ココア共和国2022年6月号雑記

はじめに

色々と書いてみました。
この記事に疑問がある方は、読んでみてください。

傑作集Ⅰ

『骨』塔いさな
声が出てしまいました。すっごくいいです。いやあ、すごいなあ。

主人公は死を悼んでいます。骨は死に繋がりやすいですが、骨をもって人を悼むのはちょっとなかったのではないか。
静かです。静かな詩。だけど、感情は熱く震えています。それがしっかりと伝わります。死は、人間のどうしようもないことのうちの1つですね。だから往々にして、激しく訴えます。その理不尽を。悲しみを。だからこそ、この静かさが余計に目立ちます。主人公は他人に理解されづらいかもしれません。主人公の悲しみ方は、普通のそれと少し違います。でも、主人公なりの悲しみ方があるんです。主人公なりのめいっぱいの感情が、ひしひしと伝わってきます。


『紙袋』酒井 創
うん……?となりました。この感覚、1冊に1回あるかないかで、かなり珍しいです。気になる。うまくいくかなあ。

えー。何だろう。なに……?
何も分かりません。何も書いていません。一人称さえない。分からせようともしていないのではないか。
だから、結構色々決めこんで進めたいと思います。だって、正解なんかないんだから。なんだって間違いだし、正解なんです。きっと。
まず、この主人公は子どもです。やっぱり、紙袋一杯のお菓子にわくわくしているわけですから。そうです。小学生くらいです。で、眼の正体なのですが……後ろめたさとは一概に決めつけられないんじゃないかな、と。彼(彼女でもいいのですが)は一杯のお菓子を食べられません。それは幼いからではなく、家庭環境が良くないから。でも、どうしても食べたかった。食べないといけなかった。どうにも抗いようのないことだった。そういう嵐のような感情は、人生においてしばしば訪れます。そして、彼(彼女)は、それに従ってしまった。大きな紙袋をどこからか持ってきて、盗んでしまった。じゃないと、紙袋に大量のお菓子、というのはちょっと合わない気がします。
じゃあその眼は罪悪感ではないのか。まあそれもあるのでしょうが、この眼は自分のものでなく、両親、あるいは育ての親のものなんです。その眼が、たくさんのお菓子を1人で食べるという、その単純に幸せな行為さえも、奪ってしまう。そういう恐ろしさを描いている……。
まあ、すべて私の想像なんですが。たくさんの想像を許せるフォーマットを作ること、それ自体が、凄まじいことだと思います。遊ばせてもらいました。すごく楽しかった。ありがとうございます。

傑作集Ⅱ

『魚語』南田偵一
うううん。難しいです。でも、1連1連の描写がすごく美しい。

何でしょう。この感じ。すっごくいいです。全体的にフィルムがかってぼやけているような。だからうまく捉えられないし、そのままの方がきっと綺麗なんですよね。
でも、ちょっとだけ解りたいと思います。この詩は4つに分かれていて、でも起承転結とされているわけではなさそうで。<自覚が立ち過ぎて、体のどこを押しても、声が漏れない。>そもそもこの起が、もう分からない。これ以降自覚という言葉は出てきませんし。ううん。困った。
重要な言葉。この詩での重要な言葉は、碧です。それからタイトルにもある魚。セメント。嘘。畳。背泳ぎ。
これらが出てくるのは最後の節です。まとめて溜まったものが放出されます。<胸ポケットに忍ばせて。再び畳で、背泳ぎする。ぷっかり浮いてるさくらんぼ。生地から滲む、碧色。きっと、押したら、魚語の声が、漏れ出ちゃう。>
「押したら」というのは何を押したら、なのか。胸ポケットに何を忍ばせているのか。めちゃくちゃ言葉足らずです。あえてなのでしょうが。とりあえず、さくらんぼにしてみます。ここに出てくる物が、それしかないから。さくらんぼを押せば、魚語の声が漏れ出ちゃう。魚語という言葉もここでしか出てきません。
魚は話さないですよね。そもそも水中の生き物ですから。話せない。イルカは超音波で話すというのを聞いたことがありますが(事実かはわからない)、魚はちょっと聞いたことがない。
だから、言葉にならない言葉、ということでしょう。さくらんぼの象徴しているのは、嘘。嘘に切なさというセメントを混ぜ、固めたところにパフェを注文していましたもんね。
だから、さくらんぼを押すということは、嘘を否定されるということで。そうなると何も言葉に出来なくなる、ということを魚語としているのではないか……。
うーん。ごめんなさい。自分でも全然納得できていません。降参です。ちょっと何回読んでも、書いても分かりませんでした。けど、この詩全体が纏う雰囲気、私は好きです。

