ココア共和国2022年8月号雑記

はじめに

8月号。夏ですね。2022年1月号からはじめて、もう真夏に入っちゃいました。10個目の記事です。1冊100個載ってるとして、1000の詩を読んだんですね。私。すごい。

傑作集Ⅰ

『ネコのみい、英田はるかにネコパンチ!』英田はるか
先々月号分ですか。よく覚えています。ネコのみい。再登場です。キャラものとか、シリーズものは取り上げるのが難しいのですが、しっかり面白かったです。

前回、「みいはmeとかかっているのでしょうか」と書きましたが、ちがいました。「いみ」の逆さまらしい。なるほど。
すごく長いです。本誌を見てもらえれば分かりますが、ココアの文字数ぎりぎりまで全部使っています。狙ってのことでしょう。が、そういえばこんなことをした人はいなかったんじゃないかと思います。それもまた、作風にマッチしていて面白い。
<それに、あんたねえ、ちょっと落選したくらいで膝を抱えて泣いたりしてたら詩人なんてやってられないわよ!これを詩にするのよ。そう。自虐ネタってやつ。転んでもタダで起きるようじゃまだまだね。先月の作品、何よ、あれ。ぜんぜんあたしのキャラじゃないわよ。弾けて跳んで遊んで、読者を爆笑させてこそあたしじゃないの。><あれじゃあ、ダメだわ。救いようのない駄作。悔しかったらリベンジしなさいよ。ぎゃふんと言わせてやるのよ!世界的な大詩人英田はるかならできるわよ>やはり、ここがミソでしょうか。ちょっと泣きそうになります。ネコのみい、私は大好きです。
自分の詩を、しかもこの雰囲気に似たもの(たぶん)を、<救いようのない駄作>と言ってしまえるのがすごい。これ、どうして心が痛くなるかっていうと、作者さんは全身全霊でみいなんですよね。フィクションで取り繕っていない。自分をそのまま否定された気になるんじゃないかと思うんです。それもまた、みいは鼓舞してくれます。なんだか、すごく素敵です。ひたすらにあったかくて。誰も傷つけない笑いというのに、私は懐疑的なのですが、ネコのみいシリーズについては、認めざるを得ません。来月もあるのでしょうか。すごく楽しみです。


『土のところ』遠藤健人
すっごくいいです。うまく言語化できるか自信がないのですが、頑張ってみます。

ミミズの死です。ミミズの死というのは、すごく詩的です。詩を書く人は、ミミズの死んでいるのを見て、思います。どうにか、何かを書けないか……書けません。めちゃくちゃに難しいです。詩に溢れすぎているものは、陳腐になってしまうから。 でも、作者さんは詩にしています。ミミズの独白というかたちで。
まず、タイトルにもなっていますが、『土のところ』。これがすごく好きです。土とか地面とか地中とかなんとか、色々言い方はあるんです。でも、ちがう。ミミズは、土のところ、と表しました。あくまでミミズ視点なんですよね。色々なことをよく分かっていないことが伝わってきます。地中とかいう言葉も知らないのかもしれない。土があるところ。土のところ。いつもいたところ。
<仲間がそばにいるのかも/わからないまま死にました/のたうち回って死にました>ここ。すごいです。並大抵の入りこみ方じゃ書けません。もう、ミミズになりきってしまっている。どこが、とかはうまく言えないのですが、このリアリティ、生々しさがひしひしと伝わってきます。なぜか読んでいて苦しくなってくる。
そして最後。<人間のみなさま/あなたがたは/ちゃんと/土のところで/死ねてますか>ここで終わります。これは、どういうことなのか。土のところとは、ミミズでいう故郷です。心落ち着く場所です。なんの因果かアスファルトに迷いこんでしまったミミズは、土のところを想って死んでしまいます。この最後の質問は、同時に、生きられているか、も問われている気がしました。そこで死ねるということは、そこで生きていたということですから。
ここで、ミミズはずっと死体です。死んでいるのだから無論そうなのですが、アスファルトの上、ずっと、微動だにしないミミズが、こういう風に人間に語りかけている、それも死のことを。と思うと、高度なギャグのようにも思え、様々な解釈や、メタファーも感じ取れる文学的な詩でもあり。設定から言葉遣いから、すべてにおいて突出していると感じました。すごく好みの詩です。

