ココア共和国2020年7月号雑記

傑作集Ⅰ

『バス停H』104hero
ちょっと衝撃的な詩です。ある種の発明ではないでしょうか。これ、誰かのものを踏襲しているんでしょうか。

言うまでもないのですが、()がとても魅力的です。が、疑問は残ります。タイトルを『バス停H』にした理由。詩の中にバス停は出てきますが、Hという名は出てきません。どうしてHにしたのか?そして、ボクはなぜ、タイヤをなくしたバスを待っているのか。ほかにも挙げればキリがありませんが、この不完全な詩ーーもちろん作者さんは、あえてそうしているのですがーーを、()が補助してくれています。でも補助になっていない。むしろ複雑にしています。不条理に不条理な言い訳が続く、でも、だからこの詩は完成しています。()がなければ、面白くないわけではないですが、読者は置いてけぼりにされすぎて離れてしまうかもしれない。リズムもまた、()によって完成されます。これ、すごいなあ。専売特許として続けても面白くあり続けそうです。1行1行が輝いています。ちょっと、私にはまだ遠く敵わないオーラを纏っています。


『少女の右眼』稲山晃輔
ココア共和国を買ったのは、この号が初めてだったのですが、この詩はすごく印象に残っています。衝撃を受けました。

「せいがん」は、青眼でしょうか。誓願、晴眼、星願、清眼、このあたりしか予測変換には出てきません。ひらがなにしているということは、多様な変換を提案しているからでしょうか。死にそうな少女は、せいがんがあるから死にません。「そう言うけどあなたはあと/どれほど生きる予定で/いま生きているの/ひとはいつ死ぬかわからない/いまあなたが/そうおっしゃったでしょうに」これが作者さんの言いたいことでしょうか。これを生み出すために、主人公は右眼を齧らなければならなかった。ここが興味深いです。物語的詩の独特たる所以。主人公も少女もかなり狂っていますが、そんなふたりの交わす会話が真っ当です。読者はハッと気づかされる。複雑な描写がないのに、すごく生々しく、どろりとした雰囲気が伝わってきます。こういう終わり方もあるのか。勉強になります。

傑作集Ⅱ

『そして感情の扉を』片野翠子
ただひたすらに美しいです。自然の荘厳、なのに、人間が、可愛らしさが、残酷がちらりと覗いてくるので飽きさせません。

美しさはずっと続き、しっかりと余韻を残してくれます。ここでは分かりにくいかもしれませんが、「。」がつけられた1行が、前後を区切るように置かれています。そしてそれらは、すべて部屋についてのものです。それ以外はあなたについてのものです。あなたは誰なのでしょう。主人公は、あなたに依存しているようですが、恋なのかどうか明記されません。 <あなたの部屋はよく整頓されてホコリが積もってる。><わたしのこの部屋にたったひとりであなたがいる。>これ、最初と最後です。あなたの部屋に入りこんできて、わたしのこの部屋で終わる。私は、この詩、詩についての詩ではないかと思いました。読書についての詩。<あなたがめをとじてはじめて/カーテンをひらく 瞬間 海が/とんできて啼いた/ぴゅるぴゅると すべてのポケットから>そう考えると、この一節はすごいです。読者の部屋を出現させ、息つく間もなく海風をなびかせる。そして、<この部屋には出口がないようで入口はある。>入ってしまったら出られません。作者と読者の関係、読む側と読まれる側の関係。『そして感情の扉を』というタイトルが本編とはあまり関係がないのも、そのためでしょうか。爽やかで涼しくて、明るくて、なのに毒がある。こんなもの、どうやって作れるのでしょうか。別次元です。


