掌編『青と黄色のトイレの絵本』

「青と黄色のトイレの絵本」女の子は恥ずかしそうに、消えてしまいそうな声で僕に言った。
エプロンからボールペンを取り出す。母親は隣で「すみません」と申し訳なさそうに眉をひそめながら、微笑んだ。
感じのいい親子だった。母親は赤いカーディガンを羽織り、デニムを履き、キャラメル色に染めた髪を首にあたらない程度の長さで切り揃えていた。女の子は目が大きく、4、5歳くらいに見えた。赤いスカート、白いTシャツに厚いもこもこしたアウターを着ていた。

大きな書店で働いていると、よくあることだった。「4日前にテレビでやってたあれ。ある?」とか、「この前なんかの賞取った人がなんかのラジオで宣伝してた本、ある?」とか。
自分で言うのもなんだが、僕はこれを解決するのが得意だった。検索すると瞬時に出てくる、大量の候補たち。そこから少しずつ絞り出し、目当てのものを見つける。
当然お客さんを待たせるわけだから、間をもたさなければならない。あちらはすぐに「待たされている」と感じる。だから優しく、ゆっくりとさりげなく情報を聞き出す。思い出してもらう。「待たされている」と感じさせる時間を出来るだけ削る。
このパターンは、だいたい高齢の方が多い。彼ら彼女らは会話も求める。気持ちよく返事しなければならない。あの人たちは話を聞いていないことに敏感である。話を聞いてもらえないことが多いし、自分が話を聞かないことも多いから。だからそちらにも意識を向けながら、速やかに本を見つけださなければならない。あまり楽しげに話すと、それはそれで真剣に探していることが伝わらない。絶妙な塩梅が必要になる。

書店で働いて4年目だが、見つからないことなどなかった。見つけた結果、書店では取り扱えないものであったり、絶版になっていたりするものはあったが、必ず見つけることが出来た。お客さんが苛々して帰ってしまう前に。だから、先輩にも「ちょっと見つからないんだけど……」と頼まれることも少なくなかった。どんなものでも、瞬時に、的確に探し出してみせた。むしろ、見つけられない理由がよく分からなかった。ほかの仕事はさっぱりだったから、このことにだけはプライドを持っていた。

この時もそうだった。綺麗な女の人だった。僕より少し歳上、20代後半くらい。優しく穏やかで、温和な生活をしているのが全身の雰囲気から醸し出されていた。女の子もこんな女性になるんだろうな、と思うと柔らかい気持ちになった。
「少々お待ちくださいね」そう女の子に微笑みかけ、母親にも目配せして検索した。「青 黄色 トイレ 絵本」たくさんの絵本が出てくる。画像だけ表示し、パソコンを女の子の方に向け、「どれかあるかな?」とゆっくり優しく話しかける。女の子は人見知りが激しそうな子だった。
下にゆっくりスクロールしてゆく。首を傾け、親指をかじったままの女の子。画像を見せているあいだ、こちらに出来ることはない。相手の反応を注意深くうかがう。
「無さそうかな、ちょっと待ってくださいね」ひと通りスクロールし終わると、こちらに画面を向け検索し直す。「すみません」と母親は言った。「すみません」を言い慣れている人の言い方だった。「お忙しそうなのに」
「いえいえ、気にしないでください。土日はどうしてもね。うるさくてすみません……この本屋さんで見つけたのかな。テレビとかに出てたの?」と女の子に訊ねた。
女の子は眉をしかめ、口角を上げたまま首をかしげる。母親の癖が身についてしまったようだった。いちいちの動作が可愛らしく、嫌味がなかった。「この本屋さんで見かけたんだよね?」と母親が女の子に話しかけてくれた。「絵本のコーナーにあったみたいで。いっぱいあったみたいなんですけど」
そういう時は、その棚の担当に聞いた方が早く済むことが多い。「担当の者に確認しますので、もう少しだけお待ち頂いていいですか?」と言うと、母親は「全然大丈夫です、申し訳ないです。ありがとうございます」と頭を下げた。「ありがとうございます」を言い慣れた人の言い方だった。「それ買ったら、ちゃんと1人でトイレ行けるようになるの?」という母親の声が、微かに後ろから聞こえた。

絵本の担当者はすぐに見つかった。彼女はかなりのベテランで、僕の入社したころからいて、いつの間にか部長になっていた。僕が女の子の指示を書いたメモを見せ、心当たりがあるかを訊くと、「うーん」と唸って資料を出してくれた。
「トイレの絵本って、意外と限られてるのよ。定番のものがシリーズ化しちゃってるから、人気のないものは作るだけ作って、すぐに絶版になっちゃうし」と彼女は言った。
「たぶん、目立つ感じで置いてあったんだと思います。積んでたか、面陳してたかと思うんですけど」
「きみがそう言うんなら、そうなんだろうけど……」素早くパソコンの前に立ち、データをさかのぼる。「いや、ここ何年も、そういう本は目立った感じで置いてないわね」
一緒に行こうか、と彼女が言うので、先ほどの親子のもとに駆け寄った。1分も経っていなかった。が、親子は姿を消してしまっていた。

