夜乃やみ(林 やは)著『青に溺れて眠らない』本記

30以上ある詩を纏めた本を短く評することはとても難しいのだけれど、この詩集にはあとがきがあって、そこからヒントを、いくつかの共通点を見出すことは出来る。
作者が何に重きを置いているのか。これは林やはによって書かれたものではない。夜乃やみ、まだ林やはが林やはでないころに書かれたもので、処女作より前のものである。
とはいえ、同一人物であることは変わりないので、林やはの源泉をたどることが出来るものだ。
まずはあとがきからみていく。

<私はどんなに恐ろしく嫌らしい感情も美しいということと、すべての感情に抱かれる権利があることを信じていて、例えば、殺人犯のような感情も、人を愛したいという想いも、すべて、宝石のような輝きの一つだ。ということにしたかった。いつも疎まれる憎しみや怒りやさみしささえも、美しいものなのだ。と肯定して、子どもに「人を殺したいと思ってもいいんだよ。」と諭せる世界になればいい。と思っていた。それこそが優しい世界だ。と信じていた。そしてまったく理不尽なことに、紙上だけでも、生きているというだけで、人間を、他人を、許せるような人間になりたかった。>

タイトルにある「青」、「眠り」だけでなく、「宝石」や「死」も詩集の中で頻出する。読んでいただければ、31篇すべての詩で、作者はこれらを上記の理由で詩に落としこもうとしたのだ、としてしまって過言ではないことが分かると思う。
やはり気になるのは宝石である。『宝石をつくっている』という詩がある。

<命が青色だということを、世界中の人が知っていれば、僕は眠ることができた。宝石の輝きで女の子が死んでしまっても、ああ、そうなんだ。くらいで終わってしまうだろうね。><死体を燃やす意味なんてないよ。もともと何もない肉体に興味なくしたからね、人間。>

宝石の輝きは、あとがきで憎しみや怒りやさみしさ、疎まれる感情も含まれるとしている。
だから、女の子が殺されたとしても、それは悲惨なことでも特別なことでもなく、例えば女の子が誰かを愛し、愛されたりすることと同じ、<ああ、そうなんだ。>と軽く流せる程度のものなのだ、と言っている。それが命が青色だということで、人間が<もともと何もない肉体>だということで、青は死に近しいことだと分かる。そしてそのことを――あらゆる感情も行為も肯定されるべきことで、肉体にも命にも特別な価値がないことを――世界中の人は知らない。
本書では、眠ることは死を意味している。『Lonely Night』の一節を引用する。<眠ることは死ぬことなのに、それを「くろねこがね…」とあの子にいわれて黒い猫を想像するのと同じくらい、あたりまえにしているから、人間ってとてもこわい>。だから<僕は眠ることができた>は、死だろう。命が青いなら、自殺さえ誰も咎めない。

<くだらないから、誰も居ない夜の公園で宝石をつくっていた。ああ、僕は生きているのに、夜はずっと、死んでいく。><僕が命を失ったら、燃やさないで、埋めないで、ただ、忘れられた詩集を、そっと隣に置いてほしい。生きていて、でも死んでしまった言葉が死体であって、そこにはもう、僕はいないんだから。><死んだら人は言葉になる。だから僕は、宝石をつくっている。>

ここで締められる。宝石の輝きがあらゆる感情であるならば、宝石は言葉であるともいえる。しかし感情や発言は形づくることが出来ないものなので、とすれば、「僕」がつくっているのは詩だろう。魂は肉体ではなく言葉に、詩集に収められるのだと宣言している。作者の詩に対する考えが分かる。つまり、全身の言葉が詩に封じられている。
宝石、生死、夜の定義も分かっていただけたかと思う。

もうひとつだけ収められている詩を取り上げる。『青の詩』。

<命の果ては言葉だけが浮かんでいる世界。他にはきっと何もない世界。だから僕は物語が好きだよ。ねえ、いっそこのままインクの香りに染まってしまえればいいのにね。僕は静寂と焦燥のなかで、血液とさよならしたい。この殺人の向こうは天国かもしれなくて、絶望なのかもしれない。><肉が朽ちるのを待っているように、猫が欲情するように、明朝体が魂を宿すように、あの子の願いが鈍色を汚すように。><それは青であり、闇であり、だから夜のようで、人間。>

『宝石をつくっている』でもあったように、肉体のどうしようもない醜さをあらわしている。作者は言葉や宝石の美しさに魅せられるあまり、肉体からの脱出を試みているようにみえる。しかし、肉体を逃れることは命を失うことを意味していて、それらの美しさを感じられなくなるかもしれない。それがここでいう絶望であり、その矛盾に苦しんでいる。
<明朝体が魂を宿すように>を間に挟んでいる。作者が重きを置いている醜いもの(肉体、生命)と、そこから最も離れている美しいもの(感情、言葉)を併せて並べることで、あらゆるものが宝石の輝きのように美しいのだ、と抑えこもうと試みている。肉体と言葉の矛盾を作者自身も分かっていて、葛藤している。どんな感情も様相も、すべて青で闇で、人間なのだ、と。自分自身にも言い聞かせているようにもみえる。