『鳴る』うざとなおこ
私にはまったく無い感性の詩です。だから本当にあこがれます。迫力がすごいし、詩への愛も感じられます。

鳴り響く打楽器についての詩ではありません。初めの迫力がとにかくすごくて、だからこそ、<しーんと鳴る>からはじまるここが印象的です。<君も心のお散歩ですか/にゃ風>孤独は、どうやっても冷たく暗く感じられてしまいがちですが、この詩があたたかいのはこのあたりのオリジナリティでしょうか。思わず微笑んでしまいます。いつまでも浸っていたい。<優しく鳴る/やわらかな鼓動/トントントン/タンタンタン>騒がしい濁音の都会を否定しているんでもないんです。しずかなみずうみでも音は鳴っています。無音の場所はありません、猫もいます。でもすごく心地いい。『鳴る』というシンプルなタイトルも趣深いです。


『もの言わぬ昨日』麻生有里
現代の詩、という雰囲気を感じました。さまざまな古典のうえに成っている詩。自然を愛する、自然について語る詩はどこかむず痒くなるのですが、この詩はゆっくりと正直に語ってくれます。

風だけをテーマに、ここまで文字に起こせてしまう。それだけですごいです。そして、風はかたちをもちません。だからこそ、主人公が出現せざるを得ない。<音のためにあるのだと思っていた/けれど、けれど。><本当は音のためではなかったのだ/きっと、きっと。>はじまりとおわり、この詩の終着点です。どうしてこうなったのか、じゃあ何の行いなのか。<あのひと>もまた、この詩のキーワードです。風は、風通しよい心地のためのものです。通過するためのものです。<気づいて辿ってそして静まる>それが風です。あんまりこういうことは言わないのですが……沁みます。誰もが描いてみたいと思いながら、描けなかった風を、見事に感じさせてくれます。

傑作集Ⅲ

『わたしのあまい果実』丸山こと葉
詩に哲学をまぜこむのは、わりあい難しいです。エッセイというか、自分の考えを入れすぎてしまいかねない。この詩は哲学のなかでもかなり踏み入れたものを、鮮やかに詩にしています。

この詩は前半と後半に分けられます。後半では果実が主となります。果実は、子守歌のあとで出てきます。そして、<わたし以外のひとが育てた>ものです。これは様々な受け取り方があるでしょう。恋かもしれませんし、父母への思いかもしれませんし、自意識かもしれません。どれでもありますし、どれでもない。答えは読者にあるでしょう。そのことを作者さんも知っているのでしょうか。<いつしかとけて 果実酒になった/澄んだ層と にごった澱/にがく やさしく むずかしい味>このあたりが秀逸です。読者に解釈を委ねてくれている。それがとても心地いいです。父母との出会い、まじわり、あたたかさから、芯の部分への移行がスムーズで違和感がないです。ううん。詩ですね。勉強になります。


『月を食べる』伊藤さほ
この頃のココア共和国は作者さんの年齢を記していないので明言はできないのですが、幼い子の詩、の雰囲気を帯びた、様々な経験をした大人の詩なのではないでしょうか。だから最後の1行に胸を打たれます。

「遠くに行った」というのがいいです。死んでしまったのか、距離的に遠いのか、明言しません。こんな別れの詩もあるのか。詩は、無邪気な少年のような声から、静かにトーンダウンし、最後はゆっくりと私に語ってくれました。この詩は、はじめ、別れをテーマにしていなかったと思うんです。「あの子」は詩に入りこむはずじゃなかったのではないかと。なぜなら、<君を明るく照らしてあげる>から、主人公には「君」がいることをはじめに示唆しているからです。「君」を出現させると、「あの子」との関係がややこしくなってしまう。やさしくて無邪気な詩を書こうと試みた作者さんでしたが、月はあの子に着地させました。


『刃物の詩』 林やは
最近のこの記事の構成として、短評、引用、考察の3段に分けているのですが、 ちょっと短評は控えさせてください。とても短くまとめられないし、感想なんて言えないです。