「忙しかったんじゃない?よくあることだから、気にしなくていいわよ」と彼女は言ってくれた。僕は半ば放心状態で、慰めてくれる彼女に感謝だけ告げた。しばらくその親子がいた場所を注意していたのだが、戻ってくることはなかった。
それからは仕事に身が入らなかった。レジ打ちを3度間違え、落ちていた本を踏み、発注を忘れて帰宅してしまった。
見つけられなかったことがショックなのではなかった。いくらか傷つきはしたけれど、そんなことがどうでもよくなるほど、確かな違和感があった。それは、あの親子は、本当にいたのか、ということだった。

いや、たしかに存在していたし、見た目もはっきりと覚えていた。パソコンを開けば、大量の「青 黄色 トイレ 絵本」の候補が出てきた。けれど、彼女とあの場所に戻ったとき、初めから何も無かったかのような印象を受けたのだった。
ここに、誰かが置きっぱなしにした空の缶コーヒーがある。でもこの缶コーヒーからは、かつて中にコーヒーが入っていたことが分かる。缶コーヒーは、中のコーヒーなしに存在できない。
その違和感は、そういうものだった。この缶コーヒー、最初から何も入っていなかったのではないか。誰にも飲まれず、いつからかここに生まれ、生まれたときから空だったのではないか。

ベッドの上で、僕は絵本探しに没頭した。その想像を、自分の中から掻き消してしまいたかった。あの親子の存在を認めたかった。その作業は数時間に及んだ。青い表紙のトイレの絵本はあった。黄色い服を着た女の子とトイレが表紙になっている絵本もあった。でも、青と黄色どちらも表紙に使われている絵本は、どうしても見つからなかった。

それから僕には、悪いことばかり起きた。仲の良かった女の子に突然ブロックされ、iQOSが壊れ、楽しみにしていた同窓会を忘れてしまい、4年間1度もしなかった遅刻を、寝坊で繰り返した。天気頭痛が慢性的になり、シャワーが壊れ水しか出なくなり、財布を落とし、弟がニートになり、父親が糖尿病で入院した。
そのたびになぜか、あの親子のことが頭によぎった。もう何ヶ月も経っていて、思い出すことは無くなっていたのに、悪いことが起こるとフラッシュバックのように、あの綺麗で優しそうな母親と人見知りの女の子が出てきた。

とうとう僕は仕事を辞めてしまった。度重なる遅刻に加え、ちょっとした書類のミスが色々な人の介入により大ごとになり、会社の金をごまかしたように捉えられてしまうものになった。客観的にみて、僕が上の人間でも疑うと思う。それくらいどうしようもないものだった。反論の余地はなかった。それでも、居心地が悪くても無罪を主張しようとしたが、「懲戒解雇すると、履歴書に傷がつくよ」と言われたことが決め手になった。
ほとんどの人たちは辞めてゆく僕に、蔑んだ目で別れを告げた。絵本担当の彼女は、目も合わせずに「おつかれ」とだけ言った。何人かの人は僕を憐れみ、悲しんでくれた。「寂しくなるね」と直属の上司は言ってくれたが、そこまでだった。下手なことを言うと、自分も被害を受ける。面倒なことに巻きこまれたくない。そういう雰囲気が全員から醸し出されていた。僕はその程度の人間だった。

数週間が過ぎ、アパートを売り払い実家に帰り、家事とバイトに明け暮れていた僕に電話がかかってきた。あの書店からだった。渡した書類に不備があったらしい。印鑑だけ持ってきてくれればいいから、と彼は言った。知らない名前の、知らない男だった。
久しぶりの職場は、あたたかさを取り戻していた。みんなが僕のことを忘れ始めているからかもしれない。あるいは客の視点からみれば、ずっとあたたかい書店だったのかもしれない。
レジは相変わらず混雑していた。問い合わせカウンターに行くと、電話口の男がすぐに僕を見つけ、面倒くさそうに声をかけた。「ちょっと待って、すぐ持ってくるから」
事務室に行かなくていいのか訊ねると、「従業員じゃないよね?」と苛立たしげに言い放った。
他はみんな、見慣れた従業員だった。笑顔を振りまき、懸命に仕事をしていた。まだ1ヶ月も経っていないのだから見慣れているのは当たり前なのだけれど、なぜか懐かしい気がした。ぼうっと待っていると、たくさんの書類を持った絵本担当の彼女が、こちらに向かって歩いてきた。僕を一瞥し、鳩の死体でも見たような表情をすぐさま感じのいい笑顔に変え、「お問い合わせですか?」と僕の隣の客に話しかけた。
「はい。あの、青と黄色のトイレの絵本を……」

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