマなんですよね。これを書きたいためにこの詩は書かれたんじゃないかと思うくらい気持ちいいです。けれど、ちょっと伝わりにくい。だから、その説明のためのここまでだったのではないか。タイトルの『追いかけたい』はついぞ1度も出てきませんでしたが、タイトル含め、ひりひりしてかっこいい詩です。どうかこのまま、生きていてほしい。


『鉄塔』三舟いと
美しいです。作者さんの描きたいこと、分かります。めちゃくちゃ伝わってくる。現代っぽい感じがします。現代の漫画かアニメの綺麗なシーン。

ヘッドホン付けて鉄塔に立ち、夜空を感じている女の子。それを描きたかったのでしょうか。めちゃくちゃかっこいいです。
ただ美しいだけではなくて。<ゆうこは鉄塔に立っていた/目の前には乱れ散る花火!/蝉の声が邪魔をして/最後の声は聞こえなかった>やっぱりここ。最後ですよね。これが言葉足らずというか、ちょっと描写を曖昧に、読者に想像を委ねています。この前の節も引用させてください。<数分後に始まるであろう満月の輝きを/今まさに感じ取ろうとしていた>うーん。難しい。
すごく無理やりですが。私の勝手な憶測。<いつも通り音楽を聴いていた/友達の彼氏がやっているバンド/クソみたいな歌詞と声/いつも通りクソだった>ゆうこが鉄塔に立ってやっていることといえば、これだけなんですよ。で、最後の声。これ、本当はこのバンドが好きなのではないか?数分後に始まるであろう満月の輝きは、サビへの期待のメタファーで、花火はサビ。サビがきた、というところで、蝉の声が邪魔をして聞こえなかった。クソだと言ってしまったし、思いたい手前、たくさんのメタファーで隠している……。
うーん。ちょっと無理やりすぎますか?もう1つ。ゆうこは飛び降りようとしてたんじゃないか。数分後に始まるであろう満月の輝きは、飛び降りる時に近づく満月。で、実際、飛び降りた。目の前には乱れ散る花火!血しぶきです。しかし、<蝉の声が邪魔をして/最後の声は聞こえなかった>飛び降りてさえ、誰にも分かってもらえなかったゆうこ。
ちょっとこの2つくらいしか思い浮かばないです。読者によって解釈は異なるでしょうね。私なんかの想像よりもっと納得させてくれる人が羨ましいですが、きっと答えなんかないのではないか。この想像の時間がすごく楽しかったし、世界観が一貫していて舞台設定が美しく、のめりこんでしまいました。ずっと印象に残ってしまいそうな詩です。

傑作集Ⅱ

『避雷針』和本果子
青春の詩ってたくさんあります。個人的にそんなに好みじゃないんです。うまく言語化できないんだけど。けれど、この詩はこれ以上ないくらい青春なのに、すっごく好きです。

写していて気づいたのですが、すごく推敲された詩なのではないでしょうか。これ。特に、<夏休みが終わったら、私、別人になってないかなぁ>ここ、何気ないように感じられて、めちゃくちゃ言葉回しが難しい気がするんです。
なのに、読んでいる分には違和感がないというか、すらすらと思考を辿っているーーそれも、学生の女の子のーー感じがする。力の入っていない詩。そういうのって、書いていて楽しいのですが、どこかでパッと止まるんです。だめだ、これ以上展開しない。この詩でいうと、<なかなか落ちてこないから>ここ。ここからの展開に詰まったのではないか。いや、あくまで私の想像に過ぎないのですが。
なにが言いたいかというと、作者さんは、緻密にこの詩を構築した、わけではないのではないか。自分の学生時代や、あるいは、こういう女の子が好きなんだよな、というイメージ。そこからカンカン照りの空に、主人公を歩かせたのではないか。だから、<夏休みが終わったら、私、別人になってないかなぁ>ここ。ここに至ったのは、まったくの偶然である気がするんですよね。どうしてそう感じたかというと、読んでいて驚いたから。考え抜かれて作られたものだと、驚きや感動は少ないんですよね。けど、この1行は、ずしんと重かった。恐ろしいです。なかなかこんなパンチは繰り出せません。詩に対する熱い想いが伝わりました。

