ココア共和国2022年7月号雑記

はじめに

色々と編集が固定しない記事です。引用部分、太字になったりnote式の引用を使わせてもらったり。
ちがうんですよ。これは、2回くらい前かな?の引用のとき、ちょっとしたバグがあったみたいで。すごく見にくくなってたんです。note引用が。だから太字にしたんだけど、いまは改善したみたいで。だから私のせいじゃないです。うん。


傑作集Ⅰ

『うちにはねシタイがあるんだよ』高平 九
わあー。いいなあ。この前取り上げさせて頂いたときにも、舞台は公園でした。公園。いいなあ。

これね。何度か言ってるんですが、引用する難しさ。本当は、少年少女のせりふの部分、1文字空いてるんです。でも、横並びの引用だと、読みにくいだけになってしまうんで。無視してしまいました。すみません。
男の子は2文字、女の子は1文字です。これ、すごく分かります。いや、作者さんの本当のところは分かりませんが、きっと、「」を使いたくないんですよね。それは公園という舞台設定、あくまで「聞こえてきた」というのがきっと大切なんです。地続きの文章にしたい。そのための文字あけ。おかげで違和感なくすらすら読めます。こんなところにも感動してしまう。
本題。シタイは何なのか。いわゆる死体とも読めますね。この世界ではシタイという何か別のものがあるのかというと、そういうわけでもなさそうです。主人公は<聞き間違いかと思った>と言っていますから。シタイは死体に捉えられるのでしょう。
では何なのか。1つは、介護のことではないかと思いました。介護される側の人間は、もうシタイと読んで差し支えないんじゃないかと。それは2節目。<どんな家にも一つや二つシタイはあるのかもしれない/だがいつまでもシタイにばかりにとらわれてはいられない/仕事に行かねばならないし洗濯も料理もしなければならない/笑ったり欠伸をしたり恋したりしなければならない/日常という水に漬けておけばやがて溶けて消えてしまう/それがどんなにおもいシタイであっても>ああ、また全部引用してしまった。ここから祖父母、あるいは義祖父母にあたるのではないかな、と思ったんです。<仕事に行かねばならないし洗濯も料理もしなければならない/笑ったり欠伸をしたり恋したりしなければならない>ここ、めちゃくちゃ良くないですか?めちゃくちゃ良いです。歌が歌なら全米が泣きます。後世に渡り継がれるような1行。それをさらっと放ってしまう。私、凄まじいインパクトを受けました。
まあ、介護問題だろうな、というのは、ちょっと読めば分かるかもしれません。でね。そうと分かってから読み直したとき、<うちに黒くてすっごく大きな袋があるよ/あのねおばあちゃんに袋いっぱいのお菓子もらったんだよ/話題はたちまち大好きなお菓子のことに変わった>ここ。ここがすごい。これを書いている時は、作者さんも、「シタイは介護でもあるな」と半ば気づいていたんじゃないかと思うんです。なのに、おばあちゃんにお菓子を持たせる。えー。そうなの。じゃあ違うじゃん。背筋が冷たくなる。じゃあ、男の子の、<うちに黒くてすっごく大きな袋があるよ>これなんなの!こわい!こわいよ!お菓子じゃないんだ!やけに大人びていて、覇気のない男の子の返事も気になります。
さっき、「1つは」と書きました。介護というのは1つの説でしかなくて……まあ、色々想像できるんです。恐ろしすぎて書きたくないんですが。
<どんな家にも一つや二つシタイはあるのかもしれない>ここですよね。ここが書きたかったんじゃないかって思います。自発的にしろ他人に押しつけられたにしろ、シタイが家にあり、世話しなきゃいけないんだけど、いや、そんなのは自分の人生なのか?という。
それから忘れてました。公園。公園がいいんだ。前もそうでしたが、中年の男に孤独を感じさせます。そして現れる幼い子どもたち。孤独が際立ち、より一層不気味に感じるんですよね。そして少年少女に言わせているのもすごくいい。君たちもシタイのときがあったし、いまもそうなんだよ、と言いたいわけではないんですよ。むしろこの未来を大切にしようとしている。それは最後の<滑り台を降りた我が子を僕はいつもより優しく抱き上げた>に現れています。君たちじゃないよ、と伝えている。いやー。こわい。こわいよ。男の子。色々や要素がひとつにまとまり、心にへばりつき続ける詩です。