傑作集Ⅱ

『贈り物』まほろばしじみ
すごく素敵です。すごく素敵なのだけれど、完成していて取り上げづらいものがあります。この詩もそうなのですが、頑張ってみたいと思います。

ね。すごく素敵です。どこが素敵かというと、この主人公、ずっと相手のことが嫌いなんですよ。最後の1行まで嫌いな人は嫌いな人のままなんです。安易に「友人への返礼」とかにしない。ここが好きです。
どうしてこの主人公は、こんなに相手のことが嫌いなのだろう。それは、もう想像するしかないのですが。相手は主人公のことが嫌いというわけじゃなさそうです。というか、田舎に帰っているときに思い出してマンゴーを贈るなんて、相当好きじゃないとできないことじゃないかと思うんですが。常にどこかで、主人公のことを想っていないとできないですよね。恋愛っぽさも少しあって。そこも素敵なんです。なのに、主人公の冷たさ。
SNSでこういうことはよく起こります。有名人の過去の発言をそこかしこから持ってきて、矛盾を指摘するアンチ。それ、もう好きなんじゃないの?ファンより詳しいじゃん、という皮肉。その要素もこの詩には含まれていて、というか、そこから端を発したのでしょうか。でも、主人公はずっと嫌いなまま。熨斗まで付いている包みを「びりびり」破きます。この細さもまたすごい。本当に好きじゃないことが伝わってくる。
<おかしなことに箱の端にはパスワード入力欄があって/鉛筆で書いて下さいと注意書きがされている>私の1番感動したのはここです。このシステムを考えたのももちろんすごいのですが、2行で説明できてしまうことがなによりすごい。これ、考えついても、端的に書くのはめちゃくちゃ難しいと思います。そして、なのに、ちゃんと読んでいてイメージできる。こんなもの無いのに。これが絵本なら、簡単なんです。絵で説明できるし、描けそうな気がする。けれど、文章で。このシステムを軸に話は進みますから、ここで理解されないと、もやもやを読者は抱えることになります。しかもシステムが可愛い。
相手の側からも見たいなあ、これ。田舎でふと見かけ、好きな人、友人にパスワードを設定して、熨斗付きで送った相手側の詩。考えるだけで素敵です。なのに、この主人公の冷淡さ。べつにマンゴーに喜ぶ描写もなく、返礼に迷う主人公。このアンバランスさが絶妙です。この2人のことは描かれないのでしょうか。想像に留めさせているところもまたいい。


『アリとキリギリス』京のふじ
もの書きを普段からしている人にはない書き方なのではないか、と思いました。少なくとも、小説などの長文をひと息に書く方ではないのか、それとも、様々書いてしまってこちらに行っているのか。

なんと言ったらいいのか、すごく難しいのですが、書き方がほかの人と違います。それは、かなり違っているように見える。
動き。物語的な詩であれ、叙情の詩であれ、文章にはなめらかな動きがあります。しかし、作者さんにはありません。いや、ある、動いているのだけれど、かなり独特の動きをしているように感じました。人形劇と紙芝居みたいな違い。どちらも動くし、なめらかなのだけれど、違いますよね。表現方法?媒体?同じ詩なのに……。ちょっと、これだけで1記事できてしまうくらい長くなってしまいそうなので、このくらいにしますね。うーん。でも、すごく好きです。私。この書き方。真似したいなあ。
アリとキリギリスの話。現代版とか付けると、安っぽくなってしまって嫌なのですが、そうですよね。私は安易に、YouTuberを意識したのかな、と思いました。アリ、セミナーなんて行っちゃって。可愛らしさもありながら、人間臭いです。だから面白い。
私もこれ、きっと作者さんと同じこと思ってたんです。キリギリス、ヴァイオリン弾いてるじゃんって。立派なことしてるじゃんって。ここと、YouTuberを合わせたんですかね。<夢中になれているか、熱中できているかというと、そうではないアリ。>この詩のキモはここの気がします。人(アリ)にも向き不向き、適正があるんですよ。だから、べつにあの話、アリが偉いわけでもキリギリスがだらしないわけでもなくて。キリギリスは毎日汗水垂らして働きたくないんじゃなくて、それができない性質なんじゃないかって。それは、アリが好きなことに熱中できないのと、なんら変わらないんです。なのに、前者は責められがちですよね。
また、語尾が可愛いです。アリの説明なんだけど、語尾がアリ、口癖みたいになっている。こういう同じ単語の繰り返しって、本来は読みにくくなって避けるべきなんだけど、こういう書き方をすると、繰り返さなきゃいけなくなるのは仕方ないので、振り切ったんですかね。それがまたいいです。
こういう説教っぽい解釈の仕方はなるべくしないようにしているんですが、あまりに良くって、のめり込んで熱くなってしまいました。それくらいいいです。何度も繰り返し読みたくなります。それにしても、この書き方……気になります。私の思い違いではない気がするんですよね。作者さんに色々訊いてみたい。