登場するのは三者です。ぼく、きみ、ひと。この詩は8行の文章に成っていて、そのうちの3行目と4行目<波うっていた、ものが、溢れていくのは、うちゅうが、流星群を吐き出してしまうことと、似ている。あのときの、きみとぼくは、消滅したも同然で、どこかで、ことばには、なるかもしれないけれど、そのことばすら、愛なのか、わからない。>それと7行目<(これは、いまとなっては、ひとの糖度とともに、たんじゅんな、こと。)>ここだけが異端です。そのほかは、ぼくときみ、あるいは、ぼくとひと、の関係をあらわしています。たとえば、<からだに、染みついている、あまみが、ぼくだけの膜で、ひとを、窒息させていく。>ここは、ぼくとひと。<やさしい、こえの、ぼくのくちびるは、ひとりでに、ささやいて、心臓を、かんかくにしていると、きみが、はじけて、満ちてしまった。>ここは、ぼくときみです。
ぼくは、自分の意志と関係なく、ひとを、きみを傷つけてしまう。だからーー詩のなかには1度も出てきませんがーータイトルを刃物としている。というわけではなく、刃物は、きみの方でしょう。ぼくの「からだに染みついているあまみ」は「ひとを窒息」させ、「やさしいこえのぼくのくちびる」は「きみをはじけて満ちて」しまい、「高熱の、とても光っているぼく」は「きみを灰化」させてしまいます。
異端の3行について。<波うっていた、ものが、溢れていくのは、うちゅうが、流星群を吐き出してしまうことと、似ている。あのときの、きみとぼくは、消滅したも同然で、どこかで、ことばには、なるかもしれないけれど、そのことばすら、愛なのか、わからない。>「きみとぼく」としているのはここだけです。教えてほしいのだよ、というほどに、危ういきみですが、ここでは一緒にいます。1行目と最後の行に出てくる「膜」これはかなり重要なことばです。ぼくのくちびるがひとりでにささやいたことで、きみは、はじけて満ちてしまいました。波打ち、溢れる。宇宙が流星群を吐き出すように。くちびる。キスって、精神的にとても重要なもので、身体を許せても心を許せていないと出来ないものです。ひとりでに「きみ」を拒否してしまった「ぼく」の精神の限界は、きみの膜を波打ち、溢れさせてしまいました。はじける、は消滅と繋がっている気がします。
もうひとつの異端の行。<(これは、いまとなっては、ひとの糖度とともに、たんじゅんな、こと。)>これは7行目なのですが、1行目。<からだに、染みついている、あまみが、ぼくだけの膜で、ひとを、窒息させていく。>あまみと糖度で繋がっています。では、<これ>は何を指すのか。短絡的ですが、前行を引っ張ってきます。<いつしか高熱の、ぼくは、とても、光っていて、きみを灰化させて、そんなの、果てに、滅びてほしい。>何ものをも寄せつけない「ぼく」は、ゆるやかにひとを溶かし、高熱になり、光り、ついに「きみ」を灰化させています。<そんなの、果てに、滅びてほしい>が<これ>と繋がるでしょうか。あまみはぼくだけの膜で、ひとを窒息させるものでしたが、「きみ」を灰化させることで滅び、いまとなっては、ひとの糖度のように単純なものになりました。それは、ぼくが、ひとのように単純になったこともあらわしています。
そして最後。<きみに、どんなに、やさしくふれても、膜が破れることはなくて、鋭利で、ぼくは、かたまり。>ぼく→きみ、ぼく→ひとだったのが、初めて(文字順だけではありますが)きみ→ぼくになりました。滅び、ひとのように単純になった「ぼく」でしたが、灰化してしまった結晶のように美しい「きみ」は鋭利で、膜に包まれてしまい、かたまりの「ぼく」は孤独をより強め、この詩は終わります。<どんなに、やさしくふれても>がこの切なさというか、不条理さをあらわしています。
ちがうかたちの刃物どうし、かたまりと結晶の詩。どうやったらこんな詩が浮かび、描けてしまうのでしょうか。考察に徹してしまいましたが、一節一節が壮大に美しく、愛に溢れています。