<ほんとうの宝石はいつでも神様の手の届かないところにあるから、人は人を殺せるんだよ。><ああ、鮮やかな聖者の死。>

ここで締められる。神様を名指したのはこの詩集でここだけである。作者の為そうとしていること――価値の転変、生死の統合――は神の所業であり、確かに紙上では誰もが神であるが、特異なのはこの神は、神であることを自覚し、真剣に神たらんとしている点で、だから切迫していて、緊張していて、不自由そうにしている。
どんな感情も美しく、子どもに「人を殺してもいいんだよ。」と言える世界。それが作者の作ろうとしているものだとあった。ここではより強く、<ほんとうの宝石>としている。例え話のようにあとがきでは書いていたが、人が人を殺すということに、作者が強く惹かれていたことが分かる。実際、他の詩でも何度も殺人について語られている。そして殺すことは、性交も意味している。『おさかなのいろ』から。<僕は殺人がしたい。/あの子を抱くことは、大好きなお魚を食べることと一緒だ。街のなかを泳ぐあいだは、あんなにきらきらしてるのに、恋をしたら、艶かしさはなくなってしまうんだね。>
相手を抱くことは、自分のなかで相手を殺すことに繋がる。その輝きの損失に繋がる。
あらゆる感情に宝石の輝きがあるなら、ほんとうの宝石というのは、激しい感情の発露のことなのではないか。人間の感情は数多あるが、最も激しい感情は人を殺したいというものなのだ、と作者はどこかで思っていて、だから惹かれているのは殺人や性交という行為そのものというよりむしろその感情の強さに、ではないか。そして偶然にも、人間の抱く最も激しい感情と、最も忌むべき状態が極めて近しくあってしまった。<ああ、鮮やかな聖者の死。>聖者は神に近い人間で、ということは、殺すことの出来る神である。ほんとうの宝石は、人間の限界は、神をも跳ねのけてしまえるほど強大なのだということを、1行で知らしめている。


林やはの詩には常々、不思議な説得力があると思っていた。「AはBだから、CはDだ」という世界の開き方をして、読者はそのまま飲みこまれてしまうのだけれど、よく読んでみると「AがBだから」の前提が汲みとれないほど突飛なものである、ということが多々ある。
その世界に飲みこまれると、否定も疑問も抱けなくなる。なぜこんなことができてしまえるのだろう、とずっと惚れこんでいる。独特の熱った言葉選びなのか、神秘的な世界観なのか。あの不思議な感覚。色々なことが起因しているのだろうけれど、文字を、世界を何度も何度も紙上に起こすことで、作者は、神になったからなのだろうと、この詩集を読んで思った。詩のなかで、作者の言うことは絶対で、読者は従順になるしかない。だから僕も、その魅力を前に「感想を書きたい」と何度も息巻きながら、ただ感嘆することしかできなかった。作者の前では、どんな人間もそうせざるを得ない。なのに決して、高圧的でない。
なぜそれに気づいたのかというと、夜乃やみはまだ神になりきれていなかったからだ。価値観、考え方、志は変わっていないが、そこに隙や苦悩や曖昧さがあって、読者を簡単に飲みこめない。自分の価値観や考えがあまりに他人と違っていて、どうしても理解されないものだと知り、戸惑っている。怯えている。多くの人は紙上でその自由を楽しむのだが、作者はまるきりの世界を、価値観を、詩という短いフォーマットに真剣に載せようとして苦しんでいる。だから今よりも文脈がくっきりと太く、ゆったりと丁寧になっている。といってもこれは表現なので一長一短あり、林やはよりも優しく、柔軟であり、読者の間口は広いと思う。
だから林やは入門とも言え、林やはの詩が分からなかったり、受けつけなかった人にぜひ読んで感じてみてほしい。作者の詩は局所的なものでも閉ざされたものでもなく、限りない愛を以て手をいっぱいに広げた先のものであり、高校生のころにあらゆるものを覆ってしまった、その末のものなのだ、ということを分かっていただけるかと思う。
<だから僕は、宝石をつくっている>。これはきっと、数年後の林やはも変わっていないだろうと思う。他人には理解しがたい、醜い、捻れた感情をありのまま、美しく語ることで、こうして文字に起こすことで、真剣に世界の価値観を変え、作者の「優しい世界」をつくろうとしているのだろう。そしてそれは、作者のいなくなった後も、死体として遺り続ける……そのようにして読めばきっと、その熱を、志を感じられるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?