ココア共和国2022年12月号雑記

はじめに

この月に載ったのは、『燃えゆ』ですね。これはキャンプファイヤーの詩です。
なんだかねえ。思いついたときは、「すごい!傑作だ!」と震えるのだけれど、こうして見てみると、インパクトに欠けますよね。だからといってこれをやすやす超えられるものを書けるわけでもなく。難しいな。あ、でも傑作Ⅱなんですね。じゃあいいのか……?偉そうに分析しておいて、全然自分のことは分からないままなんです。

傑作集Ⅰ

『カルト』こひもともひこ
ことばあそびだけの詩があって、思想を反映するだけの詩があります。それらももちろん難しいのだけれど(どちらも、とても僕にはできない)、この詩は両方を成してしまっています。

1節目。これは、現代宗教のカルトですよね。これは、あきらかにカルトというか、カルトらしいカルトです(ゲシュタルト崩壊しそう)。多くの人が、「これはカルトです」と言われて納得するもの。
2節目。処女が子を産むのはキリスト教、輪廻転生、地獄天国は仏教(ですよね?)。古典宗教のカルトです。このあたりから、カルトの捉え方があやふやになっていきます。が、リズミカルに進む文体に、読者も納得させられてしまう。ずんずんずんずん。このあたりからとても気持ちいい。
3節目。ここ、めちゃくちゃすごいです。<猿から進化したというカルト>から、6行で<嫌いな人のすることはすべてセクハラだというカルト>まで行ってしまう。人類500万年の歴史を6行に封じ込めてるんです。傑作なだけあるというとなんだか偉そうなのですが、この壮大さは、やはり評価せずにいられません。僕は評価もできず、ただただ圧倒されてしまったのですが。それも、心地よい言葉を選んでいるだけでなく、間違えていないからまたすごい。
4節目。最後の節。<詩を書くカルト>から。これでこの詩は完成する。ここ、1番好きな節です。だって、3節目で終わったっていいんですよ。それでも充分な作品です。なのに、こんなことをしてしまう。してしまえる。その作者でしかたどり着けなかった結末に僕は強く惹かれるのですが、この4節目はまさにそうでしょう。3節目まで書いておいて、4節目を書かせると、全員ちがうことを書きますよね。そのフォーマットを作ってしまっていることだけでもすごいのに、それだけでなく、「俺ならこうする」の答えを書いてしまっています。
この4節目に僕が惹かれるのは、もっといい答えだって出せたはずなんですよ。だって、こんなにいい3節を書けるだから。いや、もっといいというより、もっと多くの人に感心されるというか、多くの人を納得させる着地点。だけど、そこを選ばず、こんなことをしてしまう。そしてとても楽しそうなんです。それがすごく伝わってくる。から、読んでいるこちらも楽しくなってしまう。笑ってしまう。
しかも最後の最後に、綺麗に着地もさせています。何もかも必要な詩です。無駄がひとつもない。全然及ばないのですが、僕も書き手ではあるので。楽しんでしまって悔しかった。悔しいという感情、この記事を書いていてあまり出ないのですが、しばらくぼうっと反芻してしまうくらい悔しいです。自分が書いていて楽しくて、読者も楽しませられるなら、こんなにいいことないですよね。いいなあ。


『名前のない蜘蛛へ』田村全子
1年もこの記事をやっていると、何度も同じ方を取り上げてしまい、いい詩だと思うんだから関係ないと思いながら、やはり、すこし躊躇ってしまう。田村全子さんもそのうちの1人ですが、やはり好きです。

<最初は名前を付けようと思った>このはじまり。いやあ、かっこいいなあ。もう素敵です。もうひとつ!言わせてください。<三日目どっこい蜘蛛は生きていた>ここも!この、リズミカルで、違和感なく進ませる言葉選び。で、ありながらこの世界観を崩しません。
志賀直哉の、『暗夜行路』だっけ、あれを思い出した人は少なくないのではないでしょうか。子細まで覚えているわけではないけれど、僕もそのうちのひとりです。
<蜘蛛よ 悪く思わないでおくれ/いつもは考えもせずにしていることが/なぜ今度に限って気が咎めるのか/地球の裏側の戦争のせいかもしれない/あそこでは人間が虫のように殺されるのだ>ここがね。詩のすごいなと思うところです。詩って、とても短い。だから、思考の飛躍に無理がないんです。読者もそれに慣れている。
<やっぱり名前を付ければよかった/仲良くまではなれないとしても/まさか死なせることは無かったろうに>これがね……戦争と繋がるんですよね。この気持ちよさ。ストレートに戦争を語ろうとすると、どうもうまくいかないことが多い。それは書き手としてだけでなく、読み手としても、すらすらと頭に入ってこない。けれど、名前のない蜘蛛にあてることで――作者さんが初めから戦争を意識していたかどうか分かりませんが――重みを増して読者に響きます。詩の可能性を感じました。

