ココア共和国2022年1月号雑記

まえがき

 初めまして。ことぶきです。ココア共和国に詩を送り始めてから、1年ほどになります。それまで詩なんて知らなかった私ですが、ココア共和国に出会い、魅入られ続けて1年が経ちました。
 これをはじめるのは、ごく個人的な苦悩からです。それは、「私の作るものは、すべておもしろい」ことです。もしかすると、詩にかぎらず、私にかぎらず、あらゆる作者さんに言えることかもしれません。「私の作るものは、すべておもしろい。」かっこ書きに、(私にとって)と加えれば伝わりやすいでしょうか。おもしろいと思ったから書いて、おもしろいと思ったから原稿を送る。問題は、すべておもしろい私の作品を、おもしろいと思われるとはかぎらないことです。高校生の頃の私の思惑では、既にあらゆる文学賞を総ナメ、次代の安部公房と称されているはずでした。
 思えば、みんなそうなんですよね。(私にとって)おもしろいものだから、みごと書ききり、送り、評者に支持され、読まれているのだと思います。(不安ながら、自信なさげに、の人もいるにはいると思うのだけれど、それでも)。つまらないものを書こうと思わないし、書けないし、送らないと思うんです。
 にも関わらず、私にとってあなたの作品は(あなたにとって私の作品は)時につまらなかったりする。何かしら賞を受けたものでさえ、広く世に評価されているものでさえ、(私にとって)ありきたりな、どうともないものだったりする。
 そして、矛盾するのだけれど、つまらないものなんてない、とも思うんです。うまい詩や、小説もないと思うんです。ケチをつけようと思えばどこにでもつけられるし、褒めようと思えばどこかしら褒められる。最終的には好みの問題で、その作品がどれだけ多くの人に好まれるのか。それだけなんじゃないかな、と思っているんです。
 話を戻すと、私は、私の作品がすべておもしろいと思っています。少なくとも、世に出した時の私はそう思っていたはずです。なのに、それほど評価されることがない。私に必要なのは、客観だと思いました。
 これを始めるのは、私のためです。私の勉強のため。ココア共和国に掲載されるには一定の基準がありますが、どんなものがおもしろがられているのか。ただ読むだけじゃなく、技術的側面もみてみたい。こういった試みは初めてで、分析、解析、感想、どれかひとつに定義づけするのは難しいので、とりあえず「ココア共和国雑記」としてみます。あるいは全然うまくいかないかもしれないし、夢中になってたのしむかもしれない。これっきりになるかもしれないし、ココア共和国が無くならないかぎり続けるかもしれない。まだ着手していないため何とも言えませんが、とりあえず、やってみようと思います。


傑作集Ⅰ


『天才のための詩/凡才のための詩』 七寒六温

 連作です。ふたつとも同じ内容なのだけれど、『天才のための詩』の方はほとんどの文字が抜けていて、何を書いているのか分かりません。『凡才のための詩』であきらかになる。
 七寒六温さんが伝えたいことは、凡才にも天才にも同じ内容。それは共感です。それから応援。あたたかい、他人へのあきらめ。「頑張って」や「「」いいよ」、「大丈夫」、は「天才のための詩」でも読み取ることができます。どちらも互いに羨んでいて、どちるも互いに頑張っている。
 自分は天才だとか、凡才だとか揺れ動いてしまう人って多い気がしています。そんな人を含め、包み込む、肯定する、詩をふたつ使うという手法。目新しいだけでなく、胸があたたかくなりました。


『棲む』 塔いさな

 棲む、と住む、は意味あいが違っていて、前者は動物、後者は人間であるそうです。
 作者さんはしかし、「棲む」の方を採っていますね。もはや人間とは呼べないそんな雰囲気を、詩からも感じ取れます。「どうせなら/詩人として死にたい/君の中で死にたい」が、この詩をさらっと読ませない箇所で、「詩人」であることと「君の中」に脈絡があるのでしょう。「君」の想像を膨らませ自由にしています。どろどろとした、静かで、凄みのある詩です。

『幸福』 茉莉亜・ショートパス

 静から動、怒りが伝わってくる詩です。最初は何も考えず、団地、鳩、吐瀉物、光を文字に起こして、そこから作者さんの思いもよらないところにどんどん展開していったんじゃないかなと、読んでいて感じました(実際には練られたものなのかもしれませんが)。
 この詩の「ボク」は幼いです。作者さんは「ボク」を幼く見せるために、カフェオレやひいおばあちゃんのお兄さんを登場させているように感じます。
 死や、赦しや、女の子のことが頭にあって、吐瀉物を見るだけでそれぞれに連結させます。そしてエネルギーがあり、常に何かに腹を立てている。衝動、劣等感、自己嫌悪。ボクはなかでも、赦しを求めています。「ボクは赦されていない。酔っぱらいでも脱走したゴリラでもいい。誰かがボクを1発殴ってくれさえすれば赦されそうな蜘蛛の糸でボクは首を吊っている」そして、「おはようを言う相手がいないことも一種の幸福だ。ボクが赦されない限りの。」でこの詩は終わります。
 この詩のなかで、ボクはずっと1人です。ボクの頭のなかで様々なものが交差します。ボクを赦していないのはボクです。まわりには当たり前の少年に見られているけれど、自分の自覚する自分は当たり前ではない。「カフェオレはどこまで混ざり合ってもひとつにはなれないから人間と相性がいい。」吐瀉物と似ていると思うボクの、ひとつになれないボクの、カフェオレへの愛。すごく共感できるし、普遍性があって、きっと本当は、すごく優しいボクに胸が痛みます。
 蛇足ですが、もうひとつの見方として、ボクは殺人犯である可能性もあります。当たり前の男の子なのか、そうではないのか。「階段から突き落とされた人と突き落とす人/吐く人とそれを掃除する人」ボクはどうして赦されないのかも考えるのが面白いです。

『ポケットの栗』 真城六月

 ごく幼いころの記憶をたどらせてくれる詩です。私はまだ24歳なのですが、小学生のころのことって、本当に曖昧で、どこか現実味がない気がしています。でも、確かにある。それを作者さんは、栗と結びつけています。「わたしは栗をポケットに入れて電車に乗りました/電車は常に一寸先の闇行きで/うとうとしている間に駅に着くのでした」この3行。一気に小学生のころに戻ってしまいました。懐かしいにおいを感じる。
 「歯の治療歴を調べず 刺青を確かめず/ポケットを探って下さい/すぐにわたしと分かります」ここ、初めに引っかかる部分でしたが、「おじさん わたしはこんなとこまで来たよ/みんな歳をとった」みんな歳をとった、みんながポイントで。「わたし」は「栗」は、みんなの郷愁なんですよね。誰しものポケットにあるもの。過去の、おじさんとの詩ではなく、みんなを導引させているのが他と違っていました。


『汚れちまったプリンセス』 笠原メイ

 こういうもの、最初の並列ものは読み飛ばしてしまいがちなのですが、面白くて何度も読み返してしまいました。線路に吸殻を投げ捨てる、毒林檎を食べなかった白雪姫。コンビニで菓子パンを万引きする、不眠症のオーロラ姫。私は、並列ものを書くとき、なるべく集中して読んでもらえるように、リズムを意識するのですが、この詩はすごくリズミカルでありながら、プリンセスの要素も相まってか、アニメのように、場面転換が次々と頭の中に流れていくのが楽しかったです。
 そしてそこだけでは終わらせず、「自分が主人公だと忘れてしまった/そんな人間だけで回り続ける/腐りきった 美しい世界」「あの不良娘たちを更生させなければ/自分が一番の不幸者にはなれないのだから」皮肉や、世界の把握の仕方についても触れています。


『いっかくじゅう座』 のぐちみね

 ひらがなの多用が目立ち、手塚治虫作品のような、優しい目をした動物たちをイメージしました。
 文章を書くうちに、自分の処理しきれないこと、把握出来ないことが解決してしまう瞬間があります。もつれた糸がするりとほどける感覚。作者さんもそうだったのでは。なにか伝えようとして書いたのではなく、書けてしまったんじゃないかな、と憶測してしまいます。
 「仲間たちはみんなよろこんで 水を飲むことができ/傷つけられた額の傷は 不思議と消えていった」このいっかくじゅうは、「傷つけることしか できなくなった/むきだしの角」としていましたが、ここで仲間たちに傷をつけてしまっていたことをあらわしています。そしてそれを自覚していた自分。「汚れた自分に 汚れた湖がよく似合う、と/かまわず水を飲もうとした」ことですべて浄化されていきます。メタファーのようで、教訓のようで、動物ものは、独特の気持ちにさせてくれます。


