掌編 『火を点ける』

煙草……ガキのころ、おれにはたくさん親戚がいて、どうしてかみんな煙草を吸ってた。おれは何よりクリスマスを楽しみにしていた。みんなが集まるのもあるが、従姉妹の姉ちゃんと会えるのは、クリスマスだけだったから。
姉ちゃんはーー名前はすっかり忘れてしまったーー醜いおんなだった。にきびやそばかすだらけで口の端は汚れていて、糸みたいに細い目に目やにをつけて、鼻はひん曲がり唇は腫れ、いつもよれたタンクトップを着てほつれた短パンを履き、身体は痩せすぎていた。いつだったか、4歳の姪っ子よりも脚が細いのに気づいてみんなで驚いたことがある。無愛想でひとことも口をきかなかったが、その親とは仲良さげで、よく飯を食っていたので子どもながら安心していた覚えがある。
諸君は分からないかもしれないが、ひとくちに煙草と言ってもさまざまあって、それぞれ味が、においがまったく違うのだ。おれは煙草を吸いたくて吸いたくて仕方なかったが、目も歯も髪もないばあさん(こいつが1番ヘビースモーカーだった)がきつく叱るので、1度も吸わせてもらえなかった。
だから代わりに、火を点けて回った。例のばあさんのも毎度点けてやったので、それには何も言えないようだった。火を点ける……じいさんばあさんたちが勢いよく吸う。ジリジリジリ。心音のような音ーー諸君、この音さえ、煙草によって違うのだーー美しい煙が先からほとばしる。肺に染み出し、めいっぱい吸われ、それでも吸いきられなかった、ホコリのような煙が空をさまよう。「ありがとう」と優しい声がする。あれは数十年経って気づいたのだけれど、料理をふるまうのと同じだった、自分が作ってやったような気になってたんだな、たぶん。
誰かひとりのをやるわけにもいかない。誰かひとりの火を点けたら、全員のを点けなければならないんだ。なぜか感じる後ろめたさを振りきるため、言い訳のようにそれを胸の内で繰り返しながら姉ちゃんのもとに向かった。それはその場にいた親戚連中がみんな死んでしまったいまもおれの大きな命題になっている。誰かひとりのをやるわけにもいかない。誰かひとりの火を点けたら、全員のを点けなければならないんだ。
みんなおれが点けるのを待っていてくれるのに、姉ちゃんは勝手に点けてしまうので、整理のつかないまま向かわなければならなかった。
どうしてこんなに緊張しなければならないのか?もっと綺麗なおんな、たとえば従姉妹の母親、つまり親父の妹なんかの方が優しく、愛想よく、眼鏡の度のきつすぎることをべつにすれば、あきらかに美人だった。姉ちゃんのそのタンクトップのおかげで(おかげ?)、おれ達はその気になればいつだって水風船みたいにいびつな乳房や、まずいミルクチョコレートみたいな色した乳首を見ることができた。彼女の母親は胸もとがちょっと乱れたりする度にそのごつごつした太ももをピシャリと叩いたが、何のことか分からないとでも言いたげに首をかしげていた。
姉ちゃんの煙草はその脚と似て細く、茶色がかっていた。姉ちゃんが軽くしか吸わないからか煙草の性質かは分からないが、ジリジリ音はしない。ただ、その煙のにおいがたまらなく好きだった。どんな煙草のにおいも好きだが、こいつだけは別格だった。姉ちゃんはいつもジップロックに大量のそれを詰めこんでいたからいまだに名前が分からないのだけれど、ほかの奴らのと違ってあきらかに異質なにおいがした。異国のにおい、外国人とすれ違ったときのようなにおいがするのだった。