『白煙』腹巻さしみ
いや、いや、すごいです。ただただ圧倒されました。こういうものを、どうやったら書けるのだろうか。ただただ憧れますが、出来る気がしません。アインシュタインと同じです。敵う気がしない、争う気にならない。

この詩のすごいのは、少しだけ現実を歪ませているところです。それは、絶妙なさじ加減で、ほんの少しだけです。それが劇薬なんです。<妻の開胸手術が終わった><笑うナースの歯茎から/ニラが生え始めていた><摘出された男は/病院で処分することもできる/連れて帰る方が一般的らしいが/どうにも気は進まない><指差し振り返るが妻はそこにいない>このあたりでしょうか。完全に現実離れしていたり、この劇薬の部分があざとかったりすれば、こんなに素晴らしい詩はできあがっていない。

たぶんこの男というのは、子どものことでしょう。子どもの誕生。子どもの誕生というのは、詩にするのが難しいです。キラキラしすぎている。臭くなってしまいます。それを、こんな風に落とし込んでしまう……そうか……やっぱりすごすぎるなあ。<皆さんそうおっしゃいますね><話し合いになったら/連れて帰ることになるだろう/それが私たちにとって/話し合うということだった><やめていた煙草が吸いたくなり>このあたり、よくある雰囲気です。現実らしい現実と言えばいいのか。ここも、前振りというか、前座でしかないのに、すごく良いです。このあたりだけを描いても、きっと傑作に選ばれたと思います。でも、作者さんは、それだけでは終わらせません。

<その向こうに白い煙が上がる/おい、ローマ法王が決まったぞ!/指差し振り返るが妻はそこにいない>ここに白煙が出てきます。あのシステム、面白くてなんだかオシャレですよね。あれを詩にしようと思って書き始めたのかな。いや、作者さんの頭のなかは全然想像できないのですが。この躍動感。あっけなく終わってしまいます。読後感は最悪です。最後にそんなことすると、もう登場人物全員がおかしくなってしまう。詩自体がおかしい。なに読まされてたんだってなります。けれど、それが狙いなのでしょうか。
作者さんの詩を、1度取り上げさせて頂いたことがあります。お名前を覚えていたので読み返してみたのですが、妻が出てきて、この独特のグロテスクが出てきていました。もっともっと読みたいです。ファンになりました。惚れてしまいました

傑作集Ⅲ

『蚊』鈴木春道
蚊です。蚊についての詩。ただそれだけです。どこにも行かないし、誰も出てきません。主人公と蚊。簡単なようでいて難しい。異質です。

漢字がまず気になりました。喧しいとか、屹度とか。難解すぎるわけではないのだけれど、常用ではなく、少し読むのにひっかかる漢字たち。この漢字たちは、この詩に、硬さを与えていると感じました。この詩は凝り固まっていて、ずっとひりひりしている。
このあたり、作者さんは分かってやっている気がします。ゆがんでいて熱い。あえてそうしているのでしょう。だから最後に、笑ったんですよね。
ただ蚊について語っても、自らを語ることになります。それは恐ろしいほどの神経の鋭さがあるから。とげは常に、いかなるものにも刺さっていて、自分に1番刺さっています。この人は、どんなものも詩にできる人だ、と思いました。そして言葉が巧みで、それを遠くから見られる技術もあります。本当の詩人というのは、この作者さんのようなことをいうのだと思います。