『不ジ男の自殺計画』 田中傲岸

 どこまでも鈍臭くて、それでも必死な男がユーモラスに描かれています。死は生の1部であり、なら死の対極は幸福なのではないかと、不ジ男に思わさせられました。行を変えることなく、一気に駆け抜けていってしまうこの詩が不ジ男と合っていて、詩というものの許容範囲の広さを思いました。
「散髪にも行くと清潔になって自信がつき、帰りに喫茶店の看板娘と連絡先を交換した。何度かデートしたのちに同棲を始めて幸せだったが」のテンポがすごくて、私は、書きながら寄り道してぐちゃぐちゃになってしまいがちなのですが、無駄なものを省いて、ただ不ジ男を突っ走らせてあげています。作者さんの余裕を感じる。
 読んでいて笑ってしまう詩、というのは憧れのひとつなのですが、狂気や死や、オカルトが共通してどれにも入っている気がしています。でも、それもいきすぎると滑ったり、路線がおかしくなってしまうので、バランス感覚が長けた詩だと思いました。


『フラミンゴおじさん』 西川真周

 これも郷愁、なのでしょうか。私も作者さんと同じ、関西出身なのですごく共感出来ましたが、他地域にもこういうおじさんはいたのかな。笑いの隣には狂気、オカルト、死があると書きましたが、シュールも含まれることがあります。シュールはオカルトや狂気の1部なのだけれど、ここもやはり、バランスがすごい。
 フラミンゴにモッツァレラチーズ。これがきゅうりでもダメだし、キリンでもダメなんですよね。コレしかないっていう感覚がある。フラミンゴにモッツァレラチーズ。
 「ここからが怖いのですが」や「ぜったいウソやんと僕は思いましたが/マサヒロにはぜったいウソやんとは言えませんでした/マサヒロはいいやつだからです」ここで小学生の作文の雰囲気を醸しています。ここが抜けていたら、もしかすると読んでいてリアリティが足りなかったかもしれない。小学生なりの真実味を帯びさせています。
 物語性のある詩には、登場人物が重要なのだなと感じました。この3人はみんな個性があって、性格を読んでいてすぐに把握出来ます。私はそれが苦手なので、細部に宿らせたい。何度も読みたくなる詩だと思いました。

傑作集Ⅱ

『線とハサミ』 向坂くじら

 子どもの純真に頬を緩ませていると、深いところを作者さんに刺されます。
 「どこまでが自分で どこからが自分でないか/足元に落ちた髪 わたしではない/ニュースの中で死んだ人 わたしではない/子ども ちょっと前までわたしだった」明暗がはっきり分かれているもの、事象と心象が重なるものは終わり方が難しいのですが、「わたしの髪とりいちゃんの髪/美容師さんのちりとりのなか/重なり合って眠っている」と締めています。子どものりいちゃんと、子どもではないわたし。それぞれの自分は別の人間であるのに、自分でない髪は重なり合って眠っている。自分の境界線、自分と他人の繋がりを、作者さんの感性で結んでいます。


『黄色い線の内側で』 波崎 拓

 ネガティブを超えた場所に、作者さんはいるんだなと思いました。それはポジティブで、でも単純なポジティブではなく。特有のあたたかみがあります。
 「いつでも死ねちゃう」僕らは、だから、「自分が可哀くて大切だった」としています。可愛い、と可哀想、の誤用はよく見ますが、ここは両方を兼ねての「可哀くて」なのでしょうか。詩というものが何なのかはまだ分かっていないけれど、言葉あそびや、雰囲気から詩らしい詩な感じがします。今号に載っている霧野うたさんの『潮』しかり、死から海を連想させる人が詩人には多い気がします。海から無や、広さや、を感じているのでしょうか。私も取り入れてみたい。


『枯れない地蔵』 東京花束

 科学と幻想のさかいめ、そこを確かにするのが私の目標のひとつでもあるのですが、作者さんは一筋の光を照らしてくれました。
 「牛飼いのじいちゃんがやってきて/地蔵のまえでちぢこまった」わからないもの、不確かなものをあらわすには、不確かなもので対抗している感じがします。メタファーを紛れ込ませ、わざと捉えにくくしている。ここでちぢこまっているのはじいちゃんでしょうか。地蔵でしょうか、牛でしょうか。「黒い羽根が/じいちゃんと地蔵のすきまに/すうっとわり込んでつくった風/ついさっきのお供えもんは/電信柱のくちばしの先」これはカラスですが、カラスということばを使わないのが気持ちいい。かっこいいです。でも嫌味がない。「手を合わせたまんまのじいちゃんが/目をつぶったまま/いいよといった/あれは枯れない地蔵」で締めくくられます。幻想を科学に近づけるかたちで、現実にもっていっています。じいちゃんが何かを許す必要があったのでカラスを持ってきたのは分かりますが、牛飼いにしたのはなぜなのでしょう。田舎っぽさを醸し出したかったのか。お供えもんはじいちゃんが置いておいたものだったのでしょうか。主人公の視点に入りこみ、すらすらと読めながら同じ感情にさせてくれます。


『富士山』 蘇武家人

 何なのでしょう、これは。素敵な素材がたくさん散りばめられているので、人によって見方が変わります。あたたかい気持ちになる人、胸を痛める人、笑ってしまう人。
 前半は体言止めが続きます(体言止めで合ってるかな)。「今朝は殊の他くっきりと。母はただただ黙って眺め。」老人ホームから見える景色。主人公の年齢は分かりませんが、若くはないでしょう。施設長の挨拶。令嬢と老人がその場にいて、対極の2者ですが、どちらも話を聞いていません。数行しか書かれていないにも関わらず、令嬢の存在感がすごいのは、この静かな中、彼女だけが騒がしいからでしょう。彼女がいなければ、ただ穏やかな雰囲気になっていた。「今朝の富士は殊更大きく高くそびえ、苦労で縮んだ母たちを遠くから優しく見守る。この日を迎え数えで一歳。レクレーションの福笑いが変な顔してみんなを見てた。」で締められています。ここに令嬢は出てきません。老人たちの引き立て役だったのでしょうか。「変な顔してみんなを見てた」が絶妙で、笑っているとも泣いているとも捉えられます。もしかしたら、複雑な感情の主人公の顔なのかもしれません。


『自己中心的性交』天原・落

 バルロッカ、ネットで調べても、確かに意味はなかったです(美味しそうなイタリアンのお店は出てきたけれど)。意味のない言葉を作る、使うことって案外難しいことで、しかもなんとなく女性っぽさまで感じてしまいます。
 タイトル通り、性交についての詩。とも捉えることができます。まずそちらから。性交をメタファーなくあらわしてしまえるのは、意外に少ない気がします。「私は私を/もっと/嫌いになりたいからだよ」「私は私を/もっと/軽蔑したいからだよ」性欲への作者さんの答えを導いています。私は私を肯定したいのではなく、否定したいから、交合いたくなる、と。
 「私は現実逃避がしたいのだ/私は温度のないお前と肌を合わせ/自分に温度がないことに恐怖したいのだ/自分にセイがあることに絶望したいのだ」ここで、本当に性交のことなのかな、と疑いました。お前(バルロッカ)は温度がない。詩を読む時の私に重ねてしまいました。セイはカタカナです。性であり、生とも捉えられる。主人公にも温度がない。もっと恐怖したい、絶望したい。作者さんは、なにか読むこと、観ることを「自己中心的性交」としているのかもしれない。ただ性欲むき出しの詩にも見えるし、メタファーだらけにも見えてしまいます。やはり性交というテーマは、奥が深い。広い。

『あなたがいなくなって、私だけが悲しめない』 長谷川ゆる

 取り上げるかどうか悩みました。目を背けてしまいたくなる詩だったから。あまりにも感情がむき出しで、ひりひりしていたから。
 主人公は混乱しています。「私だって、悲しみに暮れていたい」悲しむことさえ出来ない感情、を描きたかったのかもしれません。そこさえ超越してしまったもの。「言葉が散乱銃のように、発射された。/声が掠れて、言葉も水分も弾切れになった頃。/もう何もかも捨ててしまおうか、と最後の一発。」銃、弾が多用されています。ひどい言葉、のメタファーなのかもしれないし、実際に銃を意味しているのかもしれない。なにがここまで主人公を混乱させたのか。「だけど、私が捨てたら、/誰かが拾って、これを味わうのか。/私の大切な人たちが、味わうのだ。/それだけは、死んでも嫌だ。」私は死についての詩なのかなと、ここで思いました。主人公には大切な人が少なからずいます。何もかも捨ててしまう、最後の一発を、主人公は死んでも嫌だと拒絶します。死よりも嫌なこと。大切な人たちに同じ感情を味わわせること。主人公は簡単にその1発を撃てることを意味しています。
 「右ウインカーを出して、発進する。」泣きじゃくり、感情を爆発させた果てに、発進することを選んだ主人公。読んでいて辛くなる、痛くさせる詩は、読者を揺さぶっているものなのですから、この熱はすごいです。簡単に把握させてくれません。いなくなったあなたを悲しめない主人公の、舞台装置を部屋ではなく車に決めた作者さん。死への危うさも暗示しているように思います。


