ココア共和国2023年3月号雑記

はじめに

ええと。前号で僕はココアへの投稿をやめてしまったので、自分の詩についてここで話せなくなりました。どうしようかなあ。招待詩をいままで扱わなかったのですが(悔しくて)、そのなかから読みたいと思います。なにしろ書くことがないので。

『愛おしい腕』森崎 葵
この、巡り巡る思考。僕なんかがわかるなんて言うとおこがましいのですが、分かります。
<そんなとき私は昔望まずともちぎれてしまった/あの愛おしい左腕のことを考える/あの土地に埋められたままの左腕は/私が来るその日をずっとずっと待っている>思考を巡らせることは、まあ出来るんですよ。最後。この終わらせ方。ここに作者の底力というか、その詩がどうなるか、を決めると思うんです。これ、めちゃくちゃ難しいんですよ。落としどころ。ここを作者さんは間違えません。最高の終わり方だと思います。これ以上ってないと思う。ここで外さない力が、安定感が、高く評価される所以なのでしょう。すごいなあ。

傑作集Ⅰ

『おとんは嘘つく』西川真周
正直に言って、この詩は、とても客観的に読むことができません。自分と、この「おとん」があまりに重なってしまって。これは実体験でしょうか。だとしたら作者さんには失礼なのかもしれませんが、でも、ほんとうに。

<ええ嘘もわるい嘘も嘘やったら何でもつく/たいていのお客さんは笑って帰っていくけど/ときどきおとんのようわからん嘘のせいで喧嘩になって/二度とこうへんくなったりもする/おとんはむかし落語家目指しとったらしいけど/金やら酒やら女やらで散々やらかしてあかんくなってもうたらしい>どうしても自分の父親のことですから、ひいき目に書きたくなってしまいます。なのに、お客さんと喧嘩になることや、やらかしたことも開けっぴろげに書いてしまう。僕もそうですが、こういうところで読者の共感を呼びます。醜い部分も描いてしまう。
そしてこの後半ですよね。正解がないんです。そして作者さんも何も求めていないし、読者に提示しようとしていない。それがこのスタイルでありながら、文学を文学にしているし、詩を浅く、臭くしていない。なぜこんなに良いものを、折につけ何度も思い出したくなるようなものを描けるのでしょう。このおとん、大好きです。


『救い』高山京子
すごく短い詩です。なのにぐんぐんと目の前が開けました。不思議です。なぜだろう。

<それはたとえば/屠殺された豚の血の海/場末のギョーザ屋の裏/扉が壊れた便所の中/そんなところにあります/本当に美しいものは/いちばん汚いものと一緒です/あなたの救いの出口は/救いがない場所にあります>前も書いたのを覚えているのですが、作者さんの詩を読むと、引用していると、胸が熱くなります。これだけたくさんの詩を読んでいてなぜ覚えているのかというと、これは作者さん独特だからです。この人の詩でないと、こうならない。難しいわけでも簡単すぎるわけでも、気取っているわけでも決してないのに。
あなた、と語りかけてくる詩、ココア共和国ではあまり見かけないです。うまく言えないのだけれど、とても嬉しくなりました。とても共感している、尊敬している人を遠くから眺めていて、眺めているだけだと思っていたら突然隣に来てくれたような。高尚でなく、けれど確固たる基盤を感じられて、だから遠くの人のように思ってしまったのかもしれません。たくさんの人に羨望される語り手。僕はたくさんいる聴衆のひとり……と思っていたら、語り手は、僕の目を見てくれました。あなた、と。想像しただけで涙が出そうです。
<生きていることの/極限までのわびしさかなしさ/冬の日の夜/そんなところに/救いはあるのです>ごめんなさい。引用がちょっと変ですよね。短い詩で、どれも必須だから何ひとつこぼさず紹介したいのだけれど、全文を出すわけにもいかないので。ぜひ、ぜひココア共和国のこの号を読んでください。
動きのない詩です。ずっと語りかけています。けれど読み手(聞き手)の脳内は、ぐるぐると掻き乱されます。ギョーザ屋に、中華料理屋に、屠殺場に。とても幅があって、美醜どちらにも連れられるので当然なのですが、ありながら、軸はしっかりとこちらに向けられています。それはとてもこわいことだけれど(何もかも見抜かれてしまいそうな気がする)、とても嬉しいことです。語り手はじっとそこにいて、そこには僕もいて、同士としてみてくれている。説教ではない、脳の回路をいじくってくれているような感覚になりました。
いやあ、まだ掴めないな。すみません。この熱いのを、どうにか解体したい。しばらく間を置いてから次の詩にいきますね。