佳作集Ⅰ

『夏のごみ』熊野コエ
全体を纏う雰囲気がとても爽やかで、綺麗です。美しいではなく、綺麗だと思いました。そして、一文一文に力がこめられています。

難しいです。何か明確なものを伝えたいという詩ではありません。抒情詩ではないでしょうか。
1節目は、言葉あそびが目立ちます。いろは、ねいろね、ふたつき、ふたつき、あせをかき、あしをかく。作者さんはこれらを書かずにいられなかった。詩の趣旨とはちがっているのに。興味深いです。
そして、主人公は<このキラキラとした燃えないもの>を箱の中に入れてしまいます。もう色はないけれど、愛おしい。最後の1節がとてつもなく綺麗です。素晴らしい映画の結末に持ってきても違和感がなさそうな。においや風景がーーそれについて、なにひとつ書かれていないのにもかかわらずーー鮮明に浮かびます。爽やかで凛とした、なつかしいにおいのする詩です。


『俊をさがして 20190617』 田村全子
深読みしすぎると、分からなくなってしまう詩です。20190617は、日づけのことでしょう。それを2020年6月に投稿しています。そこもまた。

<はやく/その曲いいね と言わなければ>がすごくいいです。こちらまで熱くなります。主人公は、こころが二十歳で、でも十四歳で、シュンの顔をまっすぐに見たのは、三十六年ぶりです。この数字に惑わされそうになってしまいます……が、ヒントはあります。
<しあわせは/夢と 気づかないことだ/そこでは不思議が当たり前で/半世紀経っても/わたし達は昔のままだ>しあわせは夢と気づかないことだと言っている主人公は、これが夢だと気づいているでしょう。半世紀というのは、50年です。十四歳、三十六年ぶり。いま主人公は50歳なのでしょうか。50歳になっても、シュンの夢をみてしまう、シュンを糧に人生を励ましてきました。1度目は素早い展開に置いていかれてしまいながら郷愁に、ぽつぽつと響く言葉に打たれ、読み直して感傷に浸ることができる詩です。


『川面、束の間』中マキノ
唸ってしまいました。すっごくいいなあ。ぐわあ。詩って何なのか、わかっていませんが、こういう真っ向からの詩にぶつかると、少しずつ分かってくるような気がします。あたたかい芯みたいなところが、ひと端に光り、あるいは全体を包んでいます。

この詩のすごいのは、作者さん自身から生まれていないことです。いや、作者さんからなのですが、この詩の芯は、書いているうちに生まれたものです(きっと)。登場人物は、老婆、赤ん坊、歌の男、上の階の男、主人公です。この、何の関係性もない人々。それらは詩の中で溶け合って混ざります。赤ん坊は人形に、男は鳥にも化けますが、最後には、川になります。
郷愁というのには幼すぎるほどの郷愁。遠い過去、あらゆる人々の赤ん坊のころを老婆の乳が現します。母なる海、という言葉がありますが、私のなかで、川はそれに近いイメージです。すごくよく分かります。自然の美しさ、そして、この詩は、現代ではないように感じました。フィルムが霞んでいる。昭和、私は体験していないのですが、全体を纏う雰囲気がそれを醸し出しています。それは動作がいちいちゆっくりとしているからかもしれません。作者さんから離れてしまった作品の詳細を推測するのがこの記事の大義ではあるのですが、あまりに美しく、壮大なこの詩を汚したくないと思ってしまいましたので、このあたりで止めておきます。また、ちがう記事であげるかもしれません。


『暑くて寒くてせまい部屋』惟村来帆
いわゆる青春を過ごさなかった人の詩です。人はたくさんのものを抱きながら生きていますが、青春を過ごさなかったことを抱きながら生きている人のことを知っています。その人は、ことあるごとにそのことに触れます。制服でのデート、友だちとの悪ぶったあそび。でも、この主人公はすこしだけちがいます。

「ふたり」がキーポイントです。この詩に「もうひとり」を出現させることは、かなり勇気が必要である気がします。完全な孤独を読者と共有できません。が、そこが魅力的です。
暑くて寒くてせまいあの部屋に、主人公ともうひとりはいます。そして、冷たい雨の昼さがりに、1度だけ外に出た。<覚えているかしら>から、もう、もうひとりは近くにいないことを示唆しています。まだその部屋にふたりでいるのなら、唯一の思い出として残っているから。
美しい詩です。もうひとりは、たぶん人ではない。少なくとも、主人公以外の目に留まることはないひとでしょう。主人公だけが知っている、たとえば音楽や、詩や、何か、かたちあるたからものかもしれない。外に出てから、ふたりは何をしたのでしょう。そこを描いてくれません。素材だけ置いて、読者の想像は無限に広がります。