傑作集Ⅲ

『ヒトゴトール教授とキザッキーニの憂愁』 木崎善夫

 書簡体小説の一節をそのまま持ってきたような、メッセージ性が強く、でもおもしろい詩です。私は落語を趣味として聴いているので、より楽しめたかもしれません。志ん朝と枝雀、江戸と上方から1人ずつ出すところに気配りを感じます。
 ヒトゴトール教授とキザッキーニは日本人なのでしょうか、注意してみると、どうやら違うらしいことがわかります。2人の国籍は不明です。ヒトゴトール教授もキザッキーニも日本が好きですが、愛し方がすこし違っています。ヒトゴトールは国を「愁える」学者、キザッキーニは「憂える」労働者です。ヒトゴトールは日本を思いわずらい、キザッキーニは自国を心配しています。キザッキーニは日本に賛同ぎみ、ヒトゴトールは日本を反面教師にすべきだ、としています。肯定の意味では日本、否定の意味でニホン、とそれぞれ使い分けています。なぜ否定するのか、それは日本が母国語の日本語を失ったからで、「母国語を失ったニホン人に帰る場所はない」からだとします。「暮らしに根ざさない言葉は、心が抜け落ちていて響かない。/言葉は心であり、心の置き場所が故郷であるならば、母国語を失ったニホン人に帰る場所はない。」言語文化人類学にも政治にも疎い私ですが、作者さんの訴えでもあろうこの言葉に、納得させられました。
 それにしても、書簡体の違和感がない。形式だけ真似ても、ここまでうまくいかないものだと思います。


『やさしいぴすとる』 寂井絲

 Twitterで何度か、この詩が褒められているのを見かけました。やさしいぴすとる。すべてひらがなで書かれていて、やっぱりひらがなの優しさを感じます。なぜ言葉がよく例えられるナイフではなく、ピストルにしたのか。
 けんかするたびに、主人公はしんでしまいます。主人公のぴすとるはぽんこつで、「うってもじぶんにはねかえって」くるから。死ぬ、はここでは2種類の方法で表現されています。1つ目「それでうつのをためらっていると/むこうにうたれてしんでしまいます」2つ目「きっところしてしまったら/わたしはわんわんなくでしょう/にどとあさはこないでしょう」前者は精神的な意味、後者にはリアリティがあります。主人公はやさしいぴすとるのお陰で、きっと、何度も殺されていますが、それでもやさしいぴすとるで良かったとしています。主人公が人を傷つけるとき、殺すとき、それは主人公の真の意味での死を意味しています。「にどとあさはこないでしょう」優しくおかしい詩に、はっとさせられる1行です。「わたしのぴすとるはやさしいです/やさしいぴすとるです」の終わり方、あたたかみを保ちながら、不気味さ、危うさも維持し続けています。どこか狂気さえ覚える。ただのあたたかい詩では、あれほど多くの人にツイートされることはなかったと思います。ここにポイントがあるのではないかなと思いました。


『しとしと』南雲薙

 詩についての詩は、いくつも掲載されていますが素人、という観点からくるのは初めてではないかな。きっと。いがらしみきお絶賛、とされています。短評にいがらしさんはよく、詩と素人ということを書いていますが、作者さんも意識されたものなのかな。
 『しとしと』は詩には出てきません。詩と死と、詩と詩と、死と死と。雨が降る音にも。さまざま組み合わせられますが、詩を戦わせると、死人が出るといいます。そして、詩人は「すべからく/みんな/素人ですから」といいます。すごい。「浅い雨が降って/まったくの夜行になっても/何が本物かなんて/やっぱり分からなくて」「やたら長い真夜中を観測し続けて/雲すら知らないで」詩的に、詩のわからなさを描いています。ずいぶん間抜けな感じがしますが、すごく共感できます。なにか作る人というのは、すべからく愚直で、間抜けでしょう。やっていることが、そもそも。
 「詩っていうのは/そういうものなのです/涙流した/あなたのものなのです」それでもなし得た人が、詩を自分のものにできる。狭い了見でも、見続けた、書き続けた人のものになる。励まされるし、作者さんの詩への取り組み方が見えます。


佳作集Ⅰ


『四方に散る』 ケイトウ夏子

 四方に散る、がどういう意味なのか、ずっと考えていて答えが出ていません。もし私がタイトルをつけるなら、『鱗』や『魚』にしてしまっていた気がする。全体的にうまくつかめない詩です。
 最後の2行「魚は潤んだ目を隠そうとせず/ただ そこにいる」がすごく印象的で、それまで情景描写、魚と主人公の関係だったのですが、そこでは魚だけが写し出されています。小さくて分かりにくくて、捉え辛かった魚を、ここでくっきりと描くことで、読み手に印象深さを与えています。「知っている手の払い方だった」がまた想像の余地を持たせます。魚は、ひれだったり鱗だったりがこの詩で登場するので、ではこの手は誰のものなのか、どういう払い方なのか、誰の払い方なのか。激しい腹痛に、頭の中まで混乱しているさまを描きたいのかな。とてもおもしろいです。


『痛みについて』 現代詩お嬢様

 現代詩お嬢様に毎回感心させられるのは、1行目がとても気持ちいいです。キャラクターであり、広く認知されている故、かなり難しいのではないかと思いますが、興奮ぎみの読者を落ち着かせてしまう、見事な1行目。
 『痛みについて』はいつにも増して詩的だと感じました。また、比喩表現が多彩です。「ミルクレープの重なりから原生生物の業を想起することもございませんし、」はキャラクターを維持しながら詩の流れも変えない、すっと入ってくる比喩って出来ないので、見習いたいです。
 女性特有の痛みは、完全には理解されにくいテーマで、その分狭く深く、熱くなってしまって読者が引いたりもするのだけれど、随所のツッコミどころ「テラスで頂くカフェラテで鎮痛剤を服用いたしますと、」「処方されましたばかりのお薬のすべてをボウルにあけまして、五号瓶のお酒で飲み干し、」で余白を残し、読みやすくさせています。そして「五合瓶のお酒で飲み干し、」に続く「倒れました夜の、目をつむっておりましても伺えました視界(それは夢ではなく)。」がリズミカルで、たまらない1行です。現代詩お嬢様には独特の言語感覚、リズム感覚があって、読んでいていつも気持ちよく、詩的要素がありユーモラスでメッセージ性がある。で、どことなく危うい幼さも感じる。魅力的な詩人だと思います。


『チョコレートパフェの日曜部』 波多江幸広

 日曜日、ではなく日曜部にしているのは、編集さんが入っていないのできっと誤字ではないのでしょう。
 最初の3行「チョコレートパフェの日曜日/ガラス棚にはローストンカツ/空には 青い線や緑赤の線が 飛び交ってる」がすごいです。容易に世界観を受け取ることができる。「なぜかって?」「すごいから ただそれだけ」が、「最高峰に深い理解」だとしています。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を思いました。若者の思考。ただリズムや韻を意識しているだけではなく、そこに意味を伴える。メッセージを加えられる。シュールでメルヘンな世界観は、そこを描き切るだけでも難しいのに、そこに作者さんの哲学があります。説得力があります。


『図書室の蜂』 豊田隼人

 「どんな人なんだろうと思う気持ちは/はちみつを舐めた時と同じ気持ち」直接的すぎず、分かりにくすぎない比喩が、3行目からさらりと入ってきます。
 「私と、三十四年前の人/間接的で深い交わり/蜂球をつくっている」蜂球というものを知らなくて、検索したのですが、おもしろい比喩だと思いました(見るのが苦手な人もいるかもしれない)。蜂の巣の球、そこに大量の蜂が居着いています。作者さんの比喩が浮いていなくて、説得力がある。でも、押しつけがましくない。
 作る、をひらがなにしたのにも意味がある気がして、図書室で貸りていてる人たちは、意図的に蜂球を作ってやろう、と思っていないんですよね。たまたまそうなっている。一見分かりにくい、言葉にあらわしにくい叙情を、巧みな比喩表現で詩に起こしています。図書室をみるたび、蜂をみるたびこの詩を思い出して感慨にふけってしまいそう。