傑作集Ⅲ

『若者よ』柊
わあ。これは詩です。そうですね。すごく沁みました。どうしてこんなにいいんだろう。

これ、なんでいいかって、ほかでもない、作者さんが自分に言っているからじゃないでしょうか。説教じみていないんですよ。それは、作者さん自身、考え抜いて研ぎ澄まされた末の結論がこれだからだと思うんです。
<そんな大人になるなよ>の繰り返し。語感が気持ちいい。こういうのって、展開の仕方がすごく難しいのですが、作者さんは<絶対なるなよ/真面目で正しい大人なんか>で突破口を開きます。感動しました。90年代から聴き続けられているJ-POPのような独特の普遍的かっこよさがあります。
そして最後。<そんな大人になれよ/そんな奴が必要だよ><テキトーでもいいって教えてほしい/子供たちが待っているよ>終わり方も完璧です。作者さんの強い想い、人生観、それがしなやかな技術と相まって読者を深く浸らせます。


『フール』裏路地ドクソ
フールというのは、愚か者という意味です。ちょっと、私にはまったくない展開で圧倒されています。

最初の2節は分かるんです。いや、それもすごくいいんだけど。分かる。真逆の2人。ここだけを詩にしても傑作に選ばれている気がする。それくらい良いんだけど、ここからもっとすごくなるんです……が、1つだけ。<僕と貴女、貴方と僕>ここだけ、貴方になってるんです。他は全部、貴女なのに。これは、何か理由があるんでしょうか。誤字なのか、あるいは核心が……ちょっと、分からない。分からないまま進むのは不服なのですが、進みますね。すみません。
<僕は貴女になりたいのだ/許されるなら、今夜身体を交換しよう><入れ替わったらしたかったこと/うまく思いつかないから/ネイルを噛んでみた>ここです。ここ。このスムーズな転換に驚きました。読者の気づかないうちに入れ替わっています。入れ替わるという、非科学的な、本当なら何行も隔てる必要のある行為を、たったこれだけでしてしまっています。それから、また新しいのは、こういった情緒的な詩に、行動を交えたこと。ただただ貴女の魅力を語ってしまいがちだし、それで充分魅力がある視点、文章力なのに、作者さんは動かします。これ、結構勇気がいると思うんですよね。下手したらぐちゃぐちゃになってしまう。台無しになってしまう。それでも行けるのは、詩への並々ならない自信があるのでしょう。実際、成し遂げていますし。
逸れました。この詩の真価は、最後にあります。<嘘みたいな夜/本当の身体を失った。嘘みたいな夜/貴女が鉄橋から飛び降りたという噂を聞いた。嘘みたいな夜/川に流されて、通報されたのは二時頃だと聞いた/嘘みたいな、夜>こういう始まり方をする詩で、ハッピーエンドとは限らずとも、ここまでのバッドエンドというのはあまりないのではないか。陽光に照らされた花のような貴女。そんな人に憧れ、果ては、その人自身になりたくなる。すごくよく分かる感情です。暗闇で咲く花である僕には、貴女がどういう生態なのか、まったく想像がつかないんですよね。
そんな貴女が、身体を交換した途端、自殺という最悪の行動に出る。これ、憶測でしかないのですが、作者さんにも想定外の行動だったのではないか。前半、僕と貴女の描写は実体験というか、そういう想いが本当にあったんだと思います。それくらい切実でリアリティのある描写だから。で、本当に入れ替えてみてしまった。キャラクターを奥底まで落としこむと、勝手に動いてしまった、というのは、優れた作品によく聞く話です。勝手に動くものだから、読者にも予想外で驚くんですよね。深い感動を与える。この貴女のことは、誰にも分かりません。ただ、もうこの世にいないのは確かでしょう。ゆっくりと、その代わり読者の深くに傷を残す詩です。フール。ちょっと、敵わないなと思ってしまいました。