傑作集Ⅱ

『手』でおひでお
わあああ。すっごいなあ。これ。僕はTwitterをよく見るのですが、Twitterにかぎらず、プロでなくとも、四コマ漫画を公開して人気を博している人って多いですよね。漫画を描いていなくても、こんなとんでもないものを描けてしまう人、たくさんいるのだろうな、と思ってしまいました。

<今度は確かに肩をたたかれるのを感じ/私は歩きながらゆっくりと振りかえる/手であった>この、映像的な描写。もうここでこの詩は成功していますよね。こういうものが書きたいと思って、実際に読者に魅せる。描写は丁寧で、なのにスピード感があり緊張の糸は張り詰めている。
<気がつくと 手と 手をつないで歩いていた/家が近づく/このまま一緒に帰宅することになるのだろうか/私はもう覚悟を決めるしかないのだと思った/家に着いた>これ、さっきもありましたが、<手であった>みたいな、こういう描写ってあんまり見かけません。さらさらと流れてゆく映像に、ふっと短い言葉で落とす。そういうものがこの詩ではたくさん出てきます。作者さん独特のものなのでしょう。真似したい。一朝一夕で身につけられるものではなさそうですが。
ホラーものを冷静に茶化すようなことは、漫才なんかでよくありますが、この詩は茶化すわけでなく、詩的な、つまり、重い読後感を与えます。何だったんだろう、という。色々なもののメタファーにも見えますし、現実と幻想を狭間を縫ってみようとする試みにも見えます。このラストが、詩を詩にしているのでしょう。すっごく好きです。


『電気溶接用手持面老婆』西川真周
先月の赤い羊といい、本当にすごいです。いったい作者さんの頭の中はどうなっているんだろう。ルイス・キャロルのように、狂気的で色とりどりな世界が深く根づいているのでしょう。圧倒的な世界観に、驚くことしかできません。とはいえ、また、そういう作家にありがちな、読者を突き放すことをしないのがすごいです。あくまで、多くの人が読んでたのしめるものを書いている。

<島の気候は穏やかで/それと同じくらい/島民たちの性格も柔和である>ちょっと作者さんの意図とは離れるかもしれませんが、僕がこの詩で1番興味を持ったのはここです。ここ。すごくないですか?書いていると、こういう難局に面することがある。話し言葉だと問題ないのに、文字にした途端、違和感のある文章。「穏やか」と「柔和」ほとんど同じ意味です。ここはあくまで前フリというか、そんな穏やかな島で、狂気的な老婆を出現させたかったのでしょう。が、「穏やか」という言葉を2度使うことは出来ないんです。いや、べつにそんなルールはないのだけれど、読者はそこが気になって最後まで世界に入りこめない。「島の気候も/島民たちの性格も実に穏やかである」とかも、また違うんです。テンポがズレる。この詩の正解は、作者さんのこれなんです。長時間色々考えたのだけれど、やはり、当てはまるのはこれしかない。「穏やか」と「柔和」の並列。
というのも、<けれども一人だけ異質な島民がいる/いつも電気溶接用手持面を顔にかざしている老婆がいる>がここから続くんです。穏やかな島の気候に、この老婆も並ばせたかった。これは、どうなんでしょう。すらすらと言葉が出てきたのか、すっごく悩んで「柔和」を絞り出したのか。真実はもちろん僕には分かりませんが、どちらにしてもすごいです。才能だけでない、工夫が見られます。 そしてまた、面白いんですよね。なんだこの登場の仕方。ウルトラマンタロウか。
終わり方ですね。最後。これはハードルが上がります。どうやって終わらせるんだ?と。こうやって終わらせるんだ。灯台守が生きるのは読者も想像できるのですが、主人公がこうなってしまう。よくありますが、誰が書いているんだ?というメタ問題。もうそんなの関係ないんですよね。やはり、映像としての面白さというか、魅力がある気がします。作者さんの前では、この主人公さえ被写体というか。脳内から取り出してきて老婆を放りこみ、ぶっ壊してしまう、気持ちよさがあります。


『行方』腹巻さしみ
数刊前から続く、家族、娘の喪失はまだ続いています。でありながら、毎度違う角度から描けるのが本当にすごい。そして、この詩は全部同じ文字数なんですよね。制約をつけてのこのクオリティ。すごい。並大抵じゃないです。