『わたしが二十歳になるまえに』 みうみせい

 やはりと思いましたが、作者さん、2002年生まれなんですね。今年20歳になられるのかな。その切実さというか、真剣さが伝わってきます。熱のこもった、読んでいて胸が痛くなる、リアリティのある詩。
 「蕩してしまいたい」とろける、なのでしょうか。とろかしてしまう、という言葉がありました。初めて見た言葉でした。とろけてしまいたい、ではなく、とろかしてしまいたい。作者さんの欲望が、自主的に起きています。
 この詩はあきらかに、前半と後半で分けられています。「おかして セックスして/だいすきと言って恋心を/みたす その すれすれまで/ひどいくらいに抱いて」が前半、「あなたを だかせて/あなたを くずして/蕩かしてしまいたい」が後半です。抱かれたい前半と、抱きたい後半。どちらか片方ではなく、混ぜてしまうのでもなく、明確に分けることで、ぐちゃぐちゃに愛し、愛されているセックスを感じ取れます。そして最後。「だい好きと言って/ころすよにだいて/だいすき、だいすき、/だいすき、だいすき、」で終わっています。書き写しているだけで胸が熱くなります。この切迫感をすべての詩に与えられたら、それはとんでもない詩人ではないでしょうか。ひらがなと漢字にこだわりを感じます。
 憶測になるので、あまりこういうことは書きたくないのですが、作者さんは女性である気がします。あるいは、主人公を女性においている。「だいすき」な「あなた」でないといけない主人公。誰でもいいわけではないからこそ、その執念が、愛情が伝わってきます。
 「だいすき、」句読点で終わらせているのは、たぶん、どこまでも続いてしまうから。もうこれ以上は、と作者さんでさえも止められなくなった詩を感情を、無理やり終わらせている雰囲気。終わりたくない主人公の抵抗が句読点にみえます。


 『白煙つれゆく』 半田一緒

 「口元のマフラーを下げると/息苦しさも少しは消える」コロナが流行っていない世界。マスクのいらない世界。白煙のようにうつろな過去に、すっと連れて行ってくれます。
 「滲み出す空が透明な藍をはらんでいく」「随分と昔の/もう顔も思い出せないような人」このふたつは、行と文字数をあけ、孤立して目立つようなつくりになっています。詩に疎い私は、こういう手法をココア共和国で初めてみたのですが(結構な頻度で登場しますよね)、この手法の意図というか、効用がようやく分かってきました。この詩の場合は大きく3つに分かれていて、そこを読みやすく区分するために使っているのではないでしょうか。(現在) 「滲み出す空が透明な藍をはらんでいく」(過去)「随分と昔の/もう顔も思い出せないような人」(心境)
 もちろんこの2つを目立たせたいという気持ちもあるのだろうけれど、場面転換のような役割を担っている気がします。そして、作者さんは、真ん中の過去の部分にフォーカスを当てたかったのではないでしょうか。後悔と回想が主題のこの詩では、過去が重きに置かれるのは当たり前なのですが、それなら(現在/心境)(過去)にしても、(過去)(現在/心境)にしてもよかったわけで。真ん中、この部分を見てもらいたい。というのも、現在にも心境にも影響をきたしているのは過去だから。なので、先に引用した2つの詩を置いたのかな、という気がしました。もちろん行数空けの詩がいつもその役割であるわけではないのだけれど。
 行数空けにばかり言及してしまいましたが、一般的な「白く揺れる吐息」だけでなく、肌感覚で寒さへの描写、また、寒さとマッチする郷愁、思い出、過去への後悔が痛いほどに伝わってくる、しかし美しい、素敵な詩だと思いました。


『ほじょりん』 あさとよしや

 これはいい。父の苦悩はもっとかっこよく、哀愁のある雰囲気で語られがちですが、この「おとうちゃん」は、正直でかっこ悪くて、でも、そこがすごくいいです。主人公が父親を大好きなことも伝わってきます。
 父親と主人公の一人称「ワシ」「ボク」以外はすべてひらがなで書かれています。家族構成は母親と父親と主人公だけ、母親は「たいへんや」と、父親が「ほじょりん」を頭につけて帰ってきたことを報告して出番を終えているので、そこからは主人公と父親のふたり語りです。ほとんどひらがなの構成、それに家族構成を加え、邪魔にならないように母親を退却させる。すごい技術です。それから父親の論理破綻。まったく共感できないことに、自信に満ちた父親の説得は、この詩をよりシュールにしています。
 教訓めいていなくて、嫌味も哀愁もない、変哲な父親のいる家族の出来事だけなのに、ユーモアを以て読者は色々なものを受け取ります。作者さんの技術を随所に感じる詩でした。


『走光人』 カタキリケイイチ

 走光性、というものがあるそうです。光に反応する生き物の性質。ハエやら蛾やらが、電球にバンバンぶつかっている、あの行動のことでしょう。
 人には基本的にはないのですが(ないですよね?)、作者さんはそこを訝っています。お前ら高尚なふりして、夏の虫と変わらないんじゃないのか、と。怒りに近いものを感じます。そしてそれは、詩人に、なんじゃないかな。「その森に入る度胸もないのに/星を語るなんておかしいじゃない」「街灯の下、化物同士/怯え合うなんておかしいじゃない/世界にはわたし一人じゃない」と訴えています。あきれていて、疲れている。
 「夜の音とか、夜の色とか/すきって言ったらキレイでしょう/世界にはわたし一人がいいなんて/歩き続けるしかないでしょう」作者さんも思わずこう言ってしまう、思ってしまう人なのでしょうか。自己嫌悪にさえ疲れているのかもしれません。
 言葉遊びが面白いです。「〜でしょう」。確認としてなのか、断定としてなのか。「〜じゃない」。否定としてなのか、疑問としてなのか。どちらともとれます。
 「疲れたよ、けど/灯りよ灯り/夏の虫のよう/走光人」詩人ぶり、もの知り顔で、そのくせすぐ怯えたり絶望したりする。作者さんは、そういう人たちを愛することが出来ません。自分さえも。いい意味で消化不良というか、余白があって、思考の途中を詩にしている印象を受けます。まだ答えが出ていないけれど、書いているうちに導かれた詩(だと私が勝手に思っただけですが)、をいくつか紹介していますが、『走光人』は導かれなかった。その強固さが魅力的です。


『私の神様』 森崎 葵

 私だけの神様、という存在はあります。イマジナリーフレンドに近いイメージを私は持っていて、すごく興味がある題材です。詩に文学に、使われがちなこの「神様」。しかし作者さんはそこで終わらせません。
 主人公はかなりひどい目に遭っています。「お腹を空かせた夜は」「クローゼットに逃げこんだ夜は」「声を殺して泣いていた夜は」「包丁をお守りにしていた夜は」この順番が見事です。行ごとに主人公はたくましく、意志を持っていくように感じられます。そして、ここでの神様の行動。「ちぎったティッシュペーパーを/甘いお菓子に変えてくれたし」「こじ開けられようとする扉を/私と一緒に懸命に押さえてくれた」「私の喉をしめて悲鳴を奪ってくれたし」「痣を光の粒で撫でて痛みを奪ってくれた」と、優しかった神様が、主人公が大人に近づくごとに物騒になってゆきます。自我が芽生え、主人公が強くなるとともに凶悪になる神様。
 主人公はそんな神様のことを「私が大丈夫でいられるように/本当の気持ちを奪ってくれた/本当の記憶を欠落させてくれた」「私が生きていけるように」としています。そして最後。「私だけの神様は/大人になった私のこともずっと見守ってくれていて/眠る私の指先に時々熱を持って触れてくる/またいつでも奪ってあげるというように」で締めくくられます。
 少なくとも、この子は幸せではありません。そしてこの神様は、冒頭で触れたイマジナリーフレンドのようなものではありません。この神様は、そんなものよりずっと黒く、どろどろしたものです。この神様はたぶん、主人公のもう1つの姿です。幼い頃に主人公によって作られた神様は、「透き通る緑の薄布を身にまとい/いつも私の祈りに耳を傾けてくれた」存在でした。主人公の心の純粋、安定を示しています。そこから凶悪になってゆき、最後「大人になった私のこともずっと見守ってくれていて/眠る私の指先に時々熱を持って触れてくる/またいつでも奪ってあげるというように」で、これはトラウマなのではないかな、と思いました。眠る夜にあらわれる、過去のトラウマ。突然のそれに恐怖する主人公。神様は主人公の暗い部分で、だから親に抵抗しようとすると、神様は攻撃的になる。自己否定のようなもので、本当にそれでいいのか、お前は間違っていないか、と。
 「みんなの神様は私を見捨てたけれど/私だけの神様は私を見捨てなかった」がすごく印象に残りました。親って、子どものすべてで、それこそ神様みたいな存在です。「みんなの神様」である親は主人公を見捨てましたが、「私だけの神様」には、「みんなの神様」が残したトラウマや、そこに残った黒い感情には、主人公は見捨てられませんでした。抜け出せませんでした。
 「私の神様」は親なのではないか、とも思ったのですが、「クローゼットに逃げこんだ夜は/こじ開けられようとする扉を/私と一緒に懸命に押さえてくれた」だけが合いませんでした。真意は作者さんにしか分かりません。
 かなり言い切ったかたちのものが多くなってしまいましたが、すべて憶測でしかありません(虐待されていたのは合っていると思うのですが)。ポジティブな意味での「私の神様」との見方も、また出来るかもしれないです。考察のしがいがあります。