『ハサミちゃん』吉岡幸一
どうなるんだろう?とわくわくしました。この少ない行数のなか、洗練された文章で魅了してくれます。

主人公が女性で、しかもテーマが脚です。やはり、妖艶な雰囲気を感じてしまいます。
身体的なこと。様々なメタファーを感じられます。自分のなかでどうしても許されないこと、納得できないこと、恥ずかしいこと、誰にも明かせないこと。でも、どうにも出来ないこと。それに置き換えられます。このあたり、家に一人でいるときに欲求を満たしているあたり、どうにもならなさが伝わります。
主人公は大好きな彼に、脚をどうしても見られたくない。触れられそうになると泣いてしまうくらいに。でも、隠したまま付き合い続けることができないし、このままだと誰とも結婚できない。<生か死かの覚悟で彼の前でロングスカートを捲りあげたのは、/真実を教えないまま去られることが悲しくて悔しくて辛いから。>ここ。ここに普遍性があります。このリアリティ。優れた作品は様々な解釈を許します。この詩もそうです。私は男ですが、胸が痛いほどよく分かります。
そして許してくれる彼。許された彼女。足に口づけさえしてくれます。無事に結婚する。
で、彼女のそれを知ってからか昔からかはわからないけれど、彼はハサミマニアだった。<夫が街でハサミを買ってくるたびに、私はハサミをゴミ箱に捨てる。/最近、足のハサミで夫の身体を切りたいという衝動に襲われる。/愛が深まれば深まるほど、私は夫の身体を切り刻みたくなっていく。>ここで終わります。なんかね。これがすごくいいんです。要は、身体的なことなのであれば、最悪、手術か整形でなんとかなるのではないか、と思うんですよね。でもこのハサミちゃんは違います。歪んでいる。ただ脚がハサミであるということだけでない。心の底からハサミです。一件落着、と思わせておいて、この深い闇を置いて詩は幕を閉じます。これから彼は、ハサミちゃんはどうなってしまうのだろう。また、どんなものを抱えていても、愛してくれる人はいるよ、という励ましにも見えます。設定からなにから、面白い詩です。読まずにいられない。

傑作集Ⅱ

『クラウン』裏路地ドクソ
こういった抽象的な、一見では理解しにくい詩がココアにはいくつかあります。そのなかでも、僕が惹かれるものは何なのでしょう。自分でも分かりませんが、この詩には静けさを感じました。

4段落に分けられています。少しずつ見ていきたい。
1段落目。よく言うDV彼氏の話なのかな、と思います。ぷっくりとした血。指を針で刺すと、そういう血が出ますよね。それが落ちて王冠になる。君の血を頭に載せ、主人公は王様になった。けれど、痛いのは主人公の指の方だった。
2段落目。重要な言葉が出てきます。(いくらでも傷つけてあげる)。何度心が死んでも、君を傷つけても、君はずっと隣にいます。そして傷つければ傷つけるほど、自分が傷んでゆく。そのことを君は知っています。
3段落目。とうとう王冠は川の水に溶け、主人公は王子様になってしまう。<止まらない流血が水域を赤く染めて/それがなんだか朝日みたいに見えたから/生まれ直す場所を選べないと知った>ここ。ここ、すごくいいです。この静けさ。読者には因果関係が分からない。けれど、とにかく、主人公はそう思ったんです。心からそう思ったことが伝わる。
そして最後。ここはもう、全部またここに引用したくなるほどすごいです。(もう傷つける価値もない)王冠を落とし、王子様になってしまった主人公にそう言った君。<そう言って僕の指に針を刺した/ぷっくりと血が滲んで、落ちて王冠になった>ここで終わります。タイトルのクラウンは、王冠という意味ですが、君主という意味もあるらしい。ここでいう君主は君ですが、指を針で刺していたのは主人公です。それでも君主は君だった。王冠を載せていたのは主人公なのに。
うーん。うまく伝わるかなあ。これ、たくさんの比喩や社会問題を絡めて書きたくなりがちです。でも、この詩はちがう。すごく静かで、個人的です。2人しか出てきません。だけど、この美しさ、ストレートすぎず、隠微で、なのに伝わる。穏やかな衝動。この世界観、好きです。