『壁の香り』木葉 揺
これまたただの憶測、妄想でしかないのですが、この壁、恋人なのではないか、と思いました。

そうか。これ、人への詩なら、なんだっていいんだ。というか、人じゃなくて、なんだっていいんじゃないか。ちょっと、ものすごいことです。これ。
どこから手をつけたらいいんだろう……。タイトルは、壁の香りです。香り。壁ではなく、壁の香り。壁も香りも、どちらも重要なんです。そう、この詩は、<良い香りの壁がある>で始まり、<まだ良い香りがしている>を経て、最後、<今はただ/良い香りだったことを覚えている/でもどんな香りかは忘れた>で終わります。ほかに「香り」は使われていません。これ、詩全体を眺めると、ちょうど分岐点で使われているんですよね。起、転、結。それ以外に一切使われていません。
壁は、乗り越えるべきものという意味で使われます。でないと、わざわざ描写する意味がない。そこらじゅうにあるのだから。剃られるための髭、歩かれるための道。でも、この詩は、壁と寄り添います。この詩で壁は、良い香りがして、しかも温かい。そんな壁、ちょっとなかった。
たくさんの捉え方、解釈が許される詩です。あまりにも何もかもを許してくれるので、正直、何から書けばいいのか戸惑っています。1年近くこの記事を書いていて、こんなことは初めてです。恋人、親、兄弟、社会……。
勇気を出して進みます。壁は、自分自身でしょう。どんな日々を送っていても、自分は成長し続けます。エスカレーターのように。時間というのは、絶え間なく自分を老けさせます。それは、生物にとって、どうしても変えられない事実です。この主人公も例外でなく、そのようにして、進み続けました。登り続けました。
そして、壁が現れた。昨日まで気づかなかった壁。それはなぜか。主人公は何もしていなかったからです。だから突然のことのように思えた。その壁は、良い香りがして、暖かい。それは、主人公の郷愁です。これまでの自分。人生はエスカレーター的に進み続けますが、壁を乗り越えなければ、壁もまた同じく進みます。そこであらゆるものがストップする。
主人公は、<まだ良い香りがしている>壁を、<もしかして>と思い、乗り越えます。<私にとって新しい日でも/壁にとっては過ぎたもののように>気づいたのでしょう。つまり、乗り越えなければ、永遠にこのままだということを。ただ歳を重ねるだけだということを。<そこには本当の世界が広がっていた/本来はこっち!>ここ、すごく好きです。どんな解釈にせよ、ここには希望がある。きらきらしている。
そして最後。<今はただ/良い香りだったことを覚えている/でもどんな香りかは忘れた>主人公は、これまでの自分を乗り越え、決別することを選びました。これはきっと、最後の壁ではないんですよね。節目節目で、壁は突然現れます。その度、温かくて良い香りの壁と一緒にいるか、乗り越えるかを選ばなければならない。私のこの詩を好きなのは、壁が悪として描かれていないところです。で、乗り越えろとも言っていない。ただ、乗り越えないと、<本来はこっち!>の感動はないままでしょう。
ううん。どうでしょうか。あくまで解釈のうちの1つですが。恋人としての壁、親としての壁、子どもとしての壁、人をあてても書いてみたかったのですが、長くなりすぎてしまいますね。しかし、この許容範囲の広さはすごいです。きっとこの詩は、私なんかの見えているよりもっともっと広大なのでしょう。並々ならない胆力があります。凄まじい。

佳作集Ⅰ

『ほんとう宇宙』塚本 愛
すごい。羨ましい。言語化能力が卓越しています。これ、数多の人が描きたいと思い悩みながら、描けなかったことです。それをやってのけている。

すっごくいいです。ほんとう宇宙。この気持ちいい言葉を作っただけでもすごいのに、また、この詩はその気持ちよさを越えてきます。
数多の人がやりたいのに出来ないこと、それは、生活を詩にすることです。やっぱりどうしても、過去の回想になったり、何かアクシデントを起こしたくなってしまう。この詩にアクシデントはありません。そして、回想でもない。いま、現在進み続けている、ことを言語化しています。ちょっと、これまでにないものです。
「ほんとう宇宙」は3回しか使われず、うち2回は前半に、最後の1回が締めに使われます。私の好きなのは、というか、この詩の凄さが現れていると思ったのは、ここ、<そんな宇宙の中で私は汚いことを考える>ここからの展開です。生活。生活が、ここからずんずんと進んでいきます。そしてそれが、いちいち美しい。<時には地の底に落ちたような気分になって/実際は落ちてないからお酒を飲んで/今度の給料で何を買おうか考える>たとえば、ここの展開。これ、すごくないですか?作者さんの脳内を見てみたい。どうなってるんだ。どうやったらこんな風に書けるんだろう。
「ほんとう宇宙」の語感の良さだけでなく、細部まで練られている詩です。才能を痛いほどに感じる。読んで幸せな気分になりました。ありがとうございます。