『できそこないの言葉』 高平 九

 この作者さんは、身の回りのことを頻繁に詩にしている印象です。それで毎回高い評価を得られている。すごいなあと思って見ています。
 そのなかで、自身の言葉を「できそこない」としてしまうのは驚きます。私にはまだ、それは言えない。が、でありながら、作者さんの言葉遣いは語法は、流暢で読みやすく、くっきりとクリアです。
 これは、私小説ならぬ私詩なのでしょうか。恐らくそうだと思うのだけれど、主人公は作中の人として扱っていきます(でないと、作者さんのカウンセラーになってしまうので)。主人公は詩人になれなかった人です。そしてこの詩は、詩人についての詩、人についての詩です。詩についての詩ではない。
 主人公は詩人ではない、と自称しています。とはいえそれに落胆している雰囲気もなく、あきらめきっているわけでもない。ここが面白い。主人公には苦悩がありません。そして、そんな自分がよく分からない。「妻も子も猫もいるのに/これ以上なにを望んで詩を書くのだろう」と。冒頭に戻ります。「詩が書けなくて悩んだことなんてない/なぜなら誰も僕に詩を書けとは言わなかったからだ」誰にも求められていないし、長いあいだ誰にも読まれなかった、のにも関わらず、だからこそ、主人公は書くことをやめません。
 簡単で難解な詩。流れに必要の無さそうな真ん中にヒントを求めます。「思春期の綱渡りをなんとかクリアできたのは/詩と絵とカーペンターズのお陰だ」「カレンが死んでも歌は消えないから/僕はこうして生きている」少し空けて「もし自分の詩がよみびと知らずとして生き残るなら/それはそれで嬉しいが/そんな戯言だれも信じちゃくれない」カーペンターズと自身の比較。カレンのお陰で生きている主人公ですが、自分の詩が生き残ることには「それはそれで嬉しいが」です。全然嬉しそうじゃない。
 そして最後。「だから/せめて蝶々になれと/できそこないの言葉を飛ばすのだ/あらゆる命の余白に向けて」カーペンターズにも詩人にも絵描きにもなれなかった主人公は、そのままの、できそこないのままの言葉を飛ばします。名声も肩書きもいらない、妻も猫もいる主人公の、それでも言葉を放ちたいという欲求。人間の業をやり続け、やり切ってもまだやりたい主人公に励まされました。


『この音楽の中で』 ツチヤタカユキ

 長年の深夜ラジオリスナーの私にとって、ツチヤタカユキさんは特別な存在です。私情が絡んでしまわないように気をつけて始めたいと思います。
 ココア共和国に何度も登場している作者さんですが、ただ単語を放りこんでいるように見え、しかし語感が心地よく、意味があるのか無いのか、語句語句は簡単なのに、詩としてならべられると難解です。
 この言葉たちの羅列の中で、手がかりになるのはタイトルです。作者さんがそこで何を重きに置いているのか。ここでは音楽になっているので、音楽の節を取り上げてみます。「この音楽の中でなら、/細胞全部を、歪んだサウンドに変えられる」ここのみですね。
 そして、「愛がもし、肉眼で見えたとしたら、/きっと水と同じ形をしてる。」で終わります。これは何となく、最初と交差している気がしています。「影の伸び縮みに合わせて、/私の身長も、/伸びたり縮んだりするから、/夜が来ると私は、/世界一巨大なバケモノになる。」自由に伸縮する影。水にも似ていて、重ねられそうです。最初と最後にもってきている、いわゆる単語の羅列でもないこの2節。関係を無理やりにでも結んでしまいます。仮にそうだとすれば、真ん中3つは(ここまで引用するとすべて引用していることになるのでしませんが)、夜のバケモノが見ている街の風景です。
 「バケモノ」は作者さんにとって特別な言葉だと思います。作者さんは、『笑いのカイブツ』という私小説を出版されています。「バケモノ」と「カイブツ」。『笑いのカイブツ』は作者さんの裡に潜むものでした。「バケモノ」もそれに近いのではないでしょうか。真ん中3つ、この混沌の言葉たち。ガンガンと掻き鳴らすリズム。「この音楽の中でなら、/細胞全部を、歪んだサウンドに変えられる。」作者さんは夜、バケモノになりかわり、細胞全部を歪んだサウンドに変えています。作者さんの、詩について、言葉についての姿勢がうかがえる詩だと思いました。


『君の住む街』 西野あき

 これはいい。すごくいいです。こんなものを書きたい。でも、どうしていいんだろう。難しい。
 10行の短い詩です。「君の住む街」をしかし、述べている部分は少なくて、「君の知らない場所」のことを「私の住む街」のことを、主人公は伝えたいのです。「君」に。そこがほかの詩とちがう点だと思います。
 主人公は「君の住む街」に来ました。「君の住む街だ/夕暮れのごはんのにおい」でも1行目には「知らない街だ/知らない家の晩ごはんのにおい」と知らない街に行っています。知らない街を介在して、君の住む街に来たのでしょう。「晩ごはんのにおい」「夕暮れのごはんのにおい」主人公は知らない街にも君の住む街にも、同じことを思っています。それは君の住む街も知らない街だから。
 そして、「私の住む街」のことを「きっとびっくりするよ」と言っています。「きっとびっくりするよ/君の知らない場所のこと」「君」とは誰なのか。想い人ともとれますが、知らない街と君の住む街の感想が同じことから、そうではないかもしれません。作者さんは、読者に伝えたい。「君の知らない場所のこと」を。「君」は誰でもなく、誰でもあります。作者さんの知らない街に住んでいる人です。作者さんにとって大事なのは、「君」ではなく「街」です。「知らない場所」です。
 「町」と「街」には明確なちがいがあって。「町」は家々が密集している地域、「街」は商店などが立ち並ぶ通り、場所のこととされています。「町」の方はなんとなく限定的な印象を受けます。そうではなく、どこでもなくて、どこでもある、そんな「街」のたのしみ、あこがれを指したいのではないでしょうか。私はここにすごく共感できて、でも言語化が難しくて。それをやさしく表現されていることに、心打たれました。


佳作集Ⅱ

 『わかるということ』 優木絆名

 「わかる」がタイトルでありながら、出てくるのは初めの一節のみです。「目に映る水平線を指でなぞって/それが世界の全てと わかったふりをした」これがしかしテーマであり、この詩のすべてです。
 この詩は読みやすいのだけれど、リズミカルではありません。最初の一節を読んだ時、「〜ふりをした」がいくつか続くのかなと勝手に予想していましたが、その後出てくるのは1つだけです。いわゆる詩らしいテンポがなく、こちらの調子が崩されます。でも読ませる。情景の美しさからでしょう。
 「砂浜に靴を揃えて/死ぬふりをした」ここが起承転結の転、後半にあたると思います。驚くことに、主人公はずっと砂浜にいます。そして少し戻りますが、砂浜は、2度出てきます。「砂浜に靴を揃えて/明日には蹴りを入れた/溜息は吐息みたいに温かい/景色にとけてしまえば/どっちかだなんてわからない」
 そして最後。「夜が月を連れてくれば/月光は波の上で優しいステップを踏み始める」「揃えられた靴はひんやりと冷たく/生きていることを教えてくれる」溜息と吐息、砂浜に揃えられた靴。どちらもどちらともとれて、人はそれを見てわかったつもりになります。「月光は波の上で優しいステップを踏み始める」ここも、すごく詩的な比喩とも捉えられるし、本当に身を投げてしまって、溺れている主人公なのかもしれないですよね。陰鬱で叙情的な雰囲気を主人公から受けますが、それすら分からなくなってきます。
 「目に映る水平線を指でなぞって/それが世界の全てと わかったふりをした」なぞる、という言葉をみるたびに、スマホのメタファーではないかと思ってしまう私は、ここにもそれを繋げてしまいました。『わかるということ』にはずっと、水平線が映っています。『わかるということ』を何度もなぞり、わかったふりをしてしまう私。詩をとりあげ、つらつらと思いのままに語る私。そんな私が、「何もわからないくせに」と言われているような、ドキッとした詩でした。そしてそうだとすれば、読者に向けても同じメッセージを作者さんは発信したかったのでしょうが。

