ココア共和国2022年10月号雑記

はじめに

先月から始めた、自分の詩を振り返るシリーズですが、今号は不採用だったみたいです。ちょっと、パソコン見ますね……。
『カラス』という詩でした。わあ、これかあ。これ、結構自信あったのになあ。
<汚いカラスに腹を捲り返した少年は/見知らぬ女を母と間違え/握ったその手は汗ばんで/とうとう同じ高さに、目は真珠のように/すぐに落ちてしまい/雲に照らされ、そのカラスは/ただ一匹、電線の上に/鳴くこともせず/じっと、ゆき果てぬ山を眺めている/風に振り向き、飛び立つと/夕陽から逃げてゆくように/だらりと垂れ下がった尾を/光に混ざってゆくそれを/吸いこまれてゆくそれを/腫れた目を拭うこともせず/じっと、いつまでも見守っていた>
なんだろうか。文体がふわふわしていますね。かっこつけようとしすぎている。いいと思ったんだけどな。これ。むつかしいですね。


傑作集Ⅰ

『小さな体躯』渋谷縷々子
主人公は17歳ですが、作者さんも17歳なんですね。完全に自分のことを詩にしているのでしょうか?それだけではなさそうな気がします。

ココア共和国の構造を狙ってなのか、改行が掴みにくい詩です。<わたしのこころはどこまで、ほんとうだと思いますか?>これは、改行された、独立のものなのかどうか。全体を読み直してみて、やはり、独立しているんじゃないかな、と思いました。ぽんと、差し込まれた光のような1行。希望ではないのだけれど。
すごく刺々しい、青い内容なんです。なのに、あたたかくて、臭くない。それは、似つかわしくないほど落ち着いた文体に理由があるのではないか。いちいちの描写が美しい。主人公は純な気持ちで世界を見ていて、だからこちらまで世界が新鮮に見えてしまいます。夏を、節足動物を、美しく見せようとしていない。でも、だから美しく見えてしまいます。
<ただいっさいは、過ぎてゆくだけ。>でこの詩は終わります。落ち着いた文体の、らしい終わり方です。でも、熱が伝わってくる。心の中ではふつふつと煮えたぎったものがあるのでしょう。だからこそ深みがあります。僕はこの主人公のこと、好きです。過ぎゆく未来に、希望があるよう願ってしまいました。


『ただ絶望したいだけかもしれない』ハッピーエンドの
短い詩です。でもね。これは、ちょっと、難しい。いや、ちょっと、とりあえず進みましょう。

この詩、この詩自体はすごく好みだし、テンポ良く語りかけられる文章で魅力的なのです。
が。なにより、やっぱりタイトルです。『ただ絶望したいだけかもしれない』なんだこれ。なんで。こんなに平和であたたかい詩に。『可愛いキミ』でも『小鳥』でも『キミの夢』だっていいんですよ。もう、なんだっていいんです。詩がいいんだから。なのに、なのに。
これは、純粋に驚いたんです。タイトルだけで、何もかもひっくり返してしまった。それは、この詩自体に空白が多いから出来たことではないか。このキミは誰なのか、書き手はどういう立場なのか。会話しかないですから。こちらは想像するしかないんです。
例えば、例えばね。このキミは少女です。書き手は誘拐犯。少女は長期間の拘束により疲弊しきっておかしくなってしまった。そしてうわごとのように、「鳥になりたいの」と呟いた。犯人は少女を手中に収め、目的を果たしてしまった。そして。なぜこんなことをしたのだろう?と思う。少女の親だって、警察も探しているに決まっている。捕まらないわけなんてないのに。『ただ絶望したいだけかもしれない』。
こういうことだって、出来てしまうんです。これは傑作ですね。ちょっと安易に言葉を選べないです。とにかく、傑作だと思います。恐れ入りました。