佳作集Ⅰ

『夾竹桃の花』吉岡幸一
詩と物語を両立することが出来るのか、というのはずっと考え続けているテーマなのですが、作者さんは成し遂げています。すごすぎる。

夾竹桃はきょうちくとうと読みます。赤や白の花で、路肩によく植えられているあれです。ひどい環境にも強く、そして詩の中にあるように、強い毒もあるみたいです。
<放射能に侵されたあの街で、真っ先に花を咲かせたという夾竹桃は>この詩の核はここにあります。原爆が落ちた広島、放射能に侵され、70年間草木も生えないだろうと言われていたその地で、最初に生えたのがこの夾竹桃なんです。この詩は、一貫してこのことをテーマに書かれています。
私が最初に気になったのは、漢字です。<出ていった><みえた>など、主人公の行動には漢字があまり使われません。なのに、夾竹桃は、主人公の日記を<見くだし>ます。ここに意図があるのでしょうか。
これは、あくまで主人公は夾竹桃なのだ、と言いたいのではないかと思います。ドアを叩く人。語り主。両者は添えものに過ぎず、姿かたちが描かれません。夾竹桃にピントを合わせたい。のだけれど、詩という性質上、誰かに語られなければならない。だから仕方なく登場させたのではないか、と思いました。
で、もう少し進みます。その誰かが置いていった夾竹桃。最初は白、そして無、最後に赤です。<花を眺めていると、失った家族や友人の薄い姿が思い浮かんできた>このあと、またドアは叩かれ、開くと、夾竹桃は置かれていなかったんです。舞台は八月。日記を見くだす夾竹桃。忘れるなよ、と言いたいのでしょう。平和でくだらない主人公の日記を、夾竹桃は見くださずにいられなかった。だから夾竹桃を眺め、色々な姿が思い浮かんだ主人公に夾竹桃は来なかった。
最後。<まっ赤な夾竹桃を書きかけの日記に挟んで、栞替わりにすると、/食卓に飾ったまっ白な夾竹桃が突如燃えだし、まっ白な灰になった>屈辱とも取れます。悲惨な戦争以後、希望の花だと言われた夾竹桃が、平和な、八月の日記の栞になってしまう。しかし、まっ赤な夾竹桃は栞のままなんですよね。見くだしていた白い方は灰になったけれど。これはまた、祝福ともとれる気がしていて。人々に忘れられ、路肩にひっそりと咲くようになった夾竹桃が、日記の栞になっている。そのことを、まっ赤な夾竹桃は喜んだのかもしれません。忘れられてはいけないのですが、栞になれるような、希望なんて呼ばれないような世界の方がいいに決まっているのですから。
文章の美しさ、文学的表現が多々あり、でありながらメッセージ性があり、いろんな風に読み取れます。この少ない文字数で、これは会心の詩です。が、そんなことは関係なく、ただ、書かなければならないのだ、という作者さんの切実さもひしひしと感じられます。

佳作集Ⅱ

『母』矢代レイ
すごくいいです。しあわせな気持ちになれました。

タイトルが母です。主人公にとって、母とはつまり丘なんですよね。
この詩の異質は、70年後のことも書かれていることです。そして、高齢の母のそれを、<昔のままに/おだやかな/日なたの匂い>と表現してしまう。垂れて皺も増えているはずなのに。これは、主人公の母への愛情を示しているのでしょうか。70年経っても変わらず母が好きで、そしてその感触を覚えています。
すごくおだやかで、幸せな詩。だからこそ、底知れぬ狂気も感じてしまったりするのですが、きっとちがいますね。ただただ幸せな詩です。
主人公、一人称が「私」ですが、男性でしょうか、女性でしょうか。それによって結構、意味あいが変わってくる気がします。男性の場合、そんなに客観的に、丘を描写するのは難しいと思うんですよね。男性にとって丘は、すなわち異性を意味するから。その愛と母の愛とはどうしても結びつかないところがあります。きっと主人公は、女性なのではないか。ただただ母が、丘が好きな女性。しかし、よく覚えているものですね。私はまったく覚えていません。結構みんな覚えているものなのかな。しあわせな気分になるものって、陳腐になりがちなのですが、描写がいきいきしていて新鮮でした。


『続・射精殺人狂時代』にしかわましゅう
『殺人狂時代』というチャップリンの映画があるらしく、アマゾンプライムでレンタルして観てみました(えらいだろう、えっへん)。すごく面白い映画で、有名な「1人を殺せば悪人で、100万人を殺せば英雄だ」というセリフの元だったことも知れました。