傑作集Ⅲ

『波浪少女』冬野いか
なんだかいいなあ、と思いました。ちょっとこれまで読んできたものにはなかった感覚。羨ましい。読んでいて気持ちがいい。これからも読みたくなる詩です。

えー。これ、難しいです。もう読んだまま、これがすべてである気がする。
なにも考えずに書いているのでしょうか。考えて書けるものではない雰囲気を感じます。詩について書いているのは2行だけです。<そんなこといってる場合じゃない。将来、将来、将来、みかづき、もうこんな時間だ。寝よう!ああ、朝。>この展開力。ぐるぐると、読者の前を颯爽と駆け抜ける文章。
読んでいてどうして気持ちいいのか分かりました。書いていて気持ちいいから、ですよね。きっと。作者さんがすごく気持ちよさそうにしているのが伝わります。作者が気持ちいいと、読者も気持ちいいんですね。
あまりに自由。なのに、読んでいて不快にならない。作者さんが、根っから爽やかで可愛らしい性格なのでしょう。天性の才能です。なろうと思ってなれるものじゃない、書こうと思って書けるものじゃない。この投稿が初めてなのでしょうか。ほかの作品も読みたいです。

佳作集Ⅰ

『朝焼け』高山京子
詩を定義することなんかできませんが、優れた詩にいくつかの必要条件があったとして、これはほとんど満点といえるのではないでしょうか。

この美しさ。描写力。瞬発力。ちょっとすごいです。
そして何より好きなのは、この詩が、最小限の言葉で書かれているところです。この後どうなったのか、語り手は何者なのか、なぜ新聞配達の人は自分で警察を呼ばないのか。何も分かりません。ただ分かるのは、この女性の美しさ、朝焼けの神々しさ。それを描くために、この3人は作られたんですね。その2つにまったく関係ない人たちなのに、絶対に欠かせない人たちです。この3人がいないと、この状況にならないと、この美しさは出せないんです。その唯一無二感がたまりません。
こういった想像力の必要なもの、想像を読者に委ねているものにあたり、私はこの記事で自分勝手に色々書き連ねるわけなのですが、この詩には出来そうにない。そうするには、圧倒されすぎてしまいました。あまりに美しい。そんなことより、この画を観ようよ、沁みていようよ、と。
岡本太郎は、「なんだこれは、が芸術だ」と言いましたが、この詩はそれに到達してしまっていると思いました。なんだこれは。理解できない。けれど絶対に美しい。いやあ。すごいです。