『不在』腹巻さしみ
おお。これはまた、前に続き出産、誕生の詩です。ちょっと、細かくみてみたい。

悲劇です。この、役所のマニュアル仕事への苛立ちはすごくよく分かる。不条理。それを客観的に描き、ユーモラスに感じさせる、ということはあります。
でも、この詩は、死も含まれています。しかも、自身の子どもの死。だから、安易に笑うことが出来ません。
<午後三時に生まれ終えると/外側だけ残し不在になった娘/わずかな命と知っていたのか/嬰児らしくない鋭さで気の強い/女の目をしていた>ここ。タイトルにもある不在。ここを描きたかったのでしょうか。この娘は、嬰児は静かで鋭い目をしています。この表情を描くために、伝えるためにここまで主人公に、てんやわんやさせていたのではないかと思います。動からの静。ここ、私はいがらしみきおさんの『I』という漫画を思い出しました。『I』は、ある赤ん坊の誕生から物語が始まるのですが、この赤ん坊が、不気味なほど重く鋭い眼光でこちらを睨みつけてくるんです。あの、あの1枚の絵を見せるために、この詩は書かれたのでしょうか。

傑作集Ⅱ

『017』紺野真
ううん。詩的ですね。でも、ただの詩的ではありません。もちろん。

これね、作者さんは誰かのことを想っているのだと思います。きっと。なのに、具体的に浮かんできません。これは、意図的に隠しているのでしょうか。読者はそれぞれに、想いを馳せることが出来ます。
<――青い羽根は空と同化して/あれじゃあ、人間が空を飛んでいると勘違いされてしまうじゃん><それから暫く私の上にだけ雨が降った/この雨はずっと止まなくていいよ>ここ。最後の2節。繋がっていません。すごく言葉足らずなんですよね。これも、あえて削っているのだと思います。でも削りすぎていなくて。映像的な美しさがあり、読んでいて心地よい。
空白の多いこの詩ですが、ひとつ謎があります。それはタイトル。『017』。なんだ、これは。全然関係ないです。天使との相関関係を調べても出てこない……ちょっと、これはお手上げです。この、天使が『レイナ』という名前なのか……?ここもまた、想像に任せる、ということなのでしょう。作者さんのごく個人的な詩であると同時に、作品としての面白さもあり、そのバランスが見事です。


『神様のわすれもの』笠原メイ
とにかく美しい詩です。ちょっと、丁寧に解体してみたい。

この詩は5節に分かれていますが、大きくは3つです。前半は<あれは夏に似た、冬の一日だった>で区切られ、<あれは冬に似た、夏の一日だった>で終わります。
<神様が地上に忘れたものが/例えば、海や花と呼ばれるものなら/僕らは同じ場所から来て/最後はそこへ帰ってゆくだろう>で前半が始まり、<神様が雲の上に忘れたものが/例えば、星や愛と呼ばれるものなら/誰も踏み込めないだろう>で後半が始まります。
そうみると、この詩はシンメトリーです。対比がさまざまなところでみられる。
真ん中、<狭いユニットバスで抱き合う微熱/心臓と一緒に震えているのは/魂や命ではなくて/触れたら壊れる透明の楽譜>ここだけ独立しています。そして、ここ、すごく好きです。このうえなく美しい。神様も彼女も明確には描かれないのに、独立して置かれているここ。これ、無くても詩は成立しているんですよね。でも描いた。なぜなのか。
これね。前半と後半での、彼女との触れ合いは、<一瞬だけ目が合った>だけなんです。ここだけみると、片想いの相手に感じる。なのに、真ん中のこれ、ここで、主人公と彼女は濃密に触れ合います。ユニットバスで抱き合い、魂や命を超えた、もっと繊細な部分で共鳴しています。
真ん中も美しいのですが、質が違います。前半と後半は神々しい、きらびやかな美しさですが、真ん中はどろどろとした、生々しい美しさです。この部分、通常描かれる部分(前半後半)と、描かれない部分(真ん中)。この、描かれない部分まで描いてきました。それも、シンメトリーのこの詩の、真ん中に。作者さんの幅広さに魅了されました。