ここから、『殺人狂時代』のほとんどの中身を書いてしまうので、観たい方は観てからの方がいいと思います。『殺人狂時代』を観ていることを前提に書いていきます。
これ、さらっと書かれてますが、超人男と巨人は親子なんですね。でありながら、超人男の心情はまったく描かれません。どうして世界を救わなくなったのか。どうしてセックスの描写を挟んできたのか。ここで、どう考えてもセックスは必要ないわけです。テレビで巨人を見かけたのでいいんです。でも、ここに入れてきた。それは、最後に繋がります。<超人男は政府に捕えられ/パイプカット手術を施された/すると超人男の力が失われた/超人男はただの男になった>パイプカットされてなお、ただの男になるに留まる超人男はすごいです。
性欲が、超人男を超人たらしめていたのではないか。そこが、『殺人狂時代』との違いです。ヴェルドゥは性欲で動いていたわけではありませんでした。愛があった。愛によっての行動。性欲は二の次三の次でした。この対比。
また、似ている点もあります。それは、「俺じゃなきゃいけないんだ」ということ。モナとピーターを救えるのはヴェルドゥしかいなかったし(少なくとも、ヴェルドゥの身になれば誰でもそう思います)、巨人から世界を救えるのは超人男だけです。ここがすごく似ている。ヒーローのヒーローたる所以。そして両者ともに、どんなことをしてもそれを守ろうとします。そしてその手段が罪であり、悪であらざるを得ない原因が、政府である点も同じです。単純な発想の飛躍だけではここまで繋げられませんが、緻密に練って得た構想とも思えない勢いがある。この、細く強い糸は、まさしく天から授けられた作者さんの才能でしょう。数多の作品を観てきたという軸があってこそ、なのももちろんあるのでしょうが。
戻ります。<醜い巨人は政府機関に接収された胎児瓶から生まれた怪物だった/母親を救うことのできなかった超人男と/母親を死に追いやった世間を抹殺しに>ここ。ここが読みづらいというか、ちょっと理解しづらい点です。「続」とついているし、<覚書の続き>としている点から、この前日譚があるのは確実です。そういう体で、「何かの続き」という体でやるにしては少し不親切にすぎる。なので、憶測になってしまい怖いのですが。巨人の父親は超人男なんですよね。それはここで書かれています。母親はどこに行ったのか?殺されています。世間によって。<政府機関に接収された胎児瓶から生まれた怪物だった>超人男とその妻は、子どもが出来ました。でも、その胎児は瓶に入れられ接収されてしまった。これは政府が、超人男を恐れたからではないでしょうか。こんな恐ろしい力を持った男に子どもまで生まれたのでは、いまはおとなしい超人男も、いずれ世界を手中に収めてしまうのではないか。どんな軍隊も敵わない巨人さえ倒してしまうのですから、その恐れは当然です。超人男がその気になれば、誰も勝てないのですから。大人しい巨人がずっと街にいるのと同じ。で、難癖をつけて妻を殺してしまった。でも、「続」の方でもセックスしているので、この妻も強大な力を持った人だったのかもしれません。何にしろ、この1件から超人男は世界を救わなくなってしまったのでしょう。
すみません、妄想が長くなりました。何が言いたかったのかというと、これ、作者さんは、妻の描写はともかく、親子対決させたかったのではないか、ということ。こんなに強い超人男には、誰も敵わない。最後の敵として、自身の子ども。同じくらい強くても筋に合います。なぜ親子対決させたかったのかというと、超人男を、政府に抵抗できないくらい傷つけたかったから。超人男を捕らえさせたかったから。もしかすると、巨人さえ政府によって、あえて解放され使われたのかもしれない。超人男を何とかするために。
そして、超人男は普通の男になりました。このあたりに抵抗が見えないのも、『殺人狂時代』と同じです。自らの過ち。それは、何より、力があったことです。強さの罪。ヴェルドゥにもとんでもない才能があった。あってしまった。このあたりのどうにもならなさの描き方が抜群です。最後のセリフも相まって、この筋道でしか成せない物語が、感情を揺さぶります。いやあ、前日譚が読みたい。