その年のクリスマスは特別だった。おれが10歳になる年だったからだ。「これで年齢が一桁のクソガキはいなくなるわけだ」じいちゃんの兄が、みんなが揃った途端、ビールで赤らめた顔を真っ赤にして宣言した。前々から、こいつはどうやらうちの家系で1番偉いらしい、とおれは何となく勘づいていたが、その時のみんなは異様な雰囲気だった。じいちゃんとその弟は共に嬉しそうにし、従姉妹の父親もはにかんでいたが、ばあちゃんや例の綺麗な従姉妹の母親、それからおれの両親は一瞬、難しそうな顔をしたのを見逃さなかった。
おれはというと、何のことか分からないまま、へらへらとライターを点けたり消したりしていた(ライターに触れさせてもらえるのはクリスマスだけだった)。
ピザやらチキンやら酒やらコーラやらを各々腹に入れ、いつものように祖父の兄が煙草を手にとった。飯の中盤あたりから奴の動向をチェックしていたおれは(最初に煙草を吸うのは奴からだというのも暗黙の了解のようだった)、待ってましたとばかりに立ち上がると、全身が震えた。
親父がおれの名前を叫んだのだ。呼んだのではなく、親父はおれの名前を叫んでいた。寡黙で大人しい親父の初めての怒声に、おれは意味も分からないまま震えていると、奴はにやつきながら煙草に火を点けてしまった。と、奴に目配せされた姉ちゃんが立ち上がり、おれの手を引いて外に連れ出したのだ。
どこだったかよく覚えていない。どれくらい歩いたのか。近かったかもしれない、遠かったかもしれない、おれは震える足をなんとか抑えながら、姉ちゃんの小さく、がさついて、骨ばったあたたかい手のことばかり考えるようにしていた。「これでクソガキはいなくなるわけだ」と奴は言った。
気がつけばおれ達はひとけのない森林にいた。姉ちゃんの息が荒く、長時間吸っていないはずなのにあの煙草のにおいがしたので、興奮していたおれは少し落ち着いた。森は蛙の声が渦巻いていた。おれはこんなにたくさんの蛙の声を聞いたのは初めてだった。蛙の声以外なにも聞こえなかった。今日はクリスマスだ、とおれは思った。
「脱いで」と姉ちゃんは荒れた息を整えることもままならないまま、唾を飲みこんで言った。そしていまにも折れそうな細い腕で、同じく細い足の先に触れ、姉ちゃんは靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。
おれは呆然としていた。何のことか分からなかった。木のにおいがした。煙草のにおいはもうしなくなっていた。地面は先日の雨でふかふかに湿った土と、煌々とにおいを発している葉で覆われていた。姉ちゃんはまた何か言ったが、数メートル先にいる毛虫を見ていたので聞こえなかった。
「なに?」とおれは言った。本当に何のことか分からなかった。姉ちゃんは苛立たしげにこちらに来ると、おれの顔を叩いた。ぴしゃりと音が聞こえたが、痛みはなかった。おれは何が何だか分からなくて泣きたくなったが、姉ちゃんが目に涙を浮かべているのに気づき、何とか抑えた。
どれくらい見つめあっていたか分からない、おれは自分に腹が立ってきた。何で分からないんだよ。でも分からなかった。いったい何だっていうんだ?おれが何をしたんだ?おれはクリスマスに、みんなとチキンを食べてた。おれは今すぐにでも泣き出したかったが、泣き出すと置いて行かれそうな気がしたんだな、じっとこらえていると、姉ちゃんが自分の首もとにおれの親指と人差し指をやった。さっきまで握っていた姉ちゃんの手、おれの顔を叩いた手……おれは姉ちゃんの首をすこしだけつねった。蝶に蜜を吸われる花のように、姉ちゃんは目をつぶり、それに従った。が、すぐに手を離させ、代わりにおれに抱きついた。おれは初めて誰かに抱かれるという経験をした。それが記憶にあるなかで、初めてひとに抱かれた瞬間だった。姉ちゃんの荒れて乾いたすこし長すぎる髪からはやはり煙草のにおいがした。
おれはもう何にも抗うことができなかった。おれに抗えるものなんて何ひとつないんじゃないか、と思った。姉ちゃんを励ますつもりだったのか、どうしていいか分からず、背中をぽんぽんと叩いていてると、姉ちゃんはすっと立離れてきびすをかえし、森の奥へ行ってしまった。おれは靴を履いたままだった。脱いだ方がいいのだろうか、靴を脱がないとまた姉ちゃんはおれをぶつだろうか、おれが煙草に火を点けるのをそんなに恨んでいたのか、誰かにひどいことをされた、そのあてつけなのだろうか、様々なことを突っ立ったまま考えていると、姉ちゃんは蛙を持って帰ってきた。蛙はこちらに背を向け、左足だけ姉ちゃんに持たれていた。姉ちゃんはおれの前に来ると、慣れた様子で蛙の手足を尻のポケットから取り出したヘアゴムで縛り、一文字にしておれの前に放った。仲間を呼んでいるのだろうか、蛙は聞いたことのない声で鳴いていた。低く、うなるような声。
「ひっくり返して」と姉ちゃんは言った。おれはそのとき初めて蛙を見た。蛙はとてもおぞましかった。世の中にこんなに不気味で不快な動物はいないと思った。が、おれはやるしかなかった。彼女がひっくり返せと言うなら、どんなものだってひっくり返さなければならない。彼女が投げろと言うならきっと投げたし、食えと言われたら食っただろう。おれは従うしかないのだ。迅速に、正確に。
ひっくり返された蛙の腹には、いくつか葉がくっついていた。蛙には歯が無くて、口の中は黒かった。おれは醜い蛙を見ないわけにはいかなかった。蛙は驚き、戸惑い、助けを呼んでいた。そして蛙の指を見ようとすると、彼女が、蛙の腹を踏んづけてしまった。
ギャア、と声をあげて蛙の腹は姉ちゃんの足型に膨らみ、圧力に負け、風船の割れるように破裂してしまった。至近距離で蛙をじっと見つめていたおれの頬に目玉が、身体に内臓が、無意識に開けていた口に血や体液や皮膚が飛びかった。
それからのことはよく覚えていないのだけれど、とにかく姉ちゃんは優しくて、ずっとおれの手を握って背中をさすりながら、一緒に帰ってくれた。家に着くとすぐ洗面台に向かい、衣服を全部ごみ袋に入れて封をし、全裸になって手を洗い、顔を洗い、それから何度も何度も吐いた。おれは鏡を見られなかった。自分の顔はきっと、蛙の目玉でうめつくされているのだ、と思った。何も見ちゃいけない、全身、足の裏まで蛙でうめつくされているのだ、あのにおい、あの感触、そういうものがすべて永遠にまとわりつくのだ、そう思うと、怒りや憎しみや絶望よりも、もっと深い井戸に投げこまれた気になった。奥深くに落ち、蛙はギャアと鳴った。洗っても、洗っても、洗っても洗っても取れない。何も見えない、見たくない、ひとりになりたくない、半狂乱になって部屋に戻ると、リビングには鯛を食っている姉ちゃんがいるのみだった。知らないあいだに夜が更けていたらしい。おれは膝を立てて鯛をすすっている姉ちゃんに土下座した。土下座するつもりなんてなかったのだけれど、感情を抑えるにはこの姿勢が1番良い気がした。顔面を床にこすりつけ、「お願いします」とおれは言った。自分の息から蛙のにおいがした。
「お願いします。おれを殺してください」
姉ちゃんは汚い服の袖で口もとを拭うと、優しい、まとわりつくような声で「脱いで」と言った。おれのポケットのなかには、ライターが入ったままだった。

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