<そんなことあるはずないじゃないか/布団の中に入ったまま数年間/しかしあるはずないことは起こった>ここが、この詩の中間というか、変換地点です。ねじを主題にしながら、内容がぐぐっと変わります。ここまでは、布団をめくったときに出てきたねじの描写を丁寧にしています。
<すき間風が吹くようになったこの家/どこかに必ず小さな穴が空いている/ねじはその穴に収まるのではないか/娘の心臓には小さな穴が空いていた/ねじはその穴に収まったのだろうか>生まれて2日で娘に死なれ、妻に去られた主人公。<行方不明になりたい私の新しい行方>タイトルに帰してこの詩は終わります。普通と言っていいのか、多くの場合、こういった詩は、妻目線で語られます。しかし、ここでは置き去りにされた主人公、孤独な夫が描かれています。ねじというのは色々な物語に頻出します。ねじは、それを成り立たせるのに必須であり、抜けてしまうと、見た目には出ないまでも、欠陥が生じます。それを幻想でなく、とことん現実に置かれている。引用部分だけでなく、主人公は随所で、ねじはどこから来たのか、と想像します。もちろんそんなわけはないし、主人公自身もそのことを分かっていますが、やはり娘のものだったのではないか、妻との間にあったものだったのではないか、と、馬鹿馬鹿しくも考えてしまう。簡単に語ることのできない感情を、想像することのできない感情を、ずっしりと読者に与えます。

傑作集Ⅲ

『百合ヶ丘』遠藤健人
わああ。すっごくいいなあ。すっごくいいです。好きです。

<君は数字を覚えるのが得意だったから/夢で拾った紙切れに書いてあった番号に電話をかけた/それで僕らは付き合い始めたわけなんだけど/僕の家の最寄り駅が百合ヶ丘でほんとによかったと思う/駅名に数字が入ってるからね/ちょっと気付きにくいけどね/それ以外に君が僕を好きになる理由なんてひとつもなかった>だめだ。好きすぎて全部書いちゃいそう。これが書き出しです。この詩は全編リズムが変わりません。ぽつりぽつりと語ります。それが、全然整合性がとれていないんですよね。AだからB。それが成立していません。そして、そんな感じで最後まで駆け抜けます。
なのにどうしてこんなに共感できるのか。それは、恋愛というものに作者さんはかなり深い造詣があるからなのではないかな、と思います。この詩は「君」と「僕」の恋愛詩ですが、すっごく恋愛です。恋愛というのは、結局のところ、つかみどころのないあやふやなものだ、そして、それはこんなあやふや加減なのだ、ということを作者さんは分かっているのではないかと思います。少なくとも、かなり自信のある持論があるのではないか。しかし、最後まで突き抜けるのがすごいです。書き手としては、かなり勇気のいることじゃないか。ちょっと凄すぎます。僕のいままで読んできた中で最高峰の詩だと思います。


『風切羽』妻咲邦香
めちゃくちゃ難解です。が……だからこそ簡単とも言えます。答えなんてきっと無限にあるので。僕の思うように好き勝手に読ませてもらいます。それにしても難しいな。

