掌編『Killer Cars』

その日、僕ら2人は何となく苛々していた。そしてそのことを、互いに感じ取っていた。
何というわけでもなかった。だから、何も出来なかった。これまでも、どちらかの機嫌が悪いことや、あるいは調子が悪いことはあった。けれど、そんな時は、そうでない方が工夫し、なんとかうまくやり、ほとんど喧嘩もないまま穏やかに過ごしていた。
そんな風にして、僕らは高校2年のころから付き合い始め、10年が経っていた。

肌を突き刺すような感覚。僕は、何もかもに苛ついていた。彼女に何かされたわけではなく、何かあったわけでもなく、その日ずっと、わけもなく神経が過敏になっていた。苦しくて、そのことにすら苛ついていた。
彼女の機嫌が悪いことの原因は、運転し始めてから気づいた。高速道路に登ると、半月が現れたのだった。ハンドルを握る手に力が入る。知らねえよ、と僕は思った。じゃあどうすればいいんだよ、毎月。これから何年続くんだ。月を破壊すれば解消されるのか。満足なのか。それとも子宮を。
はっぴいえんどが歌っていた。速度は100キロを超えていた。運転免許を取って長いが、100キロを超えて走るなんて初めてのことだった。ずっと不愉快そうに顔を外に出していた彼女は窓を閉め、音楽を変えようとした。
窓を閉めた途端、そっと彼女の匂いがしたので、僕は別の女のことを思い出した。彼女は僕がほかに女と遊んでいることを知っているのだろうか、彼女が男を作っていることを僕が知っていることを、分かっているのだろうか。

「男がおるやろ」と僕が言った。彼女はMiles Davisの『Relaxin'』から、『Four&More』に変え、それでもやはり納得せず、別のアルバムを探していた。
「なに?いきなり」と彼女は言った。
「男作ってるん、知ってるから」
「べつに」と彼女は応えたが、僕が何も言わなかったので、彼女はまた手を動かし始めた。こんなことでも、話してしまえたので空気は幾分良くなった。そのことにも腹が立って仕方なかった。彼女のカーナビを触る手を目いっぱい叩いた。
彼女は驚き、こちらを見た。傷つくというより、驚いていた。僕は女の子に初めて暴力を振るった。
「べつに、知ってたんやろ」と彼女は座り直して言った。
彼女が曲選びを止めたせいで、カーナビはBob  Dylanを流すことになった。Bob Dylanは相変わらずうるさくて押しつけがましくて、カーナビも気まずそうに流し続けた。
「べつに、知ってたんやろ」と彼女は繰り返した。彼女は、繰り返し同じことを言う癖があった。「嫌やったら別れたらいいやん。こんなときに変な話せんといて」
僕はやめたと言いながら隠れて吸っていた煙草に火をつけた。きも、と彼女はつぶやいた。
車は相変わらず100キロを超えて走っていた。田舎道なのか、日の暮れたばかりなのに他に車の姿は無かった。家に着くまで、まだ2時間以上かかるとカーナビは告げていた。
彼女の横顔を一瞬だけ見た。醜い女だ、と思った。叩かれた手を意味もなくこすっていた。口を尖らせ、そのせいでほうれい線が際立って見えた。右目の下の大きなほくろからは太い毛が生えていた。

「なあ、やめろよそれ」と僕は言った。「きもいねん、痛くないやろ、べつに」
彼女は下唇を噛み、とうとう涙を流し始めた。そのことに余計腹が立った。「泣いたら許されるんか、なんやねんその涙。なんの涙やねん。何が悲しいねん。そんな悲しいんやったら、お前こそ別れたらええやんけ」
彼女は靴を脱ぎ、足を席に着かせて膝を抱えて顔を伏せ、両耳を抑えた。
「なんか言いたいことあるんやったら言えや、お前舐めてんねやろ俺のこと」
「そんなことない」と彼女は声を震えさせながら言った。「ごめんなさい」
「何に謝ってんねん。お前が別れたらいいって言ったんやんけ。謝ることないやん。なあ。誰に何を謝ってんの」
彼女は何も言わなかった。
「なあ、なあ分かってんのか。俺が運転してんねんぞ。高速道路で」自分で言いながら、僕は驚いていた。「俺がやろうと思ったら、簡単に殺せんねんからな。俺もお前も。全部終わらせれるねんからな」
彼女は微動だにしなかった。
僕はそう言いながら、怖くなっていた。脳がひりついて、身体に追いつかなくなっていた。急カーブの多いトンネルは、いつまでも抜けられなかった。
「なあ、このスピードでぶつかったらどうなんねやろな。お前の男はどう思うんやろな。どうせその男も、女作ってやりまくってるんやろ。みんな死ねばいいねん。みんな殺されたらいいねん。なあ、お前、降りるか?」
彼女は同じ体勢のまま、耳を抑えたまま頭を振った。僕は脇腹を殴った。うまく力が入らなかった。
「なめんなよ、お前。なあ。俺のこと舐めてるんやろ。殺すぞ、全員。なにが生理やねん。なにが薬は身体に悪いやねん。それで迷惑かけんなや。きもいねん」こちらを見る彼女の顔は涙でくしゃくしゃになっていて、前髪も汗ばんで額にへばりついていた。
「別れるんなら早よ別れろよ。ほら。お前が言ったんやろ、別れたらいいって。別れるって言えや」彼女は首を振った。
「なんやねん、じゃあどうやったら別れんねん。なにしたら別れんねん。いまから犯したらいいんか。生理でも入れれるやろ。あと、しゃべられへんのか。お前さっきから。いつもはしょうもないことだらだらしゃべるくせに。仕事で疲れてんねんこっちは。興味無いねんお前の話。なんでそんなことも分からんねん。それでこっちの話は聞かんやろ。頭おかしいんか、お前ら全員。こっちは機械ちゃうねん。性欲我慢して、仕事で疲れたのも我慢して、意味の分からん俺になんの関係もない昨日と同じような話ずっと聞かされ続けながら笑顔でうなずいてて欲しいならぬいぐるみでも買って話しとけや。どうせこっちの相槌すらろくに聞かへんやんけ。ぬいぐるみでも変わらんやろ」彼女はこちらを見ながら、大粒の涙を音もなくぼろぼろと流した。「泣くなや。きもい。どうせこの話も聞いてへんねやろ。意味わかってへんねやろ。舐めてんねんお前らは俺のことを。どうせ同じこと繰り返すんやろ。人間のことを舐めてんねん。お前らがなんぼのもんやねん。何をしてきてん。何も生み出してへんやろ。へらへら生きんな。何の価値もないからなお前らに。そのことを分かれよ。調子乗んな」トンネルを抜けてもまだ知らない道だった。ハイビームを点ける。真っ暗で何も見えない。道は遠く果てしなく続き、全身を通っている血管すべてがびりびりと刺されている感覚は収まらなかった。
「うるさいから止めろ」と僕は怒鳴った。彼女は何のことか分からない様子だった。
「うるさいから止めろ、Bob Dylan。うるさいねん」Bob Dylanは「うまくいくさ」と歌っていた。「やらなきゃいけないことをやるんだ。そうすればうまくいくさ」「朝起きて夜寝るまでの間に、自分が本当にしたいことをしていれば、その人は成功者だ」「僕は何も定義しない。美も愛国心も。僕はそれぞれをありのままで受め」

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