佳作集Ⅱ

『消えた教室』戸田和樹
描いてみたい、と誰しもが思う、でもなぜか描けない光景を、みごとに描いてしまっています。

子どもたちは、卒業していなくなってしまったのでしょう。が、コロナに侵された教室にもみえます。主人公の孤独がよく見えます。それでもくさく感じないのは、熱のこもった愛を見い出せるからでしょう。細部に神が宿っています。独特のことば遣いも魅力的です。


『東京にいる』田中千佳子
都民でない私は、東京へのあこがれがあって、だからこそ東京の詩を書きたいのですが、書けずにいます。作者さんは、東京にいながら、東京を書きました。すごい。

文字だけの作品にも少ないですが、工夫の仕方があります。この詩も工夫されていて、この引用では、この詩の良さが充全に出ていません。ぽつぽつと、つぶやく感じ。改行なのですが、しすぎていなくて、一節のあいだにも空白があったり。それがとても内容と合っています。
こういうこと、あんまり言いたくないのですが、でも、言わずにいられないので言いますが、とても女性を感じました。作者さんのお名前は女性っぽくて、でも作者さんとお会いしたことがないので実際には分からないのですが、ことばの端々に、ならではの感性が伝わりました。
主人公に親近感を抱きました。すごく普通だからかもしれない。普通の人間なんていないのですが、少し毒を持っているところが普通で、そんな主人公が好きです。<本当はね、あの本はわくわく途中まで読んで失速、弱い、/わたしは弱い>これは、おしゃべり相手へのウソの告白でしょうか。<トイレットペーパー替えようとしゃがんで、立てない/みじめで、立てない><でもさ、プラマイゼロにしたいから/日々、ちょっぴり、商店街の入り口で/子のいない人生だなあと、思う>軽い口ぶりで、でも重く響く思いが随所に散りばめられていて、なにより、すごく正直です。主人公は幸福なのではないか、と思います。そしてそのことを主人公も気づいているのではないか。ゆえの怠惰、だらだらとした東京での生活。あこがれだったのかな、上京してきたのかな。それとも、東京の特別さを感じているのかな。じつはあまり描いていない複雑な背景を、気だるいにおいが立ちこめて読者を包みます。


『グミキャンディ』はるのかまぼこ
たぶん、コロナについての詩でしょう。コロナについての詩は、いくつも描かれていますし、ココア共和国にも載っています。直接的な風刺、社会批判が、個人的にあまり得意ではない私は、『グミキャンディ』に惹かれました。

ううん。<2020年の春を>があったから、コロナに結びつけられがちですが、ともすれば、孤独で憂鬱な毎日を描いているのかもしれません。直接的な言葉を使わないメリットは、読者の想像力を掻き立てることにあるでしょう。
<もっちもっち、むっちむっち>がすごくいいです。まっすぐなオノマトペ。これ以外に、このグミキャンディを表せない気がします。味のしない虚しさみたいなものは、ガムに例えられがちですが、作者さんはゼラチンで固め、グミキャンディにしています。可愛らしさと、刺々しい悲しさ、憎しみが印象的です。