『そうするたびに、僕はよみがえった』い川ちづる
いや、めちゃくちゃかっこいいです。なんだ、これは。いままで色んな詩を読んできましたが、この展開はちょっとなかったんじゃないか。

いやあ、かっこいい。このかっこよさはどこからくるのか。ちょっと見ていきたい。
この詩のなかで、生命循環は何を意味するのか。それは、社会的な活動のことだと思います。テンプレートな、標準的な生活を送れているのかどうか。主人公は、ずっと生命のことについて考えている。それは、生命循環のわっかから外れてしまったからなのではないか。<ぐるぐるぐる。/回り続けられているうちは/まだ怖くはない。/><ぐるぐる。/でもやっぱり、/ふとしたときに怖いな、/と思ってしまう。>それは、ここを読んでそう感じました。私も同じような経験があります。高校に行けなくなり、あと1日行かないと留年だと言われたり、仕事をだらだらやって、上の人に呼び出されたり、どうしても就活が出来なかったり。作者さんは、そういう意図で書かれたかどうか分からないんですが、ここ、すごく共感したんです。あまりにも新鮮なことばで、そのころの感情が戻ってきて、痛くなった。<ぐるぐる。>が、目新しい言葉でもないのに、それだけで1行使ってしまえることのかっこよさ。力を込めてかき混ぜられている感じがします。
そして最後。<少女が本をあけた。/面白そうに目をひらく。/そうするたびに/僕はよみがえった。>ここですよね。やっぱり、ここがすごい。この少女、これまでに出てきてないんですよ。初めに出てきた君かな?とも思ったんですが、いや、やっぱり違う気がします。この少女はこの少女なんです。タイトルへの回帰。タイトルをぞんざいに扱う人って意外に多いのですが、作者さんは、かなり大きく扱っています。
なぜこの少女の、この描写をこの展開の最後に持ってきたのか。最初、主人公は君を羨ましく思い、そして、おそれを抱いています。なぜか。主人公は君のようなことをしたいからです。生命の神秘を描き、生命の残酷を言い当てたいから。生命の循環から外れた主人公には、それをやるしかないんです。あるいは、それをやりたくて、あえて外れたのかもしれない。そしてぐるぐるぐる。主人公は描き続けている。本当に大丈夫なのか。評価してもらえるのか。自分はどうなるのか。誰にも何も分かりません。こわい……となってからの、最後なんです。さあ、この少女は誰なのか、と。自分自身なのかもしれない。幼なじみかもしれない。初恋の相手かもしれないし、まったく知らない他人かもしれない。
こういった、読者に想像を委ねる詩、すごく好きなのですが、記事にしてしまうと誤読になりそうで恐ろしい。のですが、恐れず進もうと思います。私の見解。この少女は、主人公なのではないか。一人称が僕ですが、いや、主人公の性別は明記されていません。それとも少女は、主人公の内に潜む者なのかもしれない。あるいは僕というのは、内気なときに出てくるので、主の方が少女なのかもしれない。とにかく、この少女は主人公であり、本をあけて、面白そうに目をひらくのも、主人公です。タイトルにもある<そうするたびに>、これ、対象が他人であれば、それを見るたびに、とかになると思うんですよね。そうする、というのは、自分の行動というか。語感の関係上、<そうする>にしたのかもしれないですが……。主人公はぐるぐると回っています。ぐるぐるぐる。君のことを羨ましく、おそれを抱き、自分は大丈夫なのかとか考えながら、そして、本を読みます。これ、君の本なのではないでしょうか。君の本は面白いんです。目がひらいてしまう。作り手としてでなく、読者になってしまいます。そして、そうするたびに、僕はよみがえる。で、また冒頭に戻るんです。ぐるぐるぐる。君が羨ましい……。
どうでしょうか。少し無理やりな気がしますが、筋は通っている気がします。先にも書きましたが、色んなことを読者に委ねてくれている詩だと思うので、あくまで私の読み方ですが。可愛くて、かっこよくて、構造も面白く、言葉選びが秀逸です。ついつい、自分に置き換えてしまいました。励まされる詩です。かっこいい。また読みたい。

