富くじ

目が覚めたのは陽が射したからでなく、妻に身体の上に乗られていたからだということに気づくのにすこし時間がかかった。
妻は一昨年のクリスマスにやったショルダーバッグを肩にかけ、厚化粧をし、コートを羽織り薄いスカートも履いたまま、息も絶え絶えだった。まだ寝ぼけていたおれは抱きしめようとすると、頬を張られた。妻は涙ぐんでいて、娘が子ども用の椅子に座って卵をぐしゃぐしゃに潰したのを食べているのが見えた。
「どういうこと」と妻が投げつけた通帳を見ると、残金がほとんど無くなっていた。明日も迎えられない。
「知らねえよ」とおれは言った。だいたい、金の管理は妻がしているし、おれは小遣いでやりくりしているんだ。
「なにもしてないわよ、あたし。あなたしか考えられないでしょ」妻の唇がわなわなと震えていて、目には大きな涙が溜めこまれていた。「知らねえよそんなの、休みの日くらい寝かせろよ」
「ねえ、あたし知らないのよ、何でこんなになってるの」
「いいからどけよ、でぶ」おれは妻にそんなことを言ったのは初めてだった。言ってしまってからすこし後悔した。娘の口の端にケチャップが付いている。まったく、赤ん坊の目はどうしてあんななんだ?
「ねえ、ねえ、」と言いながら妻はおれの胸ぐらを掴み、何度も揺らした。「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、」こいつは、おれが本当に何も知らなかった場合のことを考えているのだろうか、その責任はどう取るつもりなのだろう、また泣けば許してもらえると思っているのだろうか、その浅ましさに苛ついたが、娘の顔を浮かべて堪えた。
あまりに強い力で胸を掴むので、よれていた寝巻きの襟がもう元に戻らなくなった。おれは肩を調整した力で突き飛ばし、ベランダで煙草を吸うことにした。外は小雨で、まだ朝の10時だった。これから休日が始まる。本来なら幸せな時間のはずだったーー何だ?何が起こっている?限界まで燃えた煙草の熱さに飛び上がっていると、ポケットの携帯電話が鳴った。非通知だった。
「……はい」おれは新しい煙草に火を付けた。
「〇〇様のお電話でお間違いないでしょうか?」
それはおれの名前だった。
「なに?営業ならいらないよ、悪いけど」
「いえいえ、そうではありません。あの、本日、このお時間にお電話するようにと、お客様からお申し付けがあったのですが」
「なに?朝から鬱陶しいな、意味わかんねえよ、まず名乗れよ」
「大変申し訳ございません、お電話口では名乗ることが出来ませんでして、それゆえお客様と事前に打ち合わせて、お日にちとお時間を決めているわけでございまして」
「知らねえよ、失礼なんだよ非通知で。悪いけどかけ直してくれねえかな。いまちょっとそれどころじゃないんだ」
「ああ、どうか切らないでください、切ってしまうともう繋がらなくなります、もしかして、お客様のお口座のことでお困りでしょうか」
「なんで……」
「ああ、それでは本当に覚えておられないのですね。それは困ってしまいました。私どもの名前、仮称ですが、富くじ振興会と聞いても覚えはないでしょうか」
意味が分からなかった。世界じゅうの人間がおれを騙そうとしているような気がした。頬にケチャップを付けた娘の顔が頭に染みついて、うまくものを考えられなかった。
「……そうでございますか。ここだけの話、私どもの営業の性質上、お客様がすべて忘れてしまうということも珍しいことではありません。しかし大変申し上げにくいのですが私どもにはどうすることも出来ないのもまた事実です」
えづくような話し方、粘っこい声、こんな特徴的な人間を忘れるとはとても思えない。
「しかるに、恐縮ですが、こちらではこちらのお手続きをさせて頂くほかにないわけでして、というのも、ご来店された日に、お客様ご本人から直筆のお手紙、本日このお時間のお客様に宛ててのお手紙を頂いておりますので、読ませて頂きます。なお、このお手紙は一度しか読むことが出来ませんし、読んだ直後にシュレッダーにかけてしまいますので、漏らさずに聞き取って頂くようお願い申し上げます」
もうおれが何も言わないのを悟っているのか、心地良さげにべらべらと暗記した原稿を読むように話し始めた。忘れた人間は、呆気に取られて黙るタイミングも同じなのかもしれない。
「」電話口で一瞬の息遣いが聞こえた瞬間、指に猛烈な熱さを感じ、煙草を落としたのと同時に驚いて携帯電話を放り投げてしまった。がしゃんと音を立てて5階のベランダから落ちた携帯電話の壊れる音は、小雨に彩られ美しく響いた。

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