傑作集Ⅱ

『予定どおり』木葉 揺
これは何というか、度肝を抜かれなかった人はいなかったのではないでしょうか。何度も読み返さずにいられません。

読めば読むほど、どちらがおかしいのか分からなくなってきます。吉岡がおかしいのですが、というか、本当に吉岡はいるのか?この語り手がおかしいのではないのか?カズオ・イシグロのそれとは少し違うけれど、語り手を不気味に考えてしまいます。
そちらに考えてしまうと、もう語り手がおかしいのではないか、としか思えなくなってしまいます。最後。<周りの皆が動き始める/誰かに話しかけたいけど/とりあえず黙って自分の席につく/ホワイトボードに目をやる/予定どおり部長は出張している>なんだかゾワゾワします。そしてタイトルが『予定どおり』。「これはここにこう在らなければおかしい」という異常なこだわりを感じることもできます。
この詩のすごいところは周りの皆です。メインは語り手と吉岡なんだから、周りの皆次第でどうにでもなる。同じく吉岡を責めさせることも、語り手をいなすこともできる。登場させないことだってできるんです。けれど、どっちつかずにさせている。これ、めちゃくちゃ難しいし、僕にはとてもできません。でもすごい塩梅で描かれていて、そうすることで、ある種こちらも安心できるんです。どのように捉えてもいいんだな、と。
正解がまったく分からないので恐る恐る書いているのですが、あくまで僕の抱いた印象なのですが、憑依しきっているのではないか。特に先に引用させてもらった最後の箇所は肉迫していて、強く惹かれました。

傑作集Ⅲ

『道草』あいね
ありそうでなかった詩です。僕も道草が大好きで、すごく好みでした。

すごく短いので、引用に困る……。<そうか、たんぽぽが咲いている。>この詩は2節なのですが、どちらも同じ言葉で締められます。これ、すっごく良くないですか?語感もいいし、響きもいいし、雰囲気もいいです。道草ならではの言葉なのではないか。
これだけ素敵なものを1節書けたら、もう満足してしまいそうなのですが、これ、ちがう人なんです。1節目は「僕」2節目は「私」なんですよ。この2人にどのような関係も考えられるのですが、同じ場所でたんぽぽを見ています。おそらく、この「僕」、2節目に出てきた猫ですよね。猫の視点で読むのももちろんいいのだけど、猫を介した「私」視点で読むと、よりくっきりと開けてくる感覚を抱きました。すっごく静かだし、たんぽぽを詳細に語ったりしないのに、とてつもなく綺麗です。

佳作集Ⅰ

『不誠実な獣』鈴木けんすけ
心が痛みました。「おれのことを書いてる!」って思いました。名曲にみんなが抱く感覚ですよね。

文量としてちょうど半分でこの詩は分けられていて、文字数制限はとても少ないのに、たっぷりと主人公と「君」を感じることができます。<どうか君が幸せでありますように/僕は君が大切に思う人たちの幸せまで願う/君に人間にされてしまったかつての獣>これが愛なのだと。分かります。自分だけ抱いていると思っていた感情が救われた気がしました。
そして、愛を知らない人を、自分を獣と呼ぶのもすごくよくて、まさに捉えていると思います。気取っていなくて、ネガティブなわけでもない。生まれたとき誰しも獣で、愛を知って人になるのかもしれない。そしてこれは、ひとつの愛でしょう。この短い行数で。すごいです。