『つぶやき』木葉 揺
すごいです。こういうの、すごく好きです。ここにしかないかっこよさがある。

鏡。自分を映し、ながら、深層を起こすものとして使われがちです。それがここでは煎餅です。しかも、自宅のリビング。休日。このアンバランス。
割れる音が言葉に聞こえただけ、ですがやはり、いや、だからこそ、これは自分の言葉なんです。脳がそう聞こうと働きかけたわけで、それは、自分の中にあった言葉。
鏡をここに置いてしまうと、言葉がより複雑な意味になってしまうんですね。相手は鏡でありながら、自分だから。やはりそれは、自分が“言った”ものとして受け取られてしまう。それはちがうんですよ。そう“聞こえた”んです。そこに煎餅である必要がある。
煎餅のその不気味な言葉を受け取った主人公は、煎餅にがっつきます。不安を決心を、行動に変える。この主人公については、読者は何の情報も与えられていません。どうやらどこかで働いているらしい、という。ただそれだけ。どのような過去を、現在を生きているのか。それはまったく想像に委ねられているんです。でも、この行動だけで、何かしら受け取る。つまり、主人公はこの「たかが煎餅」に、ある意味で勇気づけられたのではないか、ということ。
休日に、仕事に来て欲しいと電話がかかってくるなんて最悪なんです。絶対に嫌な出来事。でも、この主人公は行くんですよ。<やっつけるしかないか……>どんなものからも、人は変わることが出来るんです。ということを、煎餅ひとつから書き起こしている。簡単なのに複雑な、印象に深く残る詩です。


『わたしはかえる?』三波 並
こういうもの、あんまり取り上げない(取り上げても詩だけで完結してしまっているので書くことがない)のですが、痺れました。ので、取り上げさせてください。

いやあ、もう語ることがありません。記念碑的に置いておきたい。こんなこと、初めてかもしれません。
完全な作品ですが、完成されているわけではありません。いや、書き方が難しいな。完成されているんですが。完成してから書き起こしたわけではないでしょう。<もしかしたら、わたしはかえるではないのかもしれません。>ここからの、思考の飛躍。ここまでももちろん素晴らしいのですが、ここからもまた、より凄い。<憧れはたくさん、存在しています。/そう考えると、/冬眠から目覚めたばかりのくまなのか、/一匹だけまっ黒な小さな魚なのか、/空を優雅に泳ぐ大きなくじらなのか、/まっすぐに伸びていく雑草なのか、/ひとりの人間に寄り添うりんごの木なのか。/わたしは一体、どれなのでしょうか。それとも、/どれでもあり、どれでもないのでしょうか。>ああ、いいなあ。ただただ読むのが気持ちいい。この詩が、詩たる所以。沁みます。タイトルも含め、すべて素晴らしいと思いました。

傑作集Ⅲ

『出発進行!』妻咲邦香
ええと、これは理想形です。これ以上いいものってあるのか。神々しささえ感じます。

壮大な詩です。地球まるごとを相手にしている……いながら、「あの子と僕」という、極めて小さな輪に引っ掛けています。
「僕」にとっての「あの子」の大きさ。それを描こうと詩人は躍起になっているわけですが、作者さんは地球に自転にリンクさせてしまいました。これはちょっと勝てない。しかも、ものすごく収まりがいいんですよね。これは感覚でしかないんですが……どうしてなんでしょう。やはりこのスピード感。写したらすぐにまた次に写す、読者の目をぐるぐるさせて、気がつけば「あの子」に到達してしまっている。言葉の感覚が非常に良くて、読んでいて気持ちいい。
物語ではないんです。かと言って端書きでもない。これが詩です。僕にとって、理想です。<遠くを見たければ背伸びしたらいいと、あの子に教えたのは失敗/おかげで自転の速度がまた少し遅くなったよ>ここ。この輪っかが繋がった感じ。爽やかでどろどろしていなくて、でも片想いなんですよね。でありながら、優等生という感じでもない。しっかりとオリジナリティがある。詩の教科書を作れるなら、載せたいです。


『キスまでの距離』裏路地ドクソ
うわあ。いいなあ。性的なもの、僕も何度も書こうとしているんですが、なかなか生々しくて書けないんです。こういうのがいい。

もう何も言うことがありません。生活の断片。にしか出せないエロさがある。あるのに、ねちっこくない。
うーん。エロという言葉の下卑さ、安直ささえ感じさせられます。そんな言葉であらわすべきではない。ここではそれが、何より美しいものとして描かれている気がします。もっと神聖な、パトラッシュが天使に連れてゆかれる時のような、そんな高尚さ。なのに濃密なにおいがあって、曖昧で不確かな、愛や恋の、性欲との揺れ。
そこに主人公は悩んでいる印象を受ける。悩んでいる、というより、戸惑っている。いちいちの行為や、熱に疑問を持ちます。その戸惑いすらも美しく、また、この「君」の寛容さもこの詩の魅力です。主人公はただひたすらに求められ、そして包まれている。どちらの感情も分かります。「キスまでの距離」。タイトルもまた、絶妙にこの詩をあらわしています。全て美しい。神々しい。

