掌編『机の上にミントチョコレートも置いていない宿泊施設をホテルと呼んでよいものだろうか』

机の上にミントチョコレートも置いていない宿泊施設をホテルと呼んでよいものだろうか。
そう言ってみると、女はあからさまに嫌な顔をした。
「べつに気にしませんよ、私は。ミントチョコレートなんて置いているホテルに泊まったことありませんし」頬を膨らませながら荷物を整理する姿は、妻を思い出させた。

女は大学生で、21歳だった。
私は映画を作っていて、彼女とは親子ほど歳の差がある。彼女は映画制作のアルバイトに来てくれていた。
よくある話だった。
「あの、ずっと好きでした」と彼女は私と初めて会ったときに言った。
「ほんと、私、監督が好きで、ぶっちゃけ会うために、眺めるために、あわよくば視界に入れたらそれだけで良かったから、もう、それだけ叶ったらすぐに辞めようと思ってて、でも、この仕事すごく楽しくて、だからいまは辞める気なくて、なんなら監督関係なくなっちゃって……すみません、何が何か分からなくなっちゃったんだけど、とにかく好きです!あと、ありがとうございます!」
嫌悪感しかなかった。女は見るからに若くて頭が悪そうで、面倒くさそうだった。こういう女に騙されて消えていった同士を私は何人も見てきた。
ありがとうね、とだけ返すと、マネージャーに目を配せて追い払った。

だから彼女と会ったのは、その日が2度目だった。
映画を語る掲示板に、「ヌードを撮ってくれる人いますか?できればホテルで。そのあと泊まりたいです」とだけ投稿していたのが彼女だった。
もちろん私は彼女だと知らなかった。彼女も私と知らず、承諾してしまったようだった。
「どうしておれに承諾してくれたの?」と訊ねると、うつむき、パンティを脱ぎながら「だって敬語だったから」と応えた。

こういうことは初めてだった。自分でもどうして声をかけたのか分からない。珍しく1日休みがあって、どこかに出かける用事を作りたかったときに、その投稿を見つけた。
彼女は裸になり、ただ、ぼうっとしていた。窓からは東京タワーとスカイツリーが見えた。それがそのホテルのウリだったが、見えるからどうというわけでもなかった。

ひと通り写真を撮り、慣れた雰囲気を醸し出しながらラフ画を描くと、「もういいよ。ありがとう」と言った。なるべく冷たく言ったつもりだったが、声が震えていた気がした。

「監督、こういうの初めてでしょう」パンティを履きながら、彼女は言った。
「うん」と、肯定とも否定ともとれるように返すと、それ以上何も言わなかった。

パンティだけ履くと、彼女はベッドに入り、「おいで」と私の顔を見て言った。
私は勃起していたが、彼女を抱く気はなかったし、彼女もそのことを分かっていたようだった。ベッドに入ると、私の胸に頭を寄せ、腕を枕にして眠ってしまった。

彼女は疲れていた。そしてその疲れは、こんなことで解消されなかった。そのことに彼女は傷ついていたようだった。
なんとなく後ろめたい気持ちになりながら、頭に敷かれた手にスマホを持ち、しばらく原稿を書いていると、彼女は目をつぶったまま口づけた。「ひげが痛い」とくすくす笑いながら、また眠りについた。「やっぱりひげが痛かった、想像通りだった」

それから彼女に会うことはなかった。私はいつの間にか眠ってしまっていて、目が覚めると彼女はいなかった。現場でも彼女のことを気にかけたが、名前も知らないので、辞めたかどうかも分からなかった。

大きな映画だった。私の初めての大きな映画で、プロモーションもかなりの予算をかけられた。それから撮影は1年ほどかけてやっと終わり、公開された。

結果は、それなりだった。酷評もされすぎなかったが、すぐに忘れ去られるだろう映画だった、そのことは、ヌード撮影のあの日の前から分かっていた。スタッフも出演者も、あの女もみんな分かっていた。分かっていても撮り続けるしかなかった。私の名前をつけ、いくつかインタビューにも応えるしかなかった。始めてしまったら終わるまでやるしかない。そういうものだった。Wikipediaの私のページに、この映画のタイトルが記される。でも、この映画の詳細が書かれることはなく、ただ歴史として刻みこまれる。分かっていても、やはり憂鬱だった。

2度夏が過ぎ、1度冬が過ぎた。2度目の冬が訪れようとしていた。娘と一緒にジャケットを新調しに出かけた。「これ、捨てるんならちょうだい」と娘は言った。娘は最近よく話すようになった。
「だめだよ、まだ着るんだから」
「じゃあ新しいのなんていらないじゃん」
たしかにそうかもしれない。娘は私からジャケットを剥ぎ取り、羽織った。
「どう?かっこいい?」
「かっこいいね」
「わたしの?」
「パパのだ」
くすくす笑いながらポケットに手をやると、何か見つけたようだった。
「なに?これ。パパ」
娘が手に持っていたのはミントチョコレートだった。包み紙のメッセージは、たしかにあの女のものだった。

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