『呼び鈴』蘇武家人
うわあ。すごく詩的です。なのによくあるフォーマットでなく、独特の輝きを放っています。

これは、どういうことなんでしょうか。孫までいるということは、主人公は高齢です。<希望に震える人差し指/夜をつんざくベルの音/いつもの客室係の人が/いのいちばんに駆けつけて/私を強く抱きしめた/けたたましく鳴るサイレン/真っ赤に光るパトランプ>ここ、すっごく語感がよくて、それだけじゃなく、リズムも留めず、するりと詩を進めます。説明されない状況がじんわりと伝わってくる。
家には客室係はいませんよね。ここはどこなのか、高齢者施設なのでしょう。主人公が勝手に抜け出してしまったので、消防士やパトカーが集まっている。<やっと家に帰れたねと/大きな声で祝福する/集まってきてくれた/寝間着姿のご近所さん>これは一緒に住んでいる人たちのことでしょうか。「やっと家に帰れたね」がとても痛いです。警察官やご近所さんからすればここが主人公の家ですが、息子も嫁も孫たちもいない家を、主人公は家だと思えないんです。
そして最後。これは、叫びです。激しい情動じゃない分、じんわりと伝わります。孫のいるような年齢の人に語らせることってココア共和国だけでなく、詩でも少ないですよね。なんでみんなしないのだろう。きっと、とても難しいんですよね。こういうの、もっと読みたい。


『チョコレートクジラ』吉岡幸一
これはちょっと、すごすぎます。敵わない。めちゃくちゃ好きです。

『かもめのジョナサン』なのかな?と途中で多くの人が思うのではないかな、と思います。飛び立とうとするクジラ、笑う魚たち、興味を示さない雲、それでもクジラは何度も何度もジャンプする。
そして最後。<マシュマロのクジラが絶望したとき、突然、歓喜がクジラを包み込む。すると空からビスケットの月が落ちてくる。生クリームの雲が潜ってくる。金平糖の星々がやってくる。魚たちが目指してくる。クジラは自らの意思で溶け、混ざり合っていく。海は空を飲み込み、スポンジの大陸を沈め、すべてはチョコレートになり、歓喜する。>これは……バッドエンドでしょう。飛ぼうとしていたクジラは海の底へ沈み込み、やがてすべて覆い、チョコレートになってしまいました。この、結論を当たり前にしていないところがすごくいいです。それぞれの描写にも1寸の隙もなくて、とてつもない詩です。


『菜の花畑』でおひでお
これはちょっとびっくりしました。詳しくみていきたい。

<幼いころ住んだ家の前/どぶ川の向こうは菜の花畑>ここで始まります。飛ばして、最後。<彼は今でもあの時の会話を覚えているだろうか/ぼくは未だに共に住む家族が見つからない><外は満開の菜の花畑>ここで終わりです。
タイトルになっている菜の花畑、詩の中ではここしか出てきません。始まりと終わり。
<幼いころ住んだ>となっています。これ、実家から離れているんですよね。共に住む家族が見つかっていないわけですから。ひとり暮らしです。で、彼は遠い町に行ってしまって家族を作っている。彼への想いは語られません。<覚えているだろうか>だけです。が、故郷を離れてなお、菜の花畑の近くに主人公は住んでいます。きっと主人公のなかでは、ずっと時が止まっているんです。彼を忘れられていません。
僕のびっくりしたのは、最後を満開にしたところです。美しいとか醜いとか枯れかけたとか、色んな形容詞があるなかで、満開を選んだ。主人公のやりきれなさ、どうにもならなさを、満開の菜の花畑がより強く映し出しています。どうにも言語化しにくい感情をテーマにしたのもすごいのだけれど、この満開がすごい。ちょっと思いつきません。きっと作者さんは、詩の中に入りこんだのではないか。主人公になりきることができたのではないか。そのようにして語っていくうち、最後に見えたのが満開の菜の花畑だったんです。理論じゃ抑えきれない衝動が感じられました。美しいだけでなく、稀有な詩だと思いました。