『妄想に似通った君と僕』泊木 空
ええ、いいなあ。すごくいきいきした恋のにおいがします。

ううん、やっぱり、恋として捉えていきます。
まず思ったのが、主人公はシャチだったのか、ということ。かなり末になってからそれは明かされます。2節も使って、きみの前世、つまりペンギンのことを書いています。
<生まれつき体が弱くて/他のペンギンより少しだけ/魚を殺さなかったから><誰も殺さずに暮らして/感情だけを押し殺して/そうやって生きてきたから><背丈より高い崖を飛び降りて/他のペンギンより少しだけ/傷を負ってしまったから><きみは人間に生まれ変わって/なのにきみは君を恨んで/またどこかから飛び降りたりして>
このあたりの、闇の深さというか、どろどろとした感じ。それを、可愛らしさで包んでいます。ここが新しい。そして、すごくいい。可愛らしさも、毒々しさも際立っています。
そして最後は<前世海洋生物同士の僕らは/人間世界に馴染めないから/僕らだけで一緒にずっと/仲良く生きていくわけ!>で締める。そっちで締めます。かっこつけようとしません。それがめちゃくちゃかっこいい。ひたむきな愛を感じます。
他のペンギンより少しだけ魚を殺さなかったきみは、他のペンギンより少しだけ傷を負っています。そして、そんなきみを神様は人間にしてくれましたが、<なのにきみは君を恨んで>君は、人間のきみのことでしょう。きみは、人間であるには優しすぎたのだ、ということがこの1行で明らかになります。この複雑な感情、性格を、たった1行で書いてしまう。
それで、タイトルが『妄想に似通った君と僕』。ううん。難しい。これはすべて妄想なのでしょうか。タイトルできみは漢字で書かれています。僕が一方的に惹かれている君と、一緒にずっと、仲良く暮らしていくにはどうすればいいのか、と考えた挙句の詩なのでしょうか。だから無理やり自分をシャチにしている……。
推測でしかありませんが。色々な意味で可愛らしく、闇もあり、そして計算されて生まれた詩だという印象を受けました。

傑作集Ⅲ

『施錠されたドア』篠崎亜猫
これ、めちゃくちゃ好きです。ただただかっこいい。痺れます。

<網戸の隙間からひとつぶずつ/染み出していく私を追いかけて夜の道を行こう>もういきなりすごい。漫画やアニメでこういうシーンは見たことがありますが、文字に出来てしまえます。このはじまりによって、私は全幅の信頼を作者さんに向けることが出来ました。それは、詩が読者にあたたかいから。優しいのではなく、「来たいなら一緒に来ていいよ」という。そういうあたたかさを感じました。
<電気の箱とキスがしたくて/月光に叱られながら枕を飛び歩く/ブランコを漕ぎたくて/マフラーを買おうかなと思う/プールに飛び込んだ時の音が好きだから/八階建てのビルを探している>引用ばかりで申し訳ないのですが、ここがめちゃくちゃいいです。もうこれだけ詩にしても評価されるんじゃないかって。この疾走感。自由感。抑えきれない感情。それが詩になって溢れ出ています。そしてこの、因果。最高です。
<何も出来なくてさみしいねって/アルミ缶を輪廻に戻す>これで締められます。いやあ、かっこよすぎる。短編小説を読んだ後のような気持ちよさ。すっごくいいです。

佳作集Ⅰ

『皿の上の人参』内田安厘
ええ、なんだこれは。なんだか色々とまとまりません。なに、これ。

人生哲学。みたいなもの、ではありますが、人生哲学ではない気がします。
というか、そういうメッセージ性のあるものは、もっと初めから力が入っているものです。でも、この詩のはじまりは<空腹の自分/目の前に置かれた皿には人参>こんな始まり方するか……?突然生まれてしまったものなのではないか、と思うんです。
書き始めたときはそうでないかもしれない。けれど、「とりあえず空腹の自分に人参を置いてやろう」と思われた気がするんですよね。それがすごいです。そして人参というセンスもまた。
<人参しかない自分/人参を受け入れられない自分>ここですよね。初めからメッセージ性を含めてやろうとするもの書きには、こんなこと出来ません。書けません。感情の吐露。奥底から湧き上がってきた、人参に向けられた、自分のなかにこびりついた思想。こういうものを味わうことが出来るのは、素晴らしいことだと思います。コンテンツにももちろん、作り出せる作者さんが。