『ひる・またはコースターの』ごとうつぐみ
哲学の詩です。作者さんは知らないふりをしているけれど、本当はその道に深い方ではないでしょうか。

分かります。他人には分かりにくい、伝わりづらいということが、すごくよく分かります。どうしてひるの夢から、無自覚を自覚することになるのか。ユングフロイトは、夢について、意識について論じてきた哲学者です。
この詩には、なぞ(ヒント)がふたつあります。<母の声で一階に降り>これがひとつめ。母は、何のために主人公を呼んだのか。この詩のなかで、母に呼ばれた主人公がしたことは、麦茶を飲んだだけです。そしてまた眠ろうとしている。もうひとつは、タイトルにもなっているコースター。<半分以上沈んだ夕陽が グラスの表面の水滴を染める/灯りをつけていない薄暗い台所 水滴は暗赤色流れていく、運んでいく、コースター>コースターって、グラスの下に敷くあれだと思うのですが、前後と合わない、とまでは言いませんが、違和感があります。
母の声がする前行で、主人公は、ひるを眺めています。自分の血を運ぶひる。普通はすぐに引っ張り取るか、あるいは助けを呼ぶはずなのに、主人公は何もしません。夢だとわかっているのだから、起きることも出来たはずなのに。5匹のひるに吸われていたら、命の危険も考えられます。なのに、何もしない。先ほどの引用から。夕陽が染めるグラスの水滴は暗赤色です。これ、血の色を表しているのではないでしょうか。母は、それを主人公に飲ませるために、わざわざ起こした。と考えると、<やけに心臓がドキドキして 眠ることが出来なくて/さっきの冷たい麦茶が、身体の中を流れていく感触を思い出していた>ここにも意味が出てきます。あれは麦茶だったのだろうか。本当に?そして主人公は、当たり前の無自覚を自覚してこの詩は終わります。夢と現実が分からなくなる、ひるの夢なんか見なければ、夕陽も麦茶も暗い台所も何も感じなかったのに。コースターは、血に侵される自らの皮膚のことでしょうか。哲学に親しみやすく触れながら、読者もドキドキさせる詩です。


『こないこない』蘇武家人
ただでさえ掴みづらい詩を、全編ひらがなで惑わします。しかし、読みやすい。ただひらがなを使っていればいいだろう、というような詩とは一線を画しています。

挙措を失う、は取り乱す、みたいな意味らしいです。<ぼく>は、かんがえるべきことを、後回し、あしたにあさってに任せます。すると、どこかで<ぼく>は行き詰まってしまい、ついにおとといが来なくなり、きのうの<ぼく>さえ来なくなってしまいました。きょそをうしなうきょうの<ぼく>。なぜかというと、あしたが来ないからです。あしたが来ないと、きょうの<ぼく>は考えられません。そんな<ぼく>を、きのうの<きみ>は心配し、きょうの<きみ>はあざわらいます。
整理……できているでしょうか。あまり自信はありませんが。主人公は<あしたがこないと/かんがえられない>人です。なぜなら、あしたがあると思っているから。そして、だから、あしたに任せればいいと思っているから。あしたが来ないことなんて想像していないし、あした任せるつもりのことをきょうすることも出来ません。まずここが1点。それから、<きみ>の存在。<きみ>は<ぼく>の中に潜む人でしょうか、それとも恋人か近しい人でしょうか。とりあえず<ぼく>に潜む人だとしておきます。その<きみ>は、<ぼく>をきのうは心配していたのに、きょうはあざわらっています。こないこないときょそをうしなっているのに……。とりあえず置いて、最後。
<きょうのあさって/ぼくは/まちくたびれて/ひとりうたたね>ここで、なんだかすごく安心してしまいました。この<ぼく>、とても愛らしいんですよね。ずっとのんびり、うたたねしていてほしい。たぶん、ハッピーエンドでしょう。私が先ほど<きみ>を<ぼく>の中に潜む人にしたのには、ここに理由があります。<ひとりうたたね>なのです。<ぼく>はずっとひとりなんじゃないかな、と。でないと、ひとりを入れる理由が分かりません。願望も含め、そう思いました。
<きみ>を<ぼく>だとして。なぜ、きょそをうしなっていたきょう、あざわらったのでしょう。これは、明確に答えを出せません。たくさんの答えがあります。ひとつは、<きみ>はこんなことに慣れっこなんじゃないか。それでも、何度きょそをうしなっても何とかあさってにたどり着いた<ぼく>を知っているから、それほどの心配もないのではないか。あるいは、<きみ>は<ぼく>にもっと近い存在で、意図して辛い環境に身を置いていることを知っているのではないか。正確には、はっきりとした意図はないかもしれない。けれど、無意識のうちに、あたふたする自分がたのしい<ぼく>を知っているのではないか。<あざわらう>があまり合わなくて、あるいは他人なのかもしれません。が、それでも、<きみ>の感情としては、それほど遠くないのではないかと思います。<ぼく>にはずっと、こないこないときょそをうしなっていてほしい。そして他人をあざわらったりしないでほしい。こういう人、身近にいるので、少しだけ分かった気になりました。すごく好きです。