佳作集Ⅲ

『予感』豊田真伸
静かな詩です。そして暗い。けれど、感じるものはそれだけではありません。

ああ、この感情。分かりました。美しい絵を観たときの感情です。すっごく気持ちいい。あたたかく、自分の心臓も濡れた気になります。ずっと優しいオルガンで弾かれた曲が流れている。
これ、なぜそうなるかというと、主人公の感情がほとんど描かれていないんですね。だから、ものすごく移入しやすい。この街を歩いている気にさせてくれます。<バスを降りて駅へ向かう広い歩道橋/耳元で歌うアル・グリーンと/優しいオルガンと新しい駅舎を背景/しとしと歩く人々と私>もうこれだけで絵が浮かびますよね。詩のような小説、というのはよくあり、私も大好きなのですが、これは絵画のような詩です。一節一節が絵画です。3次元でなく、2次元的で、でも違和感がない。リアリティがある。
<あんなに晴れていたのに今はもう雨/アスファルトが濡れているよ>ここが、タイトルと結びつくのでしょう。予感。でも、どういう予感なのか。この主人公はどういう人生を歩んできて、これからどういう生活を営んでゆくのか。ほとんどすべてが想像に委ねられています。そして、それがいい。この空白ぐあい、描かなさすぎず、でもほとんど描かれていない。これがすごくいいです。ため息が出ます。何度も何度も読みたい。


『せかせか食べる』夢沢那智
時事や政治に絡む詩は、取り上げないようにしています。信条は人によってまちまちだし、考察のしがいもないから。けれどこの詩は、ちがいます。人を描いている。

<もう空襲はないのに/横取りする子はいないのに>ここが沁みました。この2行。詩でしか描けないでしょう。主人公は母がすごく好きなのでしょう。文体から滲み出ています。戦争の悲惨さを可愛らしいお母さんで表現している。のでなく、可愛らしいお母さんを、戦争で表現しています。あくまで、主体はせかせか食べるお母さん。それは最後にも現れています。
<母は元気でいるだろうか/ちゃんと食べているだろうか/この危うい平和の中で/いまも好きなものから先に/せかせか食べているのだろうか>すごくいいなあ。詩独特の雰囲気。だけども独りよがりでなく、読者に分かりやすいように工夫されています。読者を置いてけぼりしない。安心して読めます。同時に、文学的でもあり。作者さんは、詩にすごく向いているのでしょう。詩も、作者さんのことが大好きだと思います。


『青いドレス』でおひでお
これはすごい。美しいなんてものじゃないです。狂気を含んでいて、また、空白がある。

これ、描写、さらっと書いているけれど、めちゃくちゃ難しいと思います。このほどよい緊張感。張り詰めすぎると現実から離れ、ファンタジーに寄ってしまいます。けれど、たぶんそれは作者さんの意図するところではない。あくまで地は現実に着けておきたい。でありながら、不可思議な現象を描きたい。それが両立してしまっています。
<何度目かの方向転換のあと私の目に入ったドレスは/いや、目に飛び込んできたのは青いドレスを纏った女性であった/しかも今度はよりによって後ろ姿/私に見えたのは一瞬覗く彼女の頬だけだった/そのまま彼女は港の奥へと永遠に消え去った>こういうもの、読者のハードルはすごく上がるわけです。この青いドレスは何なのか。主人公はどうなるのか。それを作者さんは知ってか知らずか、あっさりと正体を明かします。これ、明かさないでも成り立つんですよね。そっちの方がかっこいいかなって、書いている側としては思ってしまう。けれど、そういうことじゃないんです。きっと。作者さんの中にははっきりとしたイメージがあり、この景色が見えているんですよね。だから、それをただ描写しているだけ。そんな雰囲気を感じます。だから読者も圧倒されてしまう。その美しさに。まっすぐ輝く美しさがあります。
訳が分かりません。主人公も読者も、呆然としている。一体なにが言いたいのか、なにが描きたかったのか。それがすごくいいんです。<どんな空や海よりも鮮やかなドレスの青だけが目に焼き付いている>ここなんです。この美しさをどれだけ美しく出来るか、読者に感じさせられるのか、ということ。それ以外は全部不要であり、ありながら、全部必要なんです。これがすべてで、これ以外がすべてなのではないか。
ものすごく美しい詩です。また、その試みが成功しているのがすごい。とんでもない時間と体力を費やして書かれたものなのではないでしょうか。作者さんの胸のうちに入って、たくさんある美しい景色を見てみたい。

おわりに

はじめにで書いたものの続きなのですが、感想を書く人ってたくさんいますね。私の知っているだけでも、たくさんいて、その人によって取り上げる詩や視点がまったく違います。面白いなあって思います。私は私にできることしかできないし、感謝してもらえれば、すごく頑張れてしまうタイプなので、この記事もまだ終わらないのだろうな、と思います。とりあえず2022年から出たいですね。

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