ブログ それからの詩、あるいはマイナーであるということ

マスカルチャーが群雄割拠している時代である。YouTube、Netflix、Twitter、TikTokのみならず、漫画や小説、音楽、ゲーム、すべてスマホに詰めこむことが出来て、いつでもどこでも楽しめるので人が集まり、人が集まるので金も稼げる。金を稼げるのでまた人が集まる。
この文章を読んでいる人の多くが、詩をもっと広めたいと思っているだろう。僕もそのうちの1人だ。しかし、金なしに社会には広がらない。人は集まらない。自分でも書いていて不愉快だが、おそらくこれは事実だ。
で。金が付いたコンテンツの行き先は古今東西唯一つ、パターン化である。こういうタイトルの、こういう見た目の、こういう設定のものが人目についた。売れた。それを見た者が真似をする。売れる……。人気YouTuberの動画、バズるTwitter構文、エロとグロが入り混じった漫画。金になるコンテンツは骨組みが可視化され、既に多様性など無くなってしまっている。現に小説でさえ、そうなりつつある。売れるのは推理小説、恋愛小説。要は、テレビドラマの原作になりやすいもの。この2種類しかない。だから書き手たちはそこに群がる。根っからそれを書くのが好きなら何も言うことはないが、明らかに商売に走っている作家の方が多い。ほとんどは出版社に唆されているのだろうが。文学は古典。太宰や漱石がいまだに売り上げのトップに君臨している。そもそも本が売れないので出版社も余裕がないため、このままでは文学が廃れてしまうということを分かっていながら、先人の糞を食べてでも、なんとか生きながらえることに躍起になっている。
広まってしまった、それからの詩のことを、最近よく考える。詩もまた、その途をかわすことは出来ないだろう。書きたい詩はどんどん読まれなくなってゆくだろう。読みたい詩は書かれなくなってゆくだろう。そしてその時、多様性の象徴のようなココア共和国は、漫画誌『ガロ』のような、文芸誌『海』のような果てに行きついてしまうのか、もしくは異端として永く栄え続けるのか。というところまで踏まえ、私はそう安易に詩の発展を願うことが出来ないのである。


上はココア共和国に招待エッセイを依頼されたときに向けて(招待されていないのに)、勝手に書いたものです。2年くらい前かなあ。変な奴ですよね。痛い奴です。
実際に依頼されたときは新しく書き(その時ことぶき名義ではなくなっていた)、これは没にしてしまった。大人になったんですね。ちょっと固有名詞が多いし、偏屈だし、尖りすぎている。でもずっと頭の片隅にあるものなので、ここに出しておきます。自分で読み返しやすいし。

これを思いついたのは、落語からなんです。僕は立川談志を尊敬しているのだけれど、彼の幼かったころでさえ(彼は第二次世界大戦の最中に少年時代を過ごした)、落語は若者に聴かれていなかった。
で、立川談志は、「伝統を現代に」を目標に掲げ、江戸時代の噺を昭和、平成へと伝えていったんです。僕も、彼がいなければ落語なんて聴かなかった。
彼はあらゆるものに、常に自己矛盾を孕んでいる人でした。自ら掲げ、まさしく実行させた「伝統を現代に」にさえ、葛藤していた。彼の自宅で、仲間と話している音源がCDになっていました。
そこで流しているのは(たぶん)彼の少年時代の落語。浪曲。「こんなの聴いてるやつなんて私くらいのもんでしたよ」と談志は言います。
「でもそれがいいんです。青臭いガキは、『クラスでもこれを知っているのは俺だけだ、俺だからこの面白さが分かるんだ』と勘違いさせる、それが文化というものでね」
……何となくですが、こんなことを言っていました。これは「伝統を現代に」と矛盾していますよね。そして、どちらの気持ちもとってもよく分かる。

詩(はたまた文学)も落語も僕は大好きなのだけれど、やたら「広めたい」とするのはどうなのだろう?という疑問はここから生まれたんです。広げた先になにが待っているのか。もちろん上記のようなことが起こるとは限らないし、好きなことでご飯を食べられる人が増えるのは多くの人の望むところでしょう。それでYouTube化しても、それのなにが悪いの?と言われれば閉口する他ないのですが。
けれどそれは、文化を壊す行為にもなっているのではないか……。難しい。何でもかんでも文句をつけたがる性分なので、勝手に疑問を抱いては勝手に悩んでいます。みなさんどう思いますか。

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