掌編『巨人殺人』

はじまりは、ネコ探しの紙だった。家の近くの貼り紙。綺麗に整えられた毛が、銀白に輝いたネコの名前すら覚えていないが、とにかく、そのネコはアパートの入口で上品に目をつぶっていて、俺が帰ると待っていたかのように立ち上がり、駆け寄り身を預けてきた。

300万円はその場で手渡された。警察が見ていると面倒だからと、そのネコを擬人化したような上品な女は、泣きながら俺に何度も頭を下げ、別に封筒に10万円を入れてくれた。無職で何の宛もない俺の格好を見て、何か思うことがあったのかもしれない。

それからというもの、俺がネコ探しの貼り紙を見かけるたびにネコが寄ってきて、俺は警察に連れて行くだけだった。2回目は不思議そうな顔をされ、3回目は怪訝な表情になり、4回目になると警察は黙り、帰るなり彼らが押し寄せてきて家宅捜索をされた。

言うまでもなく、何も見つからなかった。

すぐに引っ越すのも怪しまれると思い、俺は引っ越さず、その代わりネコ探しを止めた。
それでもネコはいつでも探されていて、貼り紙は目につき、その度ネコが現れた。100均で買ったリードを交番の前に繋ぎ、細々と生き続けた。

俺が引っ越すことに決めたのは、イノシシのせいだった。その大きなイノシシは山から降りてきて、何人も殺したイノシシだった。テレビは連日イノシシについて報道し、街じゅうに注意の紙が貼られた。
そんな紙を貼られたところで注意できるわけもなく、俺のアパートの前にイノシシが出た。イノシシは興奮していた。顔のあちこちに傷があって、左前足は血まみれだった。が、俺の姿を認めると大きな鼻息を鳴らし、俺の背中を牙で小突き、部屋に入ってきたのだった。

イノシシは疲れていた。風呂桶に水を入れてやり、連れて行ったが少し舐めただけですぐにリビングに戻り、ささくれ立った畳の上で気持ちよさそうに眠った。
恐怖心は無かった。人間でなく、イノシシに殺されるなら誰にも迷惑をかけなくていい。けれど何日経ってもイノシシは、気が向いたときに水を舐めるだけで何もしなかった。

俺は家を出た。俺は何を考えていたのだろう、と思った。家賃は勝手に振り込まれるのだから、べつにあそこにずっといる必要なんてないのだ。契約とか、そういう煩わしいことに気を取られていたけれど、俺が家にいてもいなくても、何も関係ないのだ。

その時のことはよく覚えている。とても心地よかった。初めてかもしれない、自由を感じた。何をしたっていいのだ、と思った。俺はその足で、1番近い時間に出る新幹線に乗った。駅中で初めて弁当を買って食べた。生きている感じがした。俺はいま、初めて生きていると思った。駅員が何人か来て俺の方を見たが、それだけだった。俺は生きていた。俺は人間だった。暗くなりかけたころに着いた終点で降りた。

とりあえず漫画喫茶に泊まった。漫画喫茶に入ったのは大学生以来、数十年ぶりだったが、様相はかなり変わっていた。それぞれに綺麗な防音個室があり、オートロックで、食べ物やルームウェアまで付いていた。

アイスコーヒーとカレーとレッドブルを手に、意気揚々と部屋に戻ると男がいた。

男は指名手配中の殺人鬼だった。清潔な身なりでいかにも育ちが良さそうな見た目に変わっていたが、俺にはすぐ分かった。男の懸賞金は700万円。700万円だ、と俺は思った。

「俺のこと知ってるらしいな」と関西なまりの強い男は葉巻を吸いながらそう言った。スーツにスラックス、髪をワックスで固め、ネクタイをピンで留め、まぶしいほど磨かれた革靴を履いている男には似つかわしくない声だった。
「まあ」と俺は言った。
「怖くないんか?」
「まあ」
俺は苛立っていた。なんで俺ばっかりに、と思った。なんで俺ばっかりに。
「俺はな」と男は言った。「俺はな、人を殺すのが好きなんや。それは飯食うのが好きとか、女抱くのが好きとか、そういうのと一緒でな。我慢できるもんじゃないねん」
「へえ」
「まあええわ」
「なんで俺なんですか?」
「……金、欲しいか?」
「べつに」
「いい話があんねん。あのな……」
「なんで俺なんですか」
「まあ、ちょっと聞けや」
「なんで俺なんですか」
「この袋を見てみい」
「なんで俺なんですか」
親指に冷めたカレーが付いていた。

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