掌編 『マイ』

最近、全身がぴりぴりしていてどうしようもないんです。というのも、ひどいストーカーに遭っておりまして。
名前はーーまあ、この時代、色々ありますから伏せますが、男性アイドルです。広くメディアに長く出演されている方なので、これを読んでくださっている方で知らない方はいない、と言えるような方だと思います。
私ももう32歳で、しかし男性経験もほとんどない身ですから、ありがたいのですが実家に住んでいるということもあり、非常に迷惑しているんです。
たとえば。私は週3日、タオル工場のアルバイトをしているのですが、夕方17時から夜22時までの勤務時間のこともあり、帰りは遅くなります。30分歩いて家まで帰るのですが、忙しいだろうに、必ず彼が後ろから歩いて着いてくるんです。もちろん振り向くのですが、誰もいない。身を隠すのが非常に速いのです。
これは、すごく怖いことです。疲れているので走ることも出来ない。少し早足で歩くと、彼もまた同じ速度で足音を鳴らします。ぱっと振り返る。誰もいない。いつもなら途中で諦めてくれるのですが、半年ほど前でしょうか、とうとう家までその足音は着いてきて、そこから更に彼のストーカーはエスカレートしました。
とにかく彼はまだ若いこともあり、血気盛んなのでしょう、「匂わせ」というものをしてくるんです。私が夕食にカレーを食べていると、テレビの向こうで彼が「カレーが好物」と言ったり、私が黄色い靴下を履いていた日には「黄色が好き」と言ったり。友人と電話で「パキラが欲しい」と言えば、数日後に花屋の写真をSNSにアップしたり。恐ろしかったのは、彼の自宅をテレビで映していた時、私の部屋とまったく同じ、紺のボーダーのカーテンをしていたんです。こちらとしてはありがたいやら申し訳ないやらなのですが、やはり私の部屋に盗聴器や監視カメラを付けていることは明白なわけで、となると、自由にくつろぐことが出来ないんですね。部屋のそこかしこを探してみても周到に隠しているのでしょう、何も見つかりません。盗聴器発見機も複数購入したのですが、どれも反応しませんでした。盗聴器発見機の電波をかいくぐるものなのでしょう。
もちろん警察に相談しました。アルバイトの日以外は毎日通いましたし、いまも通っています。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろうとも思うのですが、選ばれてしまったので仕方ないですね、母親に見つかると半狂乱になるので、母が仕事で出ている平日昼間しかありません、警察の方を部屋に上げて、一緒に盗聴器を探してもらいました。結局、見つからなかったのですが。
それから更に困ったことになったのがーーこんなことは本当に表立って言いたくないのですがーー警察の方にも惚れられてしまったみたいなんですね。警察の方を部屋に上げてからすぐ、私と名字が1文字違いの方が逮捕されたり、クローゼットに置いてある、私のお気に入りの帽子と似たものをテレビで取り上げられた婦警さんが被っていたり。警察というのは国家組織ですから、国が関係しているんです。私の部屋の枕カバーは水玉模様なのですが、総理大臣さんが突然水玉のネクタイを着けたり、どこから入手したのか、私の好きなアゲハ蝶のブローチを都知事さんが着けていたり、もう本当に、私の周りには私の敵だらけになり、いよいよ国ごと私を狙うようになってしまったんです。そしてそんな時、その男性アイドルが「大丈夫、俺が守るよ」とドラマで言っていたんですね。あの言い方は絶対アドリブだと思うんです。大変ありがたいのですが、いや、あなたのせいでこうなっているんだよ?と怒りも感じ始めまして。警察に言っても駄目ならと思い、彼の所属事務所にお問い合わせメールや手紙、電話で事情を説明しました。裁判のこともほのめかしたのですが、やはり相手にしてもらえない。よくよく考えたらそうですよね。もう、国絡みですから。総理大臣にまでわたってしまっているんですから、もう、でも、本当に辛いんです。そしてこのタイミングでの新紙幣の発表。私の好きな藤の花を1万円札にまで採用されてしまって。私の名前、「マイ」っていうんです。それで政府は「マイナカード」でしょう。もう本当に恐ろしくって恐ろしくって。アルバイトも辞めてしまいました。国に狙われているんだ、と何度説明しても納得してもらえなかったし、ストーカーも信じてもらえなかった。けど、これ以上外に出られませんから。私のすべての行動が国に筒抜けになってしまった。こんなことなら警察なんて呼んじゃいけなかったんですよね。いや、本当にありがたいことではあるのだけれど、日常生活の妨げになっていますから。彼ら、何をしても駄目なんです。彼らの見ている部屋で何度迷惑だと泣き叫んでも、見るなと書いた紙を部屋じゅうに貼っても、何の変化もなく、直後にNHKで防犯特集なんて放送されてしまう始末。
少し前に台風が来ましたよね。あれも、私の家に当たるぎりぎりで曲がったんです。その軌道を、意味もないのに毎日毎日テレビの天気予報で映すんですよ。私、泣きました。こんなのテレビで私の家が報道されてるようなものじゃないかって。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、それから更に悪化したんです。もう、全国民に私のすべてが知られてしまった。夜中に無性にチョコレートのアイスクリームが食べたくなってしまって(これも絶対に薬を盛られたせいなんです。その日の夕飯は豚汁と生姜焼きでした)、我慢ができない、寝られなくなったので仕方なく外に出たんです。もう0時をまわっていたというのに、コンビニの前の灰皿で中年の男性が煙草を吸っていて、私をちらりと一瞬見てから煙を吐き出しました。その煙が紫がかっていたんです。私は殺されると思いました。私は昔から紫色が好きで、スマホの待ち受けも紫色が入っています。私はこんな人にもすべて知られているんだ。寒気とともに鳥肌が立ち、自動ドアにぶつかりながらコンビニに駆けこんで警察を呼んでくださいと泣きすがりました。するとあの時の、部屋に上がったあの警察が来たんです。私を見ると目の色を変えました。さぞ嬉しいのだろうなと思うと、もう腹が立って腹が立って。でもこんな人でも、あの男性から守ってくれるかもしれないと思って、そのとき起こったことをすべて話すと、彼は腕時計を確認したんです。その時計が、私がずっと大切にしている時計と同じブランドだったんです。それで気を失ってしまったというわけなんです……はい……はい。どうせあなたも繋がってるんでしょう?彼に伝えてください。結婚してあげるから、もうこういうことはやめてくれませんか、と。

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