タイトルの風切羽は、鳥の両翼の羽のことらしいです。風を切る羽。なので、もちろん無ければ飛べません。かっこいい名前ですね。知らなかった。風切羽という言葉は出てきませんが、鳥は出てきます。やはり、ここに繋げたくなってしまう。<コンクリートの広場、大きな翼の絵を描いた/チョークが足りなくて仰向けに寝転んだ/今日の天気は何に使おう/それとあともう少し鼻が高くなりますように>翼の出てくる場面ですが、長めに引用させて頂きました。1節目です。ここだけで分かってもらえるでしょうか?もう、正解を出すのなんて無理ですよね。でもそれがいいんです。こういうのが大好きなんです。個人的に。
それともう1つ。<いつか天文学に小鳥を住まわせて/壁を張り替える予定が逆に神話を教わった>鳥が出てくるのは、この2つだけです。でもね、まあ、タイトルから想起してしまっているのでしょうが、<目にする大抵の月は実は私で、大抵の猫も実は私で>とか、<眠れる夜はつまらない、蜜蜂みたいに冒険したい>とかね。このあたりの爽快感、滑空感。すごくないですか。もうこれ、冒険してます。空を飛んでいます。鳥なんて言葉使ってないし、主人公は鳥じゃない。なのに、タイトルも合わさって、鳥なんです。鳥だと明言していないから、いちいちの描写がとても美しい。説明的じゃない。
最初と最後を引用させてください。<ふわふわのお菓子食べても、あの子よりは勉強が出来る>これが最初。<男の子なんてさ、粘土もブリキも一緒くたでさ/私の一番不細工な顔を知ってるK君/今からそいつをやっつけに行く>これが最後です。これ、どうでしょう?語り手は同じでしょうか?最初の「あの子」が最後の「私」だという線はないだろうか。でね、だとして、この詩は4節に分かれているんですよ。とすれば、1節が男の子、2.3.4節が女の子なんじゃないか。2は迷ったんですが、女の子じゃないかと思うんです。<自由に入れた部屋にいつの間にか鍵が付いて><使い慣れた肉体も一つ一つ捨てる時が来て/いつか現れるサイボーグ、もう手に負えないや>ここ。ここが、冒険の3.4節と綺麗にマッチするんです。
戻ります。最後。どうして女の子はK君(1節の語り手)をやっつけに行こうとしたのか。それは、<コンクリートの広場、大きな翼の絵を描いた>ここなのではないか。女の子は、秘密にしているわけです。部屋に入れなくなり、肉体が手に負えなくなり、もう風切羽で飛ぶくらいしかできなくなった女の子。そんな時、K君が翼を描いているのを見た。自分のことを書いたのではないか。秘密を知られてしまったのではないか。そして、あるいは、この男の子にも風切羽があるのではないか、ともすれば、孤独から解放されるのではないか、という期待の照れ隠しから、「やっつける」という言葉で迎えに行ってみたのではないか。月を横切る女の子の、にやけ顔が浮かびます。
長くなってしまった。はあ。気持ちよかった。こういった詩は、本当に、どこまでも自由なのですっごく楽しいです。そして、僕はこういうものが書けない。やっぱりどこかで繋げてしまう。あるいは、分かりにくくし過ぎてしまう。大好きなんだけどな。こんなのが書けたらどれだけ楽しいことか。羨ましいです。
何度も言うのですが、これはもちろん正解じゃない。しかし僕のなかでは答えです。ありがとうございました。


『解ける』宇井香夏
ああ。やっと取り上げられる。この作者さん、何号か前から掲載されていて、そのたびかっこよくて、書き出していたのですが、うまくいかなかった。作者さんの詩、すごく好きなのですが、こうして書くとなると難しい。まあ、勝手にやってるんですが。すみません。

もう、この1.2節で素晴らしくないですか?世間に流布している「誰にも分かってもらえなさそうなこと」を自慢げに書く人もいますが、作者さんは、本当に自分しかないのではないか、
で、なにがすごいって、こういうことを書いてしまったとき、書けてしまったとき。その着地点がとても難しいんです。頭が輝いているだけ、蛇足になっちゃうんじゃないかと不安になる。ただただ羅列するだけというわけにもいかないし。
で、最後ですよね。もう。かっこよすぎる。痺れます。こんなにかっこいいことってあるか。タイトルの『解ける』は、詩中出てきません。<お伽噺は/結局だいたい魔法に裏付けられていて/わたしみたいなでかい芋虫が/お城で一生幸せに暮らしました。/なんて/そうですよね 順当に考えて>ここの、魔法が解けることくらいでしょうか。いやいや、改めて、何だ、このかっこよさは。ちょっとほかにはないものです。冷たい。読者を意識してないように見えることを恐れていません。なのに飽きさせないのは、もちろん技術もそうですが、熱量がすごいのだと思います。心から思っていることを、そのまま言葉にしてしまえる、鮮度が良くて鋭利です。これからも突き刺されたい。

佳作集Ⅰ

『夢ノ見瑠子』オリエンタル納言
もうこれは、僕の完全な好みです……『笑ゥせぇるすまん』。幼いころから大好きでした。冷静に読めるかなあ。頑張ります。

これのすごいのは、『笑ゥせぇるすまん』を知らない人も分かるところですよね。だから掲載されているんだと思います。説明が徹底して親切で、なのにしつこくない。僕が書いたって、掲載される自信ないです。こんなにうまく説明できない。
そして、でありながら、ちゃんとオリジナリティもある。このかぎられた文字数で、とんでもないことだと思います。タイトルももう最高です。これはファン向けでしょう。「瑠」がポイント。テキトーなんです。こういうのでいいんです。こういうのがいいんです。上澄みだけを掬っているのでなく、奥の部分の味もする。
内容ですよね。これもまた完璧です。言うことがない。文章にしたらこうなるでしょう。これ以上削りようがないし、つけ加えてもしつこくなる。このあたりのバランスは、想像以上に難しいのが、詩中名前を出していないところに見えます。タイトルを名前にすることで、主人公の名前を説明する必要を削っている。作者さんの心にはきっと、常に喪黒福造がいて、こうして励まし(脅し)続けてくれているのでしょう。描きたいことを文字にできて、評価されることはある種の到達点ですよね。僕はなかなかそれが出来ないので、惚れ惚れしてしまいました。