『這う』 林やは

 すごく難しいです。多様な解釈を許してくれる詩です。(とりあげさせて頂いているすべての詩がそうなのだけれど)私の解釈、いち視点でしかないことを、あらためて記しておきたい。それくらい自由な詩だし、でも意見はふわふわしていては読みづらいので、強固に自信を持っていきます。
 「ぼく」と「きみ」ふたりの詩です。そして、一節だけ書き方が違います。それまでは数文字単位で改行する、詩らしい詩だったのだけれど、唐突に文体が変わります。改行がなく、漢字を多用し、まくしたてるような文章が介入します。ここでは便宜上、「簡易版」「羅列版」とします。
 簡易版では、主にセックスが描写されています。「かなさり/しなやかな髪を/染みこませた/ある体(あるからだ)」「かんじている、新生児の足のような、唇を、/きみの髪すら/ぼくの先端 んああ、/かるくなる」髪はここで、重要なテーマです。そして羅列版では、「ぼくの皮下で、きみの髪の毛たちは、ひどいことをされていた。枝毛の統一されない先に、きみはいる。」もう難しいです。分からない。置いて、先に進んでみましょう。
 羅列版。「病院のベッドのうえで、吐いたことがあった。ぼくは満足した。きみは泣かなかったが、髪を切りたいといった。キスをして、ごまかした」さきほどの引用の続き。羅列版はここで終わります。ほとんど引用してしまったので、私の考えを言うと、私は、簡易版と羅列版では、書き手が違うと思います。簡易版では「ぼく」羅列版では「きみ」なのではないでしょうか。羅列版のきみは、ぼくの視点で詩を書いているのではないでしょうか。簡易版で、「かるくなる」を2度使っています。「頭も 腕も 太腿も/ぜんたいが/みごとに/かるくなって/くちづけ んああ、/(しゅようがぜろだよお)」ここと、先の引用です。「(しゅようがぜろだよお)」はすごく難しい。「じゅよう」を興奮のあまりうまく口がまわらず、言えなかった、と無理やり決めつけてみます。無理やりですが。
 頭も腕も太腿も、全体がみごとに軽くなったきみは、需要がぜろなのです。「かんじている、新生児の足のような、唇を、/きみの髪すら/ぼくの先端 んああ、/かるくなる」んああ、は無意識に入ってしまった喘ぎだとして、「かんじている、新生児の足のような、唇を、/きみの髪すら」「かるくなる」そして羅列版からの引用。「ぼくの皮下で、きみの髪の毛たちは、ひどいことをされていた。枝毛の統一されない先に、きみはいる。」「きみは泣かなかったが、髪を切りたいといった。」ひどいこと、は髪の毛を剥ぐことなのではないでしょうか。ぼくの歪んだ性癖によって、頭、腕、太腿の(体毛)をみごとにかるくされてしまった(剥がれてしまった)きみは、需要がぜろだと言っているのでは。それはぼくにとってもそうですし、女としての、髪が無くなることも言っています。
 そして最後。「あざの あるからだ」でこの詩は終わります。1節目には「ある体(あるからだ)」とかっこ書きがされています。あざがあるから、あざのあるからだだから、きみはぼくに愛してもらえないのでしょうか。『這う』はセックスなのだけれど、きみの、セックスの時に感じる感覚、ただ這われている、愛されている感覚のないセックスをあらわしているのではないかと思いました。
 お名前と作品引用をたくさんさせて頂いてるので(しかも勝手に)、責任と説得力をかなり意識しながら雑記を書いているのですが、これは1番難しかったです。全然ちがうよ、と言われても納得します。本当に、あくまで私の視点として……。


『フルムーン』 三木ちかこ

 漱石の「月が綺麗ですね」がどうしてか有名ですよね。月というものがなぜ愛と直結するのか理解に苦しんでいましたが、この詩で月を、感じられました。
 この詩は3つに分かれていて、前2つは同じ構文です。1つ目は「わたしのドライアイが酷くなって/涙が止まらなくなったときのこと」、「もし君が失明したなら ぼくの目を片方あげるよ」と彼に言われたこと。2つ目は、「季節はずれの風邪熱に/弱音を吐いたときのこと」「わたし このまま死んでもかまわない」に対して「ぼくは死なない 一人でも生きていくよ」と彼に言われたことを挙げています。
 そして「フルムーンのきれいな夜に/キャリーバッグに荷物をつめて」彼が出ていったところで終わります。
 フルムーンとは、満月のことです。そして前2つの節はどちらも、「ペーパームーンが冴えていた」とされています。ペーパームーンは紙で作られた、つくりものの月のことです。1つ目には彼の愛が伝わってきますが、2つ目にもペーパームーンが冴えています。どちらも「ふとした弾みで出たジョーク」ですが、「一瞬の沈黙は 愛をつないだ」が1つ目、「一瞬の沈黙は リアルを生んだ」が2つ目です。ここが違う。どちらもこの愛はつくりものだと、初めから知っている印象を受けました。だから1つ目の優しい言葉さえペーパームーンで。しかし愛は何とか繋がった。時系列的に2つ目は1つ目の後だと思うのだけれど、そこではリアルが生まれています。「ぼくは死なない 一人でも生きていくよ」このリアル。主人公と一生を遂げる気がないことを彼は言ってしまいます。主人公もその気がないから、彼を責められない。沈黙。この対比のずれがすごくいい。
 そして最後。「月あかりを受けて/ほんのり白い彼の背中を/窓からそっと見送った」彼の背中と月、街並みがありありと脳内に共有されます。
 私、この関係、すごく分かります。分からない人もいるのかな。愛がない恋人というか、お互い見つかっていないし、見つかるわけがないと知っている、それでも寂しくて、建前上あがいている。嫌いじゃないし。でももちろん長くは続かなくて。窓から見送るのがいいですよね。別のことをしてしまうのではなく、駅まで送るのでもなく、窓からそっと見送っている。文字数のかぎられている詩ではなかなか分かりにくい感情や関係を、月の対比で魅せています。そしてセリフもくどくないし、臭くない。妙にリアリティがあって。響きます。


『真夜中の帰り道』 木花なおこ

 何も書かれていません。私の憧れるものはこういうものです。すごくかっこいい。長く飽きられずずっと読まれるものってこういうものだと思います。
 「役に立つ人生に/ぴったり形を合わせている輪郭を/涙で溶かすの」最初の3行です。詩の全文を見返したとき、孤立させておく最初の数行というものが詩にはいくつか存在しますが、それだと思います。しかしこの何も無い詩に、この3行は重大な意味を持ちます。
 タイトル通り、「真夜中の帰り道」の詩です。「無味乾燥な線を引きながら/カレンダーを黒く塗りつぶす/それもいいけど」主人公は「新しい家ばかりが並ぶ/嘘っぽい世界」で、無味乾燥な生活を送っているようです。「それもいいけど」は主人公がそういった生活を送っていないことを示しているようにも思えますが、それだと最初の3行が合わないし、カレンダーの例など出てこないと思うのです。
 「役に立たない狂気に/突き動かされて/隙間に/線を引いてみる/それだっていいでしょう」先ほど引用したものの続きです。役に立たない狂気、がすごくいいです。この詩の、この主人公のことを端的に表しています。
 「湿り気のある暗闇に/濡れて滲み出す線を/引きながら歩く/真夜中の帰り道」ここで終わりです。すみません。内容をほとんど引用してしまいました。何も無い、何も起きないし何も言っていません。何も否定していないし、かといって肯定もしていない。この主人公は狂人です。少なくとも、主人公自身はそう思っています。
 「役に立つ人生に/ぴったり形を合わせている輪郭を」主人公は役に立つこと、立つとされていることに照準を当て、そこに合わせた生活をしています。そして、なのに、真夜中に帰っている。仕事で遅くまで残っていたのでしょう。「役に立たない狂気に/突き動かされて/隙間に/線を引いてみる/それだっていいでしょう」自分の役にも他人の役にも立たないことなのに、どうしてかしたくてたまらなくなる。それが狂気だと思います。それをしてしまうのは狂人です。生理的欲求でもない、歪んだ何かが生み出したもの。常識と、社会と主人公の間の隙間に、線を引いて狂気に動きたくて仕方なくなる。言葉の熱がすごく伝わってくるのに、情景は静かで清潔な場所です。この差がますます詩を魅力的にしている。
 「湿り気のある暗闇に/濡れて滲み出す線を/引きながら歩く/真夜中の帰り道」線を引きながら歩いている主人公、夜の闇にうなだれ、吸いこまれてゆく姿が浮かびます。この詩は何も書いていません。でも、だからこそ、何もかも書いてあるんです。想像の幅がとんでもなく広く、でも舞台装置は準備していて、またそれが絶妙な美しさ、静けさ。主人公はこの後どうなるのか、何をするのか。すべて読者に委ねられています。いや、素晴らしい。見惚れてしまいます。