佳作集Ⅱ

『マドラー』ゴロ
シンプルと言えばシンプルな詩でしょうか。すごく爽やかで、臭さがないです。

<冬の底に芽を出す/春の気配/風よ、マドラーとなって/逆巻く感傷を晴らしておくれ>もう始まりからすごいです。マドラーの、この詩を書こうと思い立って、これを書けるでしょうか。書けないです。凛としていて、余裕があります。
<冬なのにアイスは可笑しいね/そう呟くと君は苦い顔/その日、あまり話さず/君と別れた>この噛み合わなさ。どうしようもなく他人を感じます。言葉少ななのにすごくよく分かります。この一節に強く惹かれました。
そしてこの最後ですよね……引用しすぎてしまうのでしませんが、始まりの一節を練って繰り返します。<晴らしておくれ>から<満たしておくれ>に。マドラーというとても詩的な、ともすれば凡百にしてしまいがちなアイテムを、強い苦みを含むことで魅力的にしています。卓越した技術とその余裕を感じました。

佳作集Ⅲ

『青いポストの消滅』そらまめ
こういうの、すっごく好きで、何回も書いているんですが、何回送ってもココアに載せてもらえませんでした。

<誰かがいたずらで塗った?/違う/こんな所にポストはなかった/もっと不思議なのは/誰も気に留めていないことだ>ポストの描写をできたとしても、そこからどう展開するかですよね。ここでは、完全にひとりで自問自答しています。そしてそれが、グズグズしていない。妙に感傷的でもない。さっと進みます。無駄がない。そう、ここは、無駄というわけではないけれど、結論を導く弛みですから。ここで軸がぶれるとダメなんですよね。そうか。さっと進むのか。
<今わたしに出来るのは/瞬きをせずにいることくらいだろうか/青いポストがぱたりと倒れて/地面の中に溶けてしまわないように>この終わり方。すごくないですか。そんじょそこらの想像力では務まりません。
自分だけが気づいていて、周りの人は(見ているはずなのに)認識していないもの。そこへの興味がとてもあります。けれど、じゃあ、それを出現させて、周りの人の無関心を書いて、それから?ってなるんです。これはとても素晴らしい題材なのに、その分伝わりづらい。それをこの終わらせ方。しっくり来ますね。「脆く危うい現実」をみごとに映し出していると思います。僕にはできない芸当です。

おわりに

やっと編集が終わりました。きっと大阪文フリの前日にこれが出てると思います。準備万端のことぶき君です。いまは9/7の深夜(厳密には9/8)なので、ぎりぎりですね。
僕のむかしの恋人が、「ぎりぎりでいつも生きていたい」が口癖だったんです。誰かの歌なのかな。僕とは真逆の性格をしていて、待ち合わせに30分以上遅れないことがありませんでした。絶対に20分前には到着しておきたい僕は1時間近く待たされるわけで、「ぎりぎりじゃないよ、完全に遅刻してるんだから」とむくれたりするのですが、彼女は何でもないように笑うんです。でもその代わり、僕がどんなミスをしても同じく笑ってくれました。
僕にとって本当に理想的な人で、天使のような人で、彼女もまた、深く愛してくれたのですが、あまりにも深く愛しあったので、20代前半のうちに家族のようになってしまったんですよね。男女ではなくなってしまった。「親友にならない?」と電話口に言われて振られてしまいました。
何が書きたかったのだろう。でも僕、こういうこと、詩にも小説にも出来ないんです。こういう、誰も読んでないだろうところにだらだらとなら書けるのだけれど。みなさんはきっと、書けるんですよね。いいなあ。

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