『戦争が続いているのだが何と戦っているのか知らされていない』にしかわましゅう
いや、ほんと、大好きです。この設定。

言いたいこと、突っこみどころはたくさん用意されています。突っこみどころのない箇所がないくらいに。そして、その分だけ、考えさせられる要素もあります。
戦争を非難したり、揶揄したりするものは数あれど、戦争を使ってほかのものを揶揄するのは、ちょっと見たことがありません。戦争は、重く暗く、リアリティがあり、読んでいて痛いものです。戦争を明るく描くことは出来ません。
なのにこの詩は出来てしまっている。「努力、友情、勝利」を描きたいために使われるスポーツのように、全体を包みこんでいますが核心ではありません。だから悲壮感がないし、笑いという意味でもめちゃくちゃに面白い。
<我々は皆 納税や労働と同じように/国民の果たすべき義務として毎朝攻撃している>ここ。この詩はこれである気がします。ここから端を発したのではないか。私たちは、納税や労働になんの疑問も持っていません。いや、持っている人もいるのかもしれませんが、基本的に善しものとされることで、誇らしいことで、していれば安心されることです。していないと冷たい目で見られるか、蔑まれるか、何か事情があるのかと心配される。事情がないのにそれらをしないのはおかしいことだからです。空が青いことや、毎日電車が走っていること、みんなマスクをしていること、24時間コンビニが開いていることと同じく、当然のものになっていて、それらが違っている世界は狂った世界です。
そして戦争。戦争は、人間の最も恐れるべき、避けるべき事態です。いつ死ぬか、殺されるか分からない状態が延々と続き、終わりが見えない。極限の緊張感に包まれます。
この2つを合わせてしまった。戦争の習慣化し、何世紀にも渡り、しかも反撃もないので緊張感もなく、生死の感触もなく、でも、毎日続けている、続けなければならないとされている。「笑いは緊張と緩和」と言ったのは桂枝雀さんでしたっけ、とにかくそれで言えば、両方に振り切っています。極限の緊張、そこから極限の緩和。そういう意味で言えば、これ以上のものってないんじゃないか。
そう。この詩の好きなところは、メッセージ性のないところです。作者さんも色々思うことはあるだろうし、伝えられることもあると思うんです。でなければ、これだけの基盤は作れませんから。
でも、なのに、そうしない。『サンダーバード』(人形劇)を観ちゃいます。<だが私はこう考えている 我々の攻撃目標
は/四百五十億光年先にある二次元平面に書き込まれた/宇宙計算機のデータであり/そのデータの改ざんが我々の真の目的である/朝の攻撃を終えた我々はそれぞれの居場所に戻る/手に染みついた銃器用潤滑油の香りが消えることはもうない/今日もまた再放送の『サンダーバード』が始まる>もう、ラジオ体操感覚。すごく平和です。主人公は何と戦っているのかすら知らず、その子どもたちもまた、そうなるのでしょう。先々を考えるとまた面白い。何度も何度も、どこまでもループが続く詩です。


『目をつぶった世界』あおぞらかえる
これ、哲学でよく出されますよね。私もこのことを詩にしたいのですが、なかなか難しい。

ここでは、目をつぶるということがすごく重要になっています。それは、自分の見ていない世界ということ。
哲学。自分の見ていない世界は、そのまま動いているのだろうか。否定も肯定もできるはずがない問題。
防犯カメラがありますが、それだって映っているだけです。実際に見ているわけではない。自分が。
という問題もあり、また、SNSの問題にも触れている気がします。見えないのに、話せる人。目をつぶってもあけても、相手は見えません。
こういうものの着地点は、不気味なものにするか、自分なりの結論を出すか、に分かれる気がしますが、この詩は<みんないろいろ言うけれど/目をつぶった世界にいるその人の/見えない優しさを、私は知っている>で締められています。これがすごい。
目をつぶった世界にいる人、というのは、自分の中だけで生きている人です。そこでしか生きられない人です。それは思い出だったり、想像だったりするのでしょう。そういったイメージを膨らませてしまうと、人は人を悪く捉えてしまいがちですが、ここではちがいます。見えない優しさを感じている。作者さんの優しさを溢れるほどに感じられました。優しい人は、脳内までも優しいんです。


『梅』隅野R
えー。これはいいなあ。普遍的な良さがあります。さまざまな感情が詰まっている。

主人公は少女でしょうか。少年でしょうか。どちらにせよ、まだ幼く、とはいえ幼すぎず、そして、家出したのだろうということは分かります。
それ以外は何も語られません。なぜ家出したのか、主人公の性別は、年齢は。ほとんどすべての想像をこちらに委ねています。
なのに、誰しも抱いたことがあるこの感情を、リアルに丁寧に描いている。だからどんな読者にも刺さってしまう。
また、言葉選びも秀逸です。<とうとうつまらない場所になってしまったらしい><あぁあ もう、 こんなばからしい抵抗やめて家に帰ろうか>作者さんがお若いことも影響しているのでしょう。この若さ、瑞々しい言葉たち。羨ましいです。
そして、まず浮かぶだろう疑問。なぜタイトルを『梅』にしたのか。<近所の梅はもうみんな花を咲かせたのに、>梅が使われているのはここだけで、全然触れられません。『公園』とか『家出』とかにしたくなります。
でも、そんなのはセンス無いことを、作者さんは知っています。あの、梅を使ったあの1行。あれがすごく重要だったんです。他人との比較。それが何より主人公には辛いのでしょう。自分だけ咲けない。複雑にゆがむ青い感情が熱く迫ってきて、胸がひりひりします。