佳作集Ⅱ

『歳月』滝本政博
うーん。難しい詩です。掴めそうでぬるりと掴めません。しかし、他にはないものを、はっきりと感じました。

<死んだ父が縁側で煙草を吸う夜明け/私と犬であるお前は蒲団から這い出し散歩に出かける。>これ、最初と最後の節で、まったく同じです。とりあえず押さえておきたい。
主人公は大人です。子どもたちが巣立ったということですから、かなり年齢を経ています。そんな主人公からみた、父。この父がまた、すごく魅力的な人物です。<気の小さい真面目な男だった/かわいそうな人だったと思う。/自分の妻と 妻と折り合いの悪い母を愛し/時に彼の大きな不安の種だったであろう/私を叱りつけることさえ出来なかった。/彼が何を夢み何を楽しみに生きたのか私は知らない。>主人公は、父親との親交はそれほどなかった。いや、主人公は父のことがすごく好きなのだろうけれど――好きなどという言葉では収まらない、ふんだんな愛が含まれている――ともかく、言葉を交わすことは多くなかった。それくらい父のことを、主人公は知りません。そして、いまは亡き父への回顧がこの詩の多くを占めるのですが、にも関わらず、父への想いは<かわいそうな人だったと思う。>だけです。客観的に父を描いている。私見を挟まず、だからこそ、読者も想像しやすい。ここ、絶対色々語りたくなると思うんですよね。なのに。抑えています。それだけに、かわいそうな人、というのは重要です。
<私は私で まだ目覚めていない頭のなかの道を歩く。>ここ。この詩を捉えにくくしているのは(もちろん、あえてなのでしょうが)ここなのではないか、と思いました。これ、ここから展開されてゆく文章は、すべて主人公の頭のなかなんですよ。頭のなかの散歩なんです。犬を連れての散歩というのは、毎回同じ道を通ります。知らない道だと、犬が混乱し、場合によっては怖がってしまうから。この頭のなかの散歩、父への回顧も、何度も何度も通った道なのではないでしょうか。散歩というのは、強いられてするものではなく、趣味としてするものです。この回顧も、そうせざるを得ないような雰囲気を感じました。つまり、父の謎、父への想いは、何度歩いても解決せず、でも、何度も何度も歩いてしまう。そういうものなのではないでしょうか。
そして最後。<散歩から帰る頃には父の姿はない。>初めに引用した2行は同じなのですが、3行目が違います。主人公の父への想いがほとんど描かれていないと書きましたが、この最後の1行にすべて詰まっています。父を想い、また同じ道を同じ思考回路を辿ってしまった主人公。何をしていたのか、何を感じていたのか――そして、気づいたら帰ってしまっていた。もちろん、もう亡くなってしまった父の姿はありません、会えない。主人公は、散歩の間だけ父に会い、父のことを考えられるんです。散歩は、歩くだけで散歩ですから。この虚無感。読者は、主人公とともにずっとこの父のことを見て、感じています。その父が、帰るといない。いないことを実感してしまう……うーん。伝わりますかね。私には、こういう風に感じられました。映画か漫画のような、そこに画がないと伝わらない、感じられないような感情が、ずどんとのしかかってきた。これは、ちょっと敵いません。静けさや可愛らしさが世界観を邪魔せず、絶妙にフィットしている。極上の詩です。


佳作集Ⅲ

『夏休み』七まどか
うんうん。分かるなあ。この視点。分かるんだけど、だからこそ、描き方ってすごく難しいんですよね。

FPSとか呼ばれる、戦争のゲームですよね。少年少女がそれをしながら、テレビでは戦争が報道されている。この違和感。こういう詩って、ほんの少しでも間違えると、説教臭くなりがちです。でも、全然そうなっていない。どころか、すごく詩的です。
それは、主人公の心情がまったく描かれないことが重要な気がしていて。ただただ受動的です。見えるもの、聞こえるものを描写している。そしてタイトルが夏休み。すごく目に浮かびます。
そしてやはり最後。<昼食に食べ残した素麺は/すっかり乾ききっている>これ。フェードアウトしていく、ゲームをしている子どもたち。いやあ、ただただ何かを批判する詩って、あんまり好まないのですが、この詩は全然そうじゃないんです。なのに、ちゃんとこのもやもやを読者に伝えられている。私にはこんな風にはとても書けないので、ありがとう、と言いたい。


