ココア共和国2023年1月号雑記

はじめに

2022年1月号から始めたこのシリーズも、とうとう1年周ってしまいました。この号では僕は掲載されませんでした。『廃墟に棲む女』という詩で、そうかあ。これはなかなかいいんだけどなあ。
僕は落語が好きで。この詩も『野ざらし』という落語のネタを少しだけ拝借しています。要は、とってもいい女なんだけど、そいつは幽霊なんです。花咲かじいさんよろしく、隣の男がその幽霊を夜部屋に入れているのを羨んだ主人公が、男と同じことをして呼び寄せようとするのですが、「待てよ……幽霊ってことは、こっから(腰から)下がねえのか……うううん」って悩むんです。まあここがメインじゃなくて、ひとつの笑いどころでしかないのですが。
それを、廃墟に侵入した少年2人に置き換えてみたんですが。だめだったなあ。文字数の使い方が下手なんですよね。くやしい。

傑作集Ⅰ

『飛び立つ前の』高山京子
ココア共和国を読んでいて、タイトルが秀逸な方が多いな、と最近思うようになりました。僕が気づくようになったのか、タイトルに力を入れる方が多くなったのか分かりませんが。ともかくこの詩も、タイトルもまた作品になっています。

「あの子」と「私」の詩です。それがとてもいい。「私が」鳩を抱いていたのではないのです。あの子が抱いていた。「私」を中心に据えることが多い詩という枠組みで、ここで「私」は鑑賞者というか、第三者です。
<あの子はいつも/傷ついた鳩を抱いていた/ひたすら黙って/唇をかみしめて/一点を見つめて>あの子がメインの詩でありながら、その描写はとても短い。そして最後。<あの子に抱かれた鳩は/今にも死にそうで/今にも飛び立とうとしていた/本当はあの子が/鳩そのものだった>ここで終わりです。
思ってしまったので書くのですが(不快だったらすみません)、中島みゆきの歌を想起しました。言葉だけなのに、描写もとても短いのに、はっきりとその表情や覇気が感じられました。これはきっと、作者さんは肯定の意味で書かれていますよね。あの子を非難しているのではない。
傷つき、死にそうになりながらも、飛び立とうとしている。飛び立つということは、あの子にとって、お母さんの前から消えるということも含まれるかもしれませんが、そんなに単純ではありません。<君はそんなことをするために/生まれてきたんじゃない>「私」も長く語ったりしません。なのに、その表情も、背格好まで浮かんでくる。「私」がいなければこの言葉がなければ、ともすれば、飛び立たなかったかもしれない。まさに『飛び立つ前の』瞬間を描いています。ああ。書いていて僕の鼓動まで速くなってしまいました。僕は絵が描けなくて、絵を描ける人をよく羨むのだけれど、卓越した技術と熱があれば、こんなに少ない文字で読者にイメージを伝えることが出来るんですね。


『岬』金森さかな
恋愛を詩にする、となると、どうしてか軽く薄くなりがちです。容量の少ない詩と、長く深くするほど重厚感が増し共感を呼びやすい恋愛は、混ぜるのが難しいのかもしれない。

<いつまでも夢にならないひとがいる/冬の入り口/つま先立ちで生きたい情動>はじまりでもうはっきりと見えます。うまく摑むことはできない、色んな見え方があるでしょう。でも、これは恋人に去られて忘れられないのだ、ということが分かります。
<買い手がつかないまま枯れた花を/窓しかない部屋に飾ってた/笑い声 真っ赤だ、真っ赤だ/永遠に閉じない瘡蓋>ねえ。こんなのなら、恋愛だっていくらでも読みたいです。やさしくて、丁寧で、なのに声は低く冷たい。
<この岬を歩いてきたんだね ほんとうは/断崖 肉体だけが自由だった>ここで終わりです。タイトルの岬もここだけ出てきます。<果てはなかったの/けっきょく辿り着いてしまう、海>2節目のここと繋がっている。これ、すごくないですか?2節目でさらりと見せているんですよ。居場所を。この詩の雰囲気も相まって、断崖に連れてきています。そして最後、もう一度見せてフェードアウト。画面展開、カメラワーク技術のすごさも然ることながら、描写がいちいち美しいです。安易な美ではなく、果ての先に摑んだ重みのある美しさは、こんなに胸に来るもなのかと感動しました。