佳作集Ⅲ

『冬の科学』 杉本 順

 すごく美しい詩、技巧的な詩です。ココア共和国には本当に多種多様な人がいるんだなあと(当たり前だけれど)思いました。
 この詩は3つに分かれています。「冬を観測する」「冬を分析する」そして、冬についての総括。最初の2つでは、引用通り科学的な視点から冬を観ています。「分光器」「望遠鏡」「スペクトル」「遠心分離機」など、科学的な道具、言葉が多用されます。私はもっぱら文系だったので、このあたり、真に理解は出来ないのだけれど、理科系の言葉は物質的なのに、やわらかくて美しいです。「降りてきた光の雨を/両手で作った望遠鏡で/覗き込んで掬い取る」そのやわらかさとのギャップに惹かれました。
 そして最後。「見上げる冬も/見下ろす冬も/数値化されるのを拒む」「冬という事象を/見つめ続ける/身体をからっぽにして」ここまでの行動言葉を、否定してしまいます。そんなもので冬はあらわせないし、冬もそれを望んでいない、と。冬に対して出来ることは、身体をからっぽにして、見つめ続けることだと。身体をからっぽに、という表現を使ってしまえる作者さんがすごいです。変に言い換えてしまったりしない。メタフォリカルな言葉を用いない。からっぽ、というひらがなそのもの以上に、からっぽを意味するものなどないのかもしれない。理科系に縁がない私には、逆立ちしても書けない詩です。そして、ここからしか生むことが出来ない冬の科学、解凍。言葉もやわらかで、すごく美しい詩だと思いました。


『妹よ』中澤帆次

 愛、というものは多角的に語られてきましたが、こうもストレートに、しかも妹をテーマに、はあまりなかった気がします。
 この妹さんは何歳なのでしょうか?作者さんが中高生あたりの年齢なので、小学生くらいでしょうか。産まれたばかりの妹や弟を扱うことはよくあるけれど、この妹は少し大きい。そこも異質です。
 「この先なにして生きてくの/頭の中身もないじゃない」「厭うの字すら読めぬあなたは/それがわかっているのかな」このあたりで、この妹は、少なくとも赤子ではないことが分かります。そして、「笑った顔はぶさいくで/泣いた顔すらぶさいく」な妹のことを「そんなあなたを愛する人が/この世に何人いることか」としています。妹は、主人公だけではない、複数の人に愛される女の子なのです。ぶさいくなのに、なぜそう言えるのか。最後にそれが明らかになります。
 「私がどれほど愚かでも/あなたが私を愛するように/あなたがどれだけ愚かでも/私はあなたを愛します」主人公は、妹からの絶対的な愛を感じているんですね。だから主人公も、妹を愛する。ぶさいくとか、愚かとか、おバカとか、そういうものを愛は包みこめてしまう。人を愛している自分もまた、人に愛されるんですよね。それを無意識に、無垢にやってしまえる妹。その魅力に、壮大さに気づき、主人公はそこに憧れすら抱いているように感じます。
 蛇足ですが、言葉の並びにシンパシーを得ました。5と7のリズムを(たぶん)意識的に並べられていて。リズムを決めると、言葉も何となく決まってきてしまうんですよね。そういう意味でも、なんだか嬉しくなってしまった詩でした。


『作品No.26』 星堕位置

 精子と陰毛の詩です。タイトルは関係ないのかな……ただメモに、残しておくためのタイトルをそのまま採っただけの気もしますが。
 この詩は「Floating in the river」から始まり、終わります。直訳は川に漂っている、浮いている。「陰毛が 毛根になにやらへばりつかせて/流れていく 浮かび上がっていく」流れる、浮かび上がる、が何度か出てくるので、「Floating」があたるのはそこなのでしょう。
 「たった一回に 放たれる 三億個のいのちのかたまり/すべては そこから 始まり/恐ろしいほどの 高熱で 終わる」この詩のキモはここです。陰毛が作中に出てこなくても、精子と分かってしまう、その熱を伝えてしまう。気になるのは、ここで精子は、終わるものだとされているところです。いのちのかたまりでありながら、続くことがない。そしてタイトル。ここで描かれている精子は『作品No.26』ということなのかもしれません。あるいは3億個の中の、26なのか。
 「いつも書きかけで 終わっている経歴が/どこにも行くことのなかった経歴が/夕焼けの流れの中を 漂う」「どこにも行かなかった経歴の/行き場を見つける/いとおしみながら」2箇所から引用させて頂きました。1つめは詩の前半、2つめは終わりです。この後に「Floating in the river」で締められてしまいます。
 精子はここで、経歴です。主人公のそれまでが詰まっているもの。どこにも行くことのなかった経歴が、最後、行き場を見つけます。漂い流れついた先に見た場所。「いとおしみながら/Floating in the river」この語感。英語ならではなのかもしれません。最初のそれと最後のそれでは、riverの意味が違っても見えます。「いとおしみながら」も最初に使われていますね。「思いがけず 過ぎてしまった日々をからめとり/いとおしみながら」過ぎてしまった日々、見つけた行き場。どちらもいとおしんでいます。すごく優しい雰囲気を感じます。
 そしてこの詩、ずっと流れ続いているんですよね。「いとおしみながら」が分かりやすいかな。「〜だ」みたいに断定して詩を止めたり、過去を過去として分けたりしていないんです。ずっと流れ続いている感覚。これは意識してされているものなのでしょうか。だからすごく感情移入しやすいし、雰囲気に簡単にのめりこむことが出来ます。そしてここでは、感情は書かれていません。ただ事実を、情景を描写し続けている。いとおしいという感情、それだけです。恋人への憧憬も喪失感もない。まさに、流れるままに生き向かっている。この詩に作者さんの技術が、何もかもぴったりはまっています。
 最後に。思わず、締められてしまう、と書いてしまいました。この詩は全体的に、とても美しいんです。キモの部分がほとんどすべてなのですが、でありながら、それ以外の箇所も無くてはならない。凄まじい技術だと感じました。言葉の端々に、詩を感じざるを得ませんでした。もしかすると、作者さんはすごい熱を精子に陰毛に、Floatingに感じているのかもしれませんが、わりかし冷めた目でこれを書いた気がします。あくまで想像ですが。こういうもの、いつ読んでも昂ってしまいます。


『せめて、羽鳥まで』 木葉 揺

 羽島は、岐阜県にある場所なんですね。難解とも違う、つかみどころのなかった詩が、それをつかんでおくと少しイメージしやすいかもしれないです。
 「指定だから余裕で確保/サヨナラたちが見たいから」この詩はここが始まりです。この箇所についても言えるのですが、全体的にスピード感のある詩です。でありながら、リズミカルです。声に出して読みたい2行。
 この「サヨナラたち」っていうのは何なのでしょう。ここだけでは分からないので、もう少し引用させてください。「そっと窓の外を見る/飛ばされるサヨナラの顔/サヨナラの手つき」「工場も畑も山も/サヨナラにでってけ連れて行かれる」サヨナラというのは、窓の外の風景である気がしていましたが、2つめの引用で揺らいでしまいました。工場や畑や山それ自体がサヨナラであるのに、サヨナラに連れて行かれてしまう。(「でってけ」というのはーー私も大阪の人間なので分かるのですがーー「どんどん」みたいな意味です。「とことこ」よりもう少し速いけれど、「ビュンビュン」まではいかない感じ。皆さんは分かりますかね。一応補足です。)過去のサヨナラに連れて行かれ、また次のサヨナラがひらける、という意味なのでしょうか。
 「快適な箱の中/あきらめのテレポート/きらめきの幕の内」スピード感を損なわないまま、新幹線であることを明かしています。ここ、すごく好きです。きらめきの幕の内。気持ちいい。
 「そういえば制服の数が多い/険しい笑顔が立て続けに行進する/これは狂騒曲ではないのだ、と」「一週間前、狂って騒いだヤツがいた/閉じられた箱の中/私の好きな箱の中」この2節で、突然暗幕が閉じられます。クラシックの狂想曲ではなく狂騒曲。社会的な騒乱を意味するらしいです。穏やかな景色、のんびりとした主人公の描写から、突然物騒になる。これまで新幹線の描写だったわけですが、閉じられた箱の中、というのは新幹線にもあてられ、もっと広く社会にもはまります。この社会全体。主人公はのんびりと様々流れゆく風景、運命を楽しみます。ここが好きな主人公。制服というのは学生でしょう。幼心と狂って騒いだヤツ。その対比が印象的です。学生たちは険しい笑顔で行進しています。狂って騒いだヤツは険しかったでしょう。主人公は笑顔です。どちらの身でもない主人公。それでもみんな同じ箱の中。生き方の教示にもみえるのは私だけでしょうか。
 なるだけ取り上げさせて頂いている詩の良さを伝わるように書いているのですが、うまく伝えられたか分かりません。述べたように、スピード感も、この詩の素敵な部分であるので。どんどんひらけてゆく景色、そこをドッと落とす陰鬱さ。優れた作品は、そのあたりのバランスがいいんだなあと。勉強になります。