佳作集Ⅲ

『寂しい 29年3月』齋藤 進
平成29年のことでしょうか。西暦にすると2017年、この号の3年ほど前のものになります。私はこの詩、誰に見せるためでもない、ごく個人的な詩なのではないかと思いました。

詩らしい詩です。花鳥風月。この詩は、2節に分かれています。<何か物足りない/寂しい日>がターニングポイントで、そこからは主人公の感情をつらつらと述べています。雲、空、山、川。これらさえも主人公を、あたたかく迎えてくれません。ただ素っ気なく、主人公が何をしてもされるがまま。そして、編み物に夢中な雲に顔を埋めた後には、ついに<破綻した空の継ぎ目に/消えてしまいたい>となって終わってしまいます。この詩を書いて、作者さんは救われたでしょうか。花鳥風月にも救われず、孤独に詩を書いているそのさまが浮かんできます。


『砂漠に芽吹く』新里輪
熱い詩です。詩作について、創作についての詩です。ロックで聴きたい。すごくかっこいいし、痛いほど共感もできる詩です。

詩は、往々にして解釈の難しいものです。多様なものです。だから、こう、すうっと刀が入ってしまうというか、腑に落ちてしまうと、訝しんで何度も読み返すのですが、やはりこれは、創作の詩だと思います。
苦しみながら描く詩人の詩。どうしてこうなったのかというと、作者さん自身が、この詩で苦しんだからではないでしょうか。<彼女らの瞳には彼女らしか映らない>から、スピードが落ちている、というか、色が変わったように受け取りました。文字通り、<波に拐かれては白紙に戻る>だったのでしょう。しかしここで、作者さんは手を止めませんでした。<立ち止まれば、/完膚なきまでに崩れ落ちるのだろう>そして、<そう、何度でも砂を抉れ>説得力をもって、苦しみを、熱さを伝えてくれます。とはいえ、砂浜やビーチボール、笑う男女をうまく活かす技術もあります。このとんでもない技術がなければ、この詩は死んでしまっていたかもしれません。心の底から出たことばたちは、くさみがなくて痺れます。この詩、何度も読み返します。


『サヤエンドウ』高橋杜子美
ちょっと唸ってしまいました。そうか。どんでん返しみたいな詩って難しいのですが、作者さんは、静かにひっくり返します。

最後の一文、引用していても緊張しました。張り詰めた糸を切ってしまうような、すごい一文です。調べたのですが、精進揚げというのは、葬式での挨拶のこと?なのでしょうか。この言葉を知らなかったので、余計に驚いてしまいました。棺桶にきっと入れたのでしょう。何ひとつ父について描かれていないのに、何もかも分かった気になってしまいます。タイトルをサヤエンドウにしているのもいいですよね。この詩、ずっと覚えていると思います。

おわりに

2年ほど前のココア共和国を読んでみました。私が初めてこの雑誌を知り、買ってみたものでした。詩なんて読んでこなかった私には当時、衝撃の連続だったのですが、いま読み返しても驚かされることが多かったです。
2年後のココア共和国とは、どうみても毛色が違いますね。取り上げさせて頂いた詩も、ふだんよりも少なかったんじゃないかなと思います。なんだろう、考察しにくいというか、私の介入の余地がない、隙のない詩が多かった気がします。このまま現在も続いていたなら、私はこの記事を始めていなかったと思います。それくらい辛かった。普段より、体力も時間も使いました。また、気が向けばやりたいと思います。少しでも読んで頂いた方、ありがとうございました。

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