『とうめいな、祈り』渋谷縷々子
詩にも色々な種類があります。が、この詩はそれらをひっくるめてしまっていると感じました。

<雨がしとしと降る夜に、偽物の笑顔を。>もうこの始まりから美しい。吸いこまれてしまいます。この詩にはこれしかないだろう、というような完璧な始まりです。
詩には、行あけで丁寧に生活や思想を語る詩らしい詩と、散文的に自由に言葉を楽しむ詩があると思っていて(ほかにも色々あるのだけれど)。この詩は、このふたつ両方を兼ねているんですよね。行間が独特です。重ならない、離れすぎない絶妙な位置にあり、それがとても気持ちいい。
<電車で海へと向かう、その途中で心中自殺した人のことを思い出す。/わたしには、何が残されているのだろうか。/ずっと祈っている、わたしときみが、幸せになれるように。>これで終わりです。いわゆる詩らしい詩、僕はあまり惹かれないのですが、この詩はその趣がありながら、すっごく好きです。独りよがりじゃない優しさがあって、あたたかさがある。言葉への敬意というか、ひたむきさを感じます。

佳作集Ⅱ

『それだけのこと』東ノ緑夢
ちょっと驚いてしまいました。長い詩ではないのですが、前半と後半でまったく毛色がちがいます。

前半だけ、前半のままで進み終わる詩なら、取り上げられませんでした。好みの問題でなく、この記事の性質上(それと僕の力不足)、こういう詩はどうもうまく書けない。
<(……トン)><ドングリが一つ転がっていた/あぁ、それだけなんです/それだけのこと/それだけのことが大切に思えただけなんです>ちょっと省きましたが。ここで終わりです。詩らしい詩の前半から、突然変わります。これは本当にそうなのでしょう。ドングリを見て、作者さんは前半のこれを書けたのでしょう。それをタイトル『それだけのこと』とし、いわばメインに置いてしまう……どういう意図なんだろう。分かるような気もしますが、本当のところが分からない。前半のまま、書き続けることが嫌になったのかなあ。すっごく面白いです。長い時間心に残ってしまいそう。

佳作集Ⅲ

『一.トマトを投げてくれる人がいた』多田隈倫太
すごくいい詩です。書くことがないくらい。のですが、記事に取り入れたかった。

この詩は4節に分かれていて、1.2.3節では、主人公があらゆるところでトマトを投げる描写が続きます。ここのすごくいいのが、文体が冷たいんです。どうしてトマトを投げるのか、怒鳴られたり、冷たい目で見られてどう思ったのか、そういう描写が一切ありません。ただ淡々とトマトを投げては叱られます。
そしてやはり、こういった詩で気になるのは4節目ですよね。<何も考えずにいたら背中に強い衝撃が来た/驚くと同時に後ろを振り向くと君が立っていた/「今日はトマトないの?」と、/二つ目のトマトを投げつけた/「今日はいいよ。トマトあるから」トマトでビチョビチョになるまで投げ合った/学校とは違い君は優しかった>ここで終わりです。「君」というのは、2節目で出てきた、セーラー服の女の子です。意図せずトマトが当たってしまったのだけれど、この子は振り向きもしない、知らんぷりでした。
「今日はいいよ。トマトあるから」これですよね。この美しさ。すっごくいいです。考えて書けるような台詞じゃないような気がするのだけれど、どうだろう。この詩の複雑で、理解されない点をひとことであたたかくひっくるめてしまいました。すごくいい詩です。1.2.3節のバランスも見事だと思います。

おわりに

Twitterをやってない方(そんな人がこれを見ることなんてあるのか)は知らないかもしれないけれど、見知らぬ人に指摘されてしまいました。
要は、「お前雑記なんて名前つけて勝手にやって、ひとの詩を全部引用してるけどそれっていいの?」ということ。その通りだし、僕が悪いので、全文引用してきた部分を全記事で削除し、この記事でも全文引用はやめています。
とりあえず、noteしか見ていなくて、それで僕の記事にたどり着いた人(そんな人いるのか?)は困惑されると思うので、一応の説明でした。それから、毎月20日前後に書いていたこの記事ですが、ペース遅くなる気がします。色んな本のことについても書きたくて。そちらについてはまた別で書いているので、よかったら見てみてください。

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