傑作集Ⅱ

『バミューダ海域ウォーターサーバー』西川真周
これはちょっと補足しておきますね。バミューダトライアングルという海域があるんです。僕も軽く調べただけなのですが、オカルト的な場所で、そこを通った船に乗っていた人たちが跡形もなく消えてしまったり、飛行機が墜落したりする、ちょっと怖い場所みたいです。詩中でもさらりと説明されていますが、そう、それがバミューダ海域で、実在するみたいです。

<世の中はフェアじゃない/けれどもこれはきっと/世の中をうまく回すための帳尻合わせなのだろう>ここです。こういうことって、書きたくても書けないんですよ。しかも物語的な詩ですから、ここだけ浮いてしまったり、物語と合っていなかったりする。けれど、この詩では有効に使われています。また口調もクールなので、ねちっこくない。説教臭さもない。
オカルトにかぎらず、不確かなものと文学って、すごく相性がいいと思っていて。まさにこれですよね。どうしてなのでしょうね?それが不確かであればあるほど、魅力を増します。具体性のあるものは合わないと思う。具体性を兼ねると、大衆小説になってしまうからですかね。言葉で、そのあやふやなものを探っていくところに魅力を感じます。
この物語ほどではありませんが、こういう、自分だけあからさまに損していることって、よくあります。それに落ちこんだりもするのだけれど、こういう考え方を持っていれば平気でしょう。魅力的な物語だけでなく、哲学まで持ちこまれたら打つ手がない。長く人を惹き続ける作品の素、という感じがしました。

傑作集Ⅲ

『焼野原』柄途かなめ
うわ。ちょっと凄すぎる。えええ。1年以上ココア共和国を読んできて、ほかの詩誌ってほとんど読んでいないのだけれど、ちょっと、送る場所が違うんじゃないか。誰を非難しているわけでもなく(なら1年も読めない)、色あいがまったく違うように思えました。新鮮で衝撃的です。

ええと、これはやはり戦争でしょう。いまも近くの国で戦争は起きていますが、僕らの世代からすると(というかいまの日本人はほとんどですよね)戦争というのはどこか昔の話なんですよ。僕も同じく。小学生のころ、おじいさんおばあさんが学校にやって来たりこちらから赴いたりしてその話を聞かされた経験、多くの人があるのではないでしょうか。「聞かされた」なんて言葉を使ってしまいましたが、当時ほとんどみんなそう思っていたと思う。何というか、面白くないし楽しくないんですよね。笑っちゃいけないし、茶化すこともできない。10歳前後の子たちに響くわけがない。
それで言うとこの詩もそうなのですが、この詩はべつに教訓めいていません。だから素直に読めたのかもしれない。疎まずに済んだのかもしれません。
<夕陽が燃えるように佇むのに/なぜだかちっとも/綺麗だとは思わなかった><もうすぐ/山鳴りが終わりを連れてくる/ぼくはそのとき/シャッターを切らない>全部引用したいくらいに美しいのですが、あえて選ぶとすればここでしょうか。とくに最後の2行は度肝を抜かれました。冷たくて、静かで、なのに共感できて、情景が新鮮に目に映ります。言葉すくなに、描きたいことを書く。詩の理想だと思いました。破壊力が違う。

佳作集Ⅰ

『急行』南雲薙
めちゃくちゃ好きです!この疾走感。書いていてとても心地よかっただろうなあ、と思いました。

<急行を待つ 今日の僕は/駅そのものが動き出しそうだった>この始まり。もうわくわくします。すごい。わかりますかね、この言葉の連なり。すっごくいいです。そして後半を隔てる真ん中、<きらめき出す 街並みは/街そのものが動き出しそうだった>ここが対比になっていますよね。惚れ惚れしてしまう、綺麗な情景。
特別詳しいというわけでなく、時々聴くくらいなのだけれど、なぜか、ジャズを思いました。この疾走感というか、不規則なリズム。ぎりぎりで形を保っていて、すこし触れれば壊れてしまいそうな繊細さ。うまく言えないのだけれど、これ、ほんと、すっごく好きです。まだ1月号ですが、個人的年間ベストに入ると思う。素敵です。