佳作集Ⅰ

『彼女はオネスティを歌っていた』真城六月
オネスティといえば、ビリージョエルを思い出すのですが、ここで書かれているそれも、やはりビリージョエルなのでしょうか。検索しても1番に出てきたのはビリージョエルでしたし……。とりあえず、それで進めますね。

ビリージョエルの『オネスティ』。オネスティは、日本語で誠実という意味です。ただただ、誠実さを求める歌です。<恋人を見つけることは出来る/友だちを見つけることも出来る/安心を手に入れることもね/人生に終わりが来るまでなら><「誠実」なんて寂しい言葉なんだろう/だって、誰もが不誠実なんだ/「誠実」ほとんど耳にすることはないよ/でも、それこそが君に求めたいことなんだ>
だいたいの訳ですし、抜粋ですが。このこわいおばさんも、そうなんでしょう。誠実さを求めていたのでしょう。というより、求めざるを得なかった、のではないか。恋人も友だちも安心さえ見つけることが出来るのに、それでもやはり、誠実を求めてしまう。と、どんどん孤独になってしまう……。
<上手かったよ>この1行がすごく好きです。歌って、真にその意味を理解しなければ上手く歌えないものですから(音痴はともかく)。おばさんの中で何度も咀嚼したのだろう。という印象を、この1行、たった6文字であらわしてしまっています。まあ、このこわいおばさんが、あの『オネスティ』を歌っているかどうかはともかく、だとすれば非常に合っていると思いました。かと言って、『オネスティ』を聴いてから書いた詩だとも思いにくい(あれは恋愛の歌なので)。作者さんの中にずっとあの歌があり、この詩を書いているとき、リンクしたのでしょうか。
僕はこの語り手がすごく好きです。口調や思考回路がとても魅力的です。この語り手こそ、ビリージョエルが、こわいおばさんが求めていた、誠実な人でしょう。いいなあ。残酷ですが、店が燃やされている最中の映像まで浮かびます。きっとビリージョエルが絶唱しているでしょう。


『詩人になりたかった男』高山京子
これはちょっと、度肝を抜かれました。描けないことを描いています。すごい……。

本当の話、ココア共和国を全部読み始めて長いですが、泣きそうになったのは初めてでした。自分でも信じられない。
描けないこと。描けないことは描けないんです。ことばが出てこない。書いた端からばらばらと崩れ落ちてしまう……ということを書こうと思うこと、みんなあると思います。でも、それさえ書けないんです。これはまだ僕のなかで解明されていません。どうしてなのだろうか。
これ、いまの、このすごい詩に出会ってしまった、この状態にすごく似ています。もしかすると、きちんと咀嚼しきっていないから、飲み込めていないから、うまく吐き出せないのかもしれませんね。この詩についても、僕は、海のような壮大さに、言葉が出てきません。しかしこの記事は雑記なので。雑多にとつとつと、思ったことだけでもつぶやいていこうと思います。
<空も 山も 大地も 海さえも/心をひらいてはくれませんでした/一文字にもなりませんでした/詩のことばは海の色をしているはずでした/この世を彷徨う日々が続きました>こんなに端的に、この感情を描けるのか。すっごく簡単に書いているように見えますが――少なくとも僕にとっては――この言葉を紡ぎ連ねるのは、とてつもなく難しいことです。そしてこれは、かなりはっきりと言えるんですが、ハッタリじゃないんです。ハッタリじゃ書けない。真にこの世を彷徨っていないと、書けないんです。僕程度じゃ、まだまだ浅いんだ。きっと作者さんは、もっともっと深くまで落ち、長く長く彷徨ったのだろうと思います。
そして最後。<絶望しました/ついに彼は詩をあきらめました/彼はことばそのものになって/海のなかへと消えていきました/ようやく彼は詩人になることができました>海のなかへ消えなければならないんだ。これは、作者さんのなかに、確固たる詩人論があるんですよね。詩とは、詩人とは、こういうものなのだ、という。そしてしかし、それを懐疑的に抱き眺め続けている。簡単にこれと決めつけてしまうような人は彷徨わないし、だからこんな詩も書けません。こういう人は、文学的にすごく強い。
これ、すずめを彼が撃ち落とし、自分の代わりに殺してしまったから最後に繋がるんですが、ではなぜ彼が、最後詩人になったのかというと、詩にしてもらえたからではないか……。詩人になるということは、詩の1部になるということ、でもあるのかもしれません。
すみません。この辺りで勘弁させてもらいます。正直、感動し過ぎて、取り上げず胸の内に大切に取っておこうかとも思ったのですが、やはり、自分の記事の中に入れたいという傲慢さが勝り、取り上げてしまいました。うまく書けた気がしない。大切な詩です。