佳作集Ⅱ

『あらゆる地表で』遠藤健人
ちょっと難しいです。ものすごく簡単なのに。おもしろい。

この詩は3つに分かれています。そして、1つめと3つめは繋がっています。2つめもまったく関係ないこともないのですが、やはりちょっと違う気がします。
めちゃくちゃ謎が多いです。あえて核心に触れないように、語らないようにしています。それは多くの人に共通する感情、それを揺さぶるためでしょう。
<大人がひとりでずっと公園に居続けるのはまずいかと思ったが/誰からも咎められなかった/ひょっとすると/わたしはもう死んでいるのかもしれないな><あなたと生きていくことで/わたしの歩幅はどんどんやさしくなってゆく/そういうことが/この世のあらゆる地表で/起こっていてほしいと思う>2つめの最後の部分と、3つめの節。主人公は本当に死んでいるのではないか、と思ったのですが、たぶん、死んでいるのは、「あなた」の方です。
<匿名の悪意に触れ続けて疲弊していた/あなたを心の中で呼び出す必要があった/ベンチに座ってずっと集中していると/あなたのあらゆる表情を思い浮かべることができた>それは2つめ、ここの部分から。まあ、「あなた」が生きていて主人公が死んでいるということも想像できるのですが、死んでいる人が、<わたしはもう死んでいるのかもしれないな>とするのは、少し違和感があるというか。それは、すごく生の言葉である気がするんです。
生と死。それを書こうとしているのではないか。大切な人との永遠の別れ、死は、生きていると避けられません。どんな人にも起こることでしょう。それでも主人公は、思い出し続け、心の中で、いとも簡単に呼び出しています。死との、別れとの向き合い方を、書いているのだと私は捉えました。

佳作集Ⅲ

『からのながれ』入間しゅか
長く生き続けるものは、得てして、生まれたときから輝きを発しているものです。この詩は、そういう風に生きるのではないかと思いました。

読んでいて、書き写していてすごく気持ちいいです。本当にこういうものがあるのかないのか、分かりませんが作者さんにははっきりとその映像が見えているのでしょう。だからこちらにも、鮮明に伝わります。
<そのことを小学校の授業で習ってからずっと覚えている>こういうことってあります。自分でもどうしてか分からないのだけれど、なぜかよく覚えていること。それは、深く心に刻まれたことなんですよね。
主人公は、からに感動したんです。だから語りたかった。普段はからであること、雨降りの日だけ流れること、威風堂々と流れ、雑草さえ道を譲ること。私もだから、感動しました。心を動かされた。理由は色々あって、ないようなもので。語ることができるようなものではない。威風堂々、からのながれ。じんわりと沁みます。きっとずっと、覚えています。

おわりに

今回からここに、(気が向けば)その号に載った自分の詩を取り上げてみようと思います。
ということをしようと思っていたのですが、やめてしまいました。引用していて、動悸、息切れ、吐き気……まではしていないですが、ちょっとどうしてもできなかった。恥ずかしいとかじゃなくて、内臓をえぐられている気になったんです。はあ。苦しかった。

回を増すごとに、取り上げられる詩が減っています。結構深刻な悩みです。私が変わってしまったのか、ココア陣営が変わってしまったのか、投稿者さんたちが変わってしまったのか……おそらく、みんな、少しずつ変わっていて、むしろ健全なのかもしれませんね。たくさん取り上げられるように、私は私で力をつけるしかないです。

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