『遠方へ』 双星たかはる

 ため息が漏れてしまいます。とてつもなく美しい詩。個人的な手紙の様相で、それでもやはり、作品なのだなと、寂しくさえなってしまいます。
 タイトル通り、遠方に宛てた手紙です。しかし宛先が誰なのかは、分からない。恋人ともとれるし、それほどの関係には至っていない人なのか、あるいはお世話になった人なのかもしれない。どちらにしろ、その人のいる遠方は、ずいぶん寒い場所です。私は雪景色を目の当たりにしたことがないのですが、痛々しい寒さが伝わってきます。
 「そちらでは降っているようですね/たくさん積もっているのでしょう」ここから始まります。敬語とは違うのかな、丁寧語で終始綴られています。それがまた、宛先を想像させ、また、SNSでは決してなし得ない、手紙というものの存在を感じさせます。この文章は手紙でしか書けないのではないでしょうか。
 「あなたの真っ赤に凍えた指は/それでも誰かを包むのでしょう」ここでもう、私は飲みこまれてしまいました。美しい人、情景。しかし恋人とは限らせない。特別飾った言葉じゃないのに、だからこそ、まっすぐにあたたかく、美しい。「寒さが野山を手放して/きれいに洗い流してゆくころに/深呼吸に腕を広げるころに/また伺いたく思います」春は、冬がテーマのものにはつきものですが、直接的な時季をいいません。詩的っていうのはこういうことなのかもしれない。
 そして最後。「旅はこだまを残します/地図のうえから胸のうちから/レゾンデートルさえよこすので/その残響をだいじに掬い集めて/巡礼したく思っています」静かにゆっくりと、手紙はここで終わります。何も言えることがないです。ひたすらに美しい。宛先をもう少し明かしてみたり、あるいは自身のことを明かしたりもしないところに、メタ視線を感じない、美しい手紙を盗み見してしまった気分になります。ここが最終節なのですが、先ほど引用した「また伺いたく思います」までが前節です。前節で終わらず、ここを付け足さずにいられなかったのは何なのでしょう。伺う、ではなく、巡礼する、が、より旅の目的に、詩にマッチすると考えられたのかな。興味深いです。この2節のことをずっと考えてしまえそう。


『堕天』 七まどか
 
 この詩は3つに分かれています。(現実)(夢想)(現実)時間でいえば数分数秒のできごとなのですが、詩は軽やかに、暗い。
 「乱痴気騒ぎの夜が/嘘みたいに静かな夜明けだ」始まり、たったこれだけで世界観をあらわしてしまいます。「この部屋はまだ/夜の残り香を惜しんでいる」「ひっそり佇む硝子細工の/天使の羽に一筋の亀裂が走る/ふとした拍子に堕天してしまいそうだ」ここで一節めは終わりです。タイトルにもある堕天は、ここで登場するのみです。堕天は、天使が悪魔(堕天使)になることです。「堕天してしまいそうだ」から展開される2節め。  
 「優しすぎるあなたは/大きな水槽を悠々と泳ぐ」「水槽のガラス1枚を隔てて/触れたくても触れられないもどかしさに/気が狂いそうになる/そんなときに/私に素っ気ないメールを寄越すのだ」SNSを登場させたくないからメールにしたのかな。その気持ち、すごく分かります。水槽のガラスというのはケータイの画面のことでしょうか。連絡はできるけれど、触れられない。前節で「鼓膜を震わすウッドベースの低音は/あなたの鼓動によく似ている」とあるので、肉体関係はあるのでしょうが、まっすぐな恋愛ではない印象です。
 そして最後。「その振動で天使の羽が/存外重たい音を立てて折れた/紫煙をあなたの顔に吹きかけて囁く/どうかあなただけは天使であれ、と」主人公がベッドから立ち上がった途端、折れてしまった天使の羽。1節目の、硝子細工のことであり、主人公でもあるのでしょう。紫煙というのは煙草の煙のことです。顔に吹きかけるのは独占欲のあらわれ。恋の熱情をどうにもならない葛藤を苦悩を、静かに語っています。
 取り上げさせて頂いていて思うのですが、心にずしんと来る詩というのは、無駄なものがないのかもしれません(ほとんどすべて無駄なもので構築された詩も、個人的に大好きなのですが)。この詩も本当は、すべて引用してしまいたかった。すべて重要だし、美しいので。1行1行に重みがあって、難解じゃないのに何度も咀嚼しないと飲みこめない。作者さんの凄まじさを感じました。


『私の一枚』 でおひでお

 物語形式の詩って、少ないですよね。どうしてなのでしょう。やっぱり書きにくいからかな。数十行ではまとめられないからかもしれません。
 この詩は見事にまとめられています。練りに練られた感じではなく、ぱぱっと勢いで書けてしまった、そんな雰囲気があります(違っていたら申し訳ないです)。それくらいスピーディで、でもテーマが深いものなので、隙が無くしかし何度も読めてしまう、考えてしまえます。
 「出会いはまったくの偶然だった」「目立たない隅の方の壁に私は何故か吸い寄せられた/そこにひっそりと掛けられた一枚」主人公は美術館で、100点以上の絵のなかから、1枚に吸い寄せられます。そして「その絵のどこに惹かれたかと言われれば/自分でも説明がつかないが」。どこがいい、とは言えないのだけれど、なぜか惹かれてしまった。そういうことってありますよね。
 「悲しいこと/嬉しいこと/それらの全てをその絵と語り合った」「運命の女という言葉があるように/まさに運命の絵と言えると思う」女という言葉が出ました。キーワードかもしれません。
 「そうして四十数年過ぎた今日/美術館のいつもの場所に行くと/あの絵がないのだ!」美術館の人に行方を聞いてまわりますが、そんな絵はないと、狂人扱いされます。「落胆して家に帰った私は沈み込むようにソファに腰を下ろした/しかし顔を上げると目の前の壁には/私の一枚が!」ここで終わります。後味が悪いというか、引っかかるところが多くて謎が残ります。すごく面白い。「私の一枚」というのはタイトルになっていますが、最後の1行でしか出てきません。私の一枚。そもそもこれは、あの、なぜか惹かれた絵のことを指しているのでしょうか。ここまで主人公は、あの絵、とかその絵、とか運命の絵、と言っていたので、最後は「あの運命の絵が!」の方が伝わりやすいんですよね。もちろん作者さんはそんなこと分かっていて、でも、私の一枚にしている。これは、女の、恋愛のメタファーである気がします。あるいはただ、不可思議なシュールをやりたかったのか……。
 物語形式のものは、そこで完結してしまっているので感想を書くのみになってしまい、取り上げさせて頂くことが少ないのですが、『私の一枚』は作品性も相まって考察のしがいがあります。どれくらいのことを意図して書かれたのだろう。これは作者さんにしか分からないことですが。


あとがき

 初めての試みで不安だらけではあったのですが、実に楽しくさせてもらいました。ただ読むだけではたどりつけなかったところにも足を踏み入れられた気がしています。
 たくさんのおもしろい詩がありました。勝手に取り上げさせて頂いて、作者さんには申し訳ないやら、ありがたいやらで複雑な心境です。
 なるべくフェアな立場でみてきたつもりですが、まったくの初心者であるので、こう思いました、とか、ここは違うよ、とか、撤回しろ、など、読んでくださった方、どんなご意見でも嬉しいので、Twitterに連絡下さい。でないと、あまりに申し訳ないし、フェアじゃないので。

 twitter: _ktbki

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