『百五十円の青春』オリエンタル納言
この作者さん、前回も取り上げさせて頂いていると思うんですが、今回もまた、独特な視点です。

ああ、分かりました。これが異質なのは、「ワタシ」が主人公だからです。
前回のものでも書いたかもしれないんですが、作者さんは、自分を描いているんです。かっこつけるとか、文学的とか、そういうにおいがしない気がします。
小説よりも詩は、かっこいいものです。なにしろ短いですから、端的に光らせなければならない。早々と言いたいことを、描きたいことを書かなければならないんです。そのために詩人は命を懸けているといって過言ではない気がする。
なのに、この詩では、そういうものが感じられません。だらだらと、学生たちの会話をそのまま切り抜く。<「だって、さっきアイス買っちゃったし、百五十円を来月に残しときたい」>「残しときたい」なんて言葉、絶対に書きたくない。多くの書き手が思っています。だって、読んだことないですもん。少なくとも文学作品では。絶対に「残しておきたい」にしたい。話しことばと書きことば。そういうものへのこだわりが徹底して削られています。これはきっと、意図しているものではない。作者さん本来のものなのではないか、と思います。
<百五十円の価値が分からなくなった汚い大人のワタシを残して/彼女たちは去ってしまった/友人との電話を適当に切り上げたワタシは、急いで家に帰る/そして、財布の中に入っていた数百円を貯金箱にそっと入れたのだ/まるで、青春の仲間入りをしたような気持ちになって>ここです。ここを描きたかった。この「ワタシ」を描きたい。カタカナにしている意図。あきらかに異質です。「ワタシ」なんて一人称を使っている人も今まで、ちょっといなかったと思います。わたしか、私かあたしか。それくらいです。「彼女たち」「女子学生」は漢字なのに。それは、彼女たちと主人公との存在の明確な差、人間をしている彼女たちと、カタカナの、不安定な私との差。明暗を描いているのだろう、とも言えるのですが、やはり、主役は「ワタシ」なのだ、という感情が滲み出ている印象を受けました。
そうだ。自画像ですね。風景を描いている……なかに、くっきりと自分を描いている。それはもう、ひと目見た時に気づくくらいくっきりしています。
自画像的な詩はあります。しかしそれは、ゴッホのようにアップで自分の顔を描きます。あるいは、多くの詩は、自分なんて描きません。ただただ風景を、空を、海を、女子学生を、どれだけ美しくかっこよく描けるか。だからなるべく自分を消します。なのに、その美しい風景の中に、「ワタシ」というまったく違うペンと色彩をもって象られた人を入れてしまいます。この奇妙さは、そこから感じられるのだと。
ココア共和国には様々な賞があって、応募規約は「2回以上投稿していること」なんです。1回だけだと、たまたまうまくいっただけかもしれない。そのあたりが見抜けないんですよね。でも、作者さんは、2回とも。やっぱり前回のあの独特さは、間違っていなかったと確信出来ました。いやあ、語りがいのある詩です。美しいのに明らかに異質だから、すごく衝撃的で、客観的に処理出来ない。また見てみたい。次はどう「ワタシ」を描くのか、あるいは描かないのか……。