『それでこそ私です』木葉 揺
詩情のある詩です。詩情のある詩は、詩の生まれた時から存在していて、ポエムなんて呼ばれて黒い歴史になったりしますが、この詩はちがいます。それは、新しい、現代の詩情だからではないか。

この詩は4節に分かれていますが、もう最初の2節から惹かれます。共感を求めていない共感。この導入。でも共感を集めてしまうんですよね。きっと。それは作者さんのセンスです。
3節目はちょっと飛ばします。4節目。ここで急に君が出てきます。これは誰なんでしょう。読者でしょうか、誰でもいい、誰かなのでしょうか。
ここで3節目に戻します。この「人」。この人が君でしょう。それで、じゃあ、この人は誰なのか、ということなのですが……自分。「私」じゃないのかな。
最初の2節も私の主張です。が、3節目の<一番大丈夫?>と言われている君も私なんじゃないかと思いました。言っているのもまた、私です。ここに詩情を感じました。自己との対話。でも、独りよがりじゃない。ここが新しいです。読者に開かれている。でも、読者に読まれたいという感じもしないんですよね。ただ開かれていて、そしてそれが少なくない共感を集めるものになっている。終わり方もまた良いです。変にかっこつけたりしません。<その人はテーブルにはみ出しながら/絵でも文字でも暗い色で/様々な大きさで書き殴り/真剣に書き殴り/画用紙をぐしゃぐしゃにして>思考の文字化が出来る人は、動作のそれが苦手だったりするものですが、違います。どっちも出来てしまうんです。<すっきりしたのは私かな>私で始まり私で終わる、どこまでも私の詩です。が、読者にそう思わせない力があります。
こういう人がたくさん現れれば、詩はもっと開けたものに、たくさんの支持を集めるものになるのになあ、と思います。頑張ってほしいなあ、と。勝手に無責任に思ってしまいます。

佳作集Ⅱ

『まぁるい膜』早織
すごく好きです。この世界観。あんまり似てるものないんじゃないか。けれど、たくさんの人に好かれそうな。

この詩を面白くしているのは、エリの部分でしょう。<ごめんね エリ/いつもわたしを中に入れてくれた/これからはちゃんとノックをするよ>突然出てきて、突然語られなくなるエリ……色んな解釈を許そうとしているのでしょうか、それとも確固たるイメージが作者さんにあるのか。
この一節があるだけで、詩全体の印象ががらりと変わります。最後。<わたしのそらは とても綺麗だ>エリさえなければ、気持ちのいい、あたたかな詩になっていたのに、この最後の1行さえ不気味です。「わたしの」と付けるには理由があるのではないか、とか考えてしまう。
まあ、これだけでエリの正解を導き出すのは不可能ですね。でも、どうやら(名前から)女の人らしいということ。そして主人公は、わたしが一人称ですが、だからといって女の子とは限らないんですよね。男の人かもしれない。世界観からも、なんとなく女の人っぽい印象を抱いてしまうだけで。
それから、主人公は、ノックしないでエリの中に入ったということ、にも関わらずエリは、拒むことなく主人公を入れてあげたということ。そして、<これからは>とあるので、エリと主人公の関係は途切れているわけではないということが分かります。
あくまで想像の1つで、正解ではないと思うのですが、 私は、エリは主人公に暴行されたのではないか、と思いました。<中に入れてくれた>もそうなのですが、それだけではなく、膜のことや、不必要に見えるカエルの存在。それらも、暗示しているのではないか……タイトルも相まって。
いや、分かりません。すごく気持ちいい詩で、こういう詩が私は好きなので、安直に汚したくないのですが、1度そう見えるとなかなかちがう視点から見られません。困ったな。もし作者さん、これを読んでくださったら、教えて欲しいです。


『拍動』あおい
すみません、細かく考察したりできません。すごく好きです。これ。ただ好きって言うだけになってしまいそう。

拍動です。『拍動』。すごい。この詩を朗読した人が、大勢の観客にスタンディングオベーションされている姿が目に浮かびます。ガツンと殴られたような衝撃。1行1行が重い。
謎というか、深みを持たせているのは臍の緒ですね。臍の緒を切るなんてこと、普通の人にはあまりありません。でべその人が自分で切ったりするんですね。僕は誕生を思いました。生まれたばかり、本当に生まれたばかりの赤ん坊の臍の緒を切る。拍動。
文学は、簡単に死に向かいがちですが、同じくらい生もすごいものです。でも、なかなか書けません。眩しすぎて、写しにくいのかもしれない。けれど、この詩は、これでどうだと言わんばかりに美しい。ここまですれば、生も描けるんですね。いやあ、すごい。何度も読みたくなります。