『牛』長田壮佑
笑ってしまった。いや、すごいな。タイプです。安部公房のそれをひしひしと感じました。

<「ああ、また牛が出ましたか、/うちは家内が捨てに行きましたよ」と言う>ここがかなりこの詩を決定づけたというか、日常に狂気を混ぜこむ。では、その狂気に対して日常はどのような反応をするのか。ここでは当たり前のこととして受け入れています。となると、この日常も狂気なのか……?それを認められると、読者の常識が、日常が壊れます。
そして、<「じゃあ明日はすき焼きの日ですなあ」/「ほう、そりゃいいですなあ」/「うわはははははははは」>ここで狂気はより一層増しています。コーヒーフレッシュが化けた牛、「明日はゴミ出しの日だよ」と連呼する。それを当たり前のこととする隣の客、そこに「じゃあ明日はすき焼きの日ですなあ」です。もう混沌としています。
最後。<顔を見合わせて大笑いしていると/牛はひと言「グスン」と呟いた/ごめん 冗談です/ジョーダン>ここで終わりです。ここがね、1番すごいと思ったんですよ。読者を怖がらせて終わることもできるわけです。あるいはもっと狂気的にもできるし、牛にフォーカスすることもできる。けど、「ジョーダン」で終わらせた。またそこにも狂気を感じないでもないけれど、それは推し量りすぎというか、やはりこれは、地に足をつけて終わらせたかったのでしょう。こういうものが好きで、よく読むのですが、こういう終わらせ方はあまり見ない気がします。新鮮で、あたたかくてすごく好きでした。

佳作集Ⅱ

『独白』楠 青子
いまではすっかり違うのですが、詩を書き始めたころ、僕はこういうものを理想としていました。けれどなかなか難しい。書くことはできるんです。でも、おもしろいものにすることが、評価されるものにすることが難しい。

<意識があって、自分だという自覚があって、手も足も自分のように動かせる。そんな生き物は、もしかして自分ひとりしかいなくって、他の人間は世界がこう動けとすべて決められている人生を歩む存在なんじゃないかって。>ここが始まりで、この詩の核です。このね、これもめちゃくちゃ難しいんですよ。どうすればうるさくならないか、丁寧すぎず、粗野すぎないか。しつこくてもいけないし、あっさりしすぎていても良くない。口調も含めて、すごいです。
そしてやはり、最後ですよね。<もしも君が同じなら。>からの、最後がとにかくいい。唯我論に留まらず、ここまで飛躍してやっと認められるんですね。いつも隣に置きたい詩です。

佳作集Ⅲ

『えすおーえす』森谷流河
特徴的な詩です。単純でなく、とても綺麗です。

<あれ なにも みえません/どこでしょうか ここは/そらは あおく ないのですか>もうここから惹かれてしまう。憑依しています。何かに憑依するのって、とても難しいことだと思うんです。しかし作者さんは、本当にここにいて、このひと(?)になっています。
<ぱっ ぐさっ ぽっ/わかりますか このかんかく/つたわりますか えすおーえす>そしてこう続きます。この、続けるのも難しいんですよ。はじめてみて、その続きで世界観が決定づけられてしまう。『えすおーえす』はここで出てきます。
ああ、ここから引用してしまうと全部引用してしまう。とても難しいです。いや、詩としてでなく、この魅力を説明するのが。僕の思う、詩の詩たる所以というか、詩の至上の美しさを溢れかえってしまうぎりぎりまで注入した感じがします。言葉と言葉の連なりその空白、想像、創造、儚さ、理不尽、壮大な自然描写。またラストもすごい。張りつめた緊張の糸がたるむことなく保たれています。気力体力が凄まじいのだと思う。

おわりに

なんだか、ペースが上がってきましたね。2022年1月号から始めたこの記事ですが、そのときは40ほどの詩を取り上げていました。
なんでしょうね。僕、嘘がつけないんですよ。いや、めちゃくちゃ嘘つきのだけれど、嘘つきで有名なのだけれど、嘘をつくのが大好きなのだけれど、こういう真剣を出さなければならないとき、冗談の許されないとき、嘘がつけない。「これはすごいな」と思った詩を取り上げている記事の、取り上げる詩の数が減っている――となると、単純に、そう思える詩が減っているんでしょう。たくさん読んでいるとその分、新鮮味が減ってしまうんでしょうね。無理に褒めたりもしたくないし。できないし。まあ、誰かに読んでもらうことを主軸としたものではないので。いいのだけれど、すこし寂しいですね。卒業も近いのかな。でも、日課になってしまってるしなあ……。

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