佳作集Ⅱ

『汝、崇拝せよ』風巻けんず
これこれ!と思いました。僕は、こういうのが書きたかった。読みたかった。でも、採用されませんでした。この詩とどうちがうのだろう。

ああ、気持ちいい。引用していて気持ちいい詩は、すべて僕にとっていい詩だと思っています。
言葉と言葉のあそび、空間の気持ちよさ。書くこと、読むことの気持ちよさ。こういうものが書きたいと言いましたが、ちがいますね……この詩はそれだけでなく、物語性もある。
<偶像の神も機械には勝てなかった>で詩は締めくくられています。この詩は、神が重要で頻出します。ここで神は、笑いながら星を壊す、無慈悲な存在です。「汝、崇拝せよ」これは、神の言でしょうか。
<青空に憧れた蛙に羽が生えても/上手く飛べずに深い海へと堕ちていった>ここ、すごく好きです。この一節の美しさ。だけでなく、詩全体としても意味がある。子供の零した涙で月見草が咲き、サソリさえ毒を忍ばせる。ほどの世界を、より暗く惨めにしています。
<数多のカッコウ時計の瞳が見つめる>ことで、最後に繋がります。これは……何でしょうか。SNSの発達した現代、神など存在も維持も出来ない、という、寓話のような印象を受けました。でも、個人的には、そこに至るまで、それまでの世界観の構築の仕方がとてつもなく美しく、そこに惹かれました。静かで、穏やかで、なのに痛々しく。ああ、こういうものが書きたいなあ。

佳作集Ⅲ

『翼』塔いさな
古典のにおいがします。長く愛され続けるもの。

『かもめのジョナサン』を思いました。ただ、あれも短めですが、小説ですから。この詩よりは全然長いんですよね。ある程度の長さがないと、こういう静かな、だけれど熱い感情は伝わらない、読者に憑依しないんですよね。
でもこの詩は、まあ、読めば分かるんですが、すごいんです。籠った熱量が半端じゃない。それは僕だけじゃなく、誰でも感じられるだろうと思う。こういうものに、そういった、暑苦しすぎない普遍性を持たせているのは……そういう人になりたいんですが、どうなんでしょう。どうやればいいんだろうか。人間離れした業だと思います。
<この孤独を/密室でなくすための試みは他にないから/全ての嘆きは/何処かにいる翼の折れた君への合図>かっこよすぎる。もうたまりません。詩でしか扱えない言葉づかい。
こういう感覚は、多くの人が分かると思うんです。共感できる。だからこそ、読んで感動できるわけで。だけれど、うまく書けないですよね。というか、書こうと思わない。それは、全身全霊、自分まるごとを描くということだから。僕ももちろん書けません。こういうものを書こうと思った人、書いた人はどうなってしまうのだろう。やはり投稿しているということは誰かに読まれるというわけですから、エンタメとして昇華しなければならないんですよ。どこかで。譲歩しなければならない。それは、自分の存在そのものをそう描くということなんですよ。そうかあ。1流の人って、そういうことができる人なんですね。僕にはまだできません。敵いません。

おわりに

はい。恒例の、誰も読んでない「おわりに」のコーナーです。「はじめに」は、その号に投稿したものを出すという荒業でごまかせてるんですが、ここがまた……。
今月号は、また異質で。長く読まれる、古典のような詩が多かった気がします。と言うと簡単に聞こえてしまいますが、これってすごいことですよね。これは長く読まれるものだ、と僕が言うとき、8.90年代から広く聴かれ続けているJPOPのことを思います。そういうものって限られるじゃないですか。でも、こんなところにたくさんあるんですよ。まあ音はないのですが……中身でいうと、かなり自信を持って断言できます。これは長く広く愛されるものだ、と。そしてまた、毎月刊行されている詩で、ある月にそれが集まるという不思議……長くなるのでこのあたりでやめます。くたくただ。
誰も読んでないから言ってやろうと思っているのですが、この記事、12月で一旦区切りにしようと思っています。いや、2023年度版も、2020年度版も、今まで通りやるんですが。不定期になります。今も不定期だろって?まあ。たしかに。へへへ。おわり!

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