『香りの先にある幸せ』オリエンタル納言
えー。ちょっと、すごく新鮮な詩です。うまく言えないのだけど、視点が全然違う。

たくさんの詩を読んできました。色んな人の色んな主張や趣向、視点に出会ってきました。が、作者さんはまったく違うと感じました。それはどこから来るのか。なぜなのか。
大きな理由のひとつに、「私」の多用があると思います。私。一般的に、文章は、一人称、二人称、三人称があります。この詩は一人称なのですが、でありながら、三人称でもあるんです。私を描いているし、主人公は私なのに、俯瞰です。ちょっと恐くなるくらい冷静で客観視しています。これはちょっと、いままで無かった。研ぎ澄まされた刃のような詰め方。
すごく温かい詩です。なのに、上記の恐ろしさは随所にみられます。<「いらっしゃいませ」/心にゆとりがありそうな女性の声がした/「あぁ、私の中にないものを持っている人だ」>例えばここ。ここが無ければ、前半、すっごく幸せな詩なんです。読者まで楽しくなってしまう。なのに、毒が入る。私、ここ、視点の違和感に気づいていたことも相まってぞっとしてしまいました。<場違いなのは、分かっている/今の私には足りないものが詰まっているような気がするからだ/きっと、袋を抱えていた人の中身も同じものが入っているのだろう>それからここですね。客観視。自分を自分として描きながら、隅から隅まで観察しています。自分。ゆとりのある、いい香りのするパン屋にいる自分。その分、他人を見る目はありません。一緒くたにしてしまう。みんなゆとりがあるのだ、と。そんな人の行き着く先には、劣等感しかありません。「私」が隅々まで何もかも完璧な人間でないと、納得出来ない。その感覚、分からなくもないですが、ここまで隙のない文章は私には書けません。 やはり、作者さんの日頃からの蓄積が現れている気がします。
私はこの記事を書くうえで、他の方の詩では、たぶん自分のことを書いているのだろうな、自分を主人公にしているのだろうな、と思っても、気づかないふりをして「この主人公は〜」と書いてきました。間違えたら、ものすごく失礼だから。けれど、この作者さんにかぎっては、この主人公は作者さんだろうと。初めて断言します。それくらい文体が独特で、また、主人公の性格と合いすぎているから。
 最後。<そして、服についた香りと共に店を出た/メロンパンの入った袋を持った私は/幸せの仲間入りをしたのだろうか/それは、手にぶら下がる袋と匂いだけが答えを知っているのだろう>いい香りのする、好物のメロンパンを買ってさえ、自分を許しません。が、少しだけいい気分になったので、答えに隙を持たせています。この人間臭さも、また、あえてそういうものも含ませてみようというような、技巧を凝らしたものではない気がします。リアリティがあり、その思考になった道筋がくっきりと見える。こういう全身全霊の詩は、読むとすぐに分かるものだし、それでも何とか抜け出そうとしているのも伝わる。この詩では、メロンパンだったのでしょう。読者はその起伏にさんざん振り回されますが(私もその1人です)、楽しげでやわらかい雰囲気から、突然闇が見える、ピンと空気を張り詰めるこの緊張感がたまりません。作者さん、おそらく、ココア共和国に投稿したのは初めてですよね。これからどうなってゆくのか、すごく楽しみです

おわりに

また、誰も見ていないと思って好き勝手書きますが……今号は、好きな詩がすごく多かったです。なのに、うまく言語化できず。悔しい。本当は、言語化なんて出来ないのかもしれませんね。
佳作集Ⅱは、滝本政博さんのものだけですね。1集に2作以上取り上げたいのですが……ちょっと、滝本さんのものが凄すぎて。極上とか言っちゃってますね。うん。いや、でも、改めて読んでも、間違えてないです。悔いがない。
凄いものを読んでしまうと(いや、みんな凄いのですが)、ちょっと、しばらくその作品が脳にこびりついてうまく取れないんです。それで、しばらくぼうっとしてしまって。塔いさなさんのも、すごく良かったんですが。だめですね。私。

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