佳作集Ⅲ

『アメマチ』吉岡ヴィル
雨と恋は重ねられがちです。が、この詩はそんじょそこらの雨ではありません。恋ではありません。

うーん。難しい。なんだかもやもやしています。複雑に入り組んだ感情が、一気に詩に収められている感じ。何か伝えたいことがあるわけじゃないし、ないわけでもない。夏、雨、街、ステンドグラス、ボタン。そういう物たちが、静かに感情を彩っています。
多様な解釈が許される詩だと思います。だから私は私なりに、勝手に書いていきます……。
まず、君は恋人です。そして「ステンドグラスに封じた夏」は、君との思い出。君とは年に1度、夏にしか会えません。だから君と別れた後は、雨が降っているのも忘れて、思い出に浸ってしまいます。
だから1節目と2節目の間には1年近い時間が経っています。僕はもちろん君に会いたくて焦がれる。けれど邪魔が入ります。<雨に濡れる街/降ってく銃弾、抉る棘><風に吹かれる/崩れる砂と耳障り>とうとう主人公は動けなくなってしまいます。停止ボタンを押されたように。ここ、すごくいいです。
<晴れはまだ遠く/今日も手を伸ばす/ステンドグラスの夏へ/再生ボタンが押されない><まだ今日も雨。>ここで終わりです。一向に晴れが来ない。再生されない。本当に何かの節に停止ボタンが押されてしまったのではないかと思ってしまうくらい、長いです。このココア共和国は、7月号ですから。雨が長引いてもおかしいことではないんです。そのあたりの整合性もとれておきながら、それにしても長い。この短い行数で、こんなに読者をくたびれさせるのもすごい。直接的な言葉を使っているわけではないのに、ものすごく長い時間が経っているように感じます。
もちろん主人公も、いや主人公はそれ以上に時間を感じたでしょう。<まだ今日も雨。>これが最高です。この1文。めちゃくちゃ時間をかけてこだわったのではないか。色んな言い方、締め方がある中で、渾身の1文です。圧倒されました。


『十七歳のわたしへ』加藤万結子
わあ。すっごく沁みました。私はいま25歳なのですが、精神年齢は高校生から変わっていなくて、ここまで達観できていません。

引用していて、こんなに沁みた詩は初めてかもしれません。無性にあたたかい。
そしてまた引用して気づいたことなのですが、初めの方はひらがなが多いです。けれど、後半は漢字を使っている。これは、少しずつ成長する過程を描いているのでしょうか。どちらもすごく好きです。また、ひらがなも嫌味がない。胸にすっと入ってきます。
自分の子どもには、同じ歳だったころの自分に向けるように話せばいい、みたいなことをどこかで見ました。でも、これは、作者さんが間違いなく自分に向けているものです。もちろんそういうことも頭の片隅にはあるのかもしれませんが、いや、やっぱり自分だと思います。だからこんなに独特のあたたかみがあるのでしょう。
そしてまた、現在の自分にも繋がるような言葉もいくつかあります。年齢を超えて響く言葉。自分を1番労れるのは自分です。血の繋がった子どもと言っても限界がある。最後に残るのは自分だけなのですから。詩を内向的なものと外向的なものに分けることが出来たとして、この詩はどちらにも属しています。限界まで自分に向かっているから、だから他人の私にも響きます。そして、こういうものが古典として不朽に、長く読まれるのだろうと思います。


おわりに

これ、はじめにと同じで、読んでる人あんまりいないこと分かってるんですよ……わかってるんだけど、なんだか構成的にしっくり来ない。色んな人の詩について書かせてもらってるのに、ただ書くだけ、は許せないんです。素っ気なさすぎる。かといって、言いたいこともない。むつかしい。
みたいな文章だけでもいいんです。ただ、許せないだけなんです。構成的に。構成的に。構成的に。読んでくれてありがとうございました。

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