ココア共和国2022年5月号雑記

はじめに

色々と書いてみました。この記事に疑問がある方は、読んでみてください。

傑作集Ⅰ

『チョコの拳銃』高平九
一筋縄ではいかない詩です。そういう詩は、読むとすぐに分かります。気を引き締めて考えていきます。

物騒な詩にみえますが、主人公は何もしていません。すごく優しくて可愛らしい詩です。たくさんのメタファーが散りばめられているようにもみえますが、やはり、まっすぐなものではないでしょうか。
現実は1節目と5節目、<きがつくと/公園でくつろぐ手にチョコレートの拳銃が握られていた><はやくぶっぱなさないと溶けちゃうよ/袖をひいて赤い風船の少女がそそのかす/あまい弾丸をちょうだいと/開いた口の中に/虫歯がある>ここだけ切り抜くと分かりやすいでしょうか。チョコの拳銃はこの少女のもので、ぶっぱなしてもらうために手に握らしたのでしょう。
なので、2.3.4節目は、チョコの拳銃を持った主人公の妄想です。ここがすごくおもしろい。リアリティがあって、狂気があって、なのにファンタジーです。ここで気になるのは、「シ」をカタカナにしている点。これは、死を書きたくない作者さんのこだわりでしょうか。私はこのファンタジーにやられてしまい、ドレミ音階の「シ」だと決めつけてしまっていたのですが、死が1番想定しやすいですよね。もしくは本当にドレミのシで、おもちゃの拳銃のトリガーを引いたときの音を表しているのか。主人公は、本当はおもちゃだと分かっていて、狂気的な妄想群のなかに、すこしだけあそびを加えてみたのか。このあたりは明言できません。
確かに言えるのは、この少女は、何発も撃たれているということ。虫歯が根拠となるのですが……彼女を可愛らしい平和な女の子とするのか、はたまた別の、恐ろしい見方をするのか。チョコの拳銃を握った瞬間に、公園でくつろぐほど穏やかな性格の主人公が、このような妄想を繰り広げてしまったこともまた、想像の幅を広げている、少しでも潜ろうとすれば、どこまでもずぶずぶと読者を沈めてしまう恐ろしい詩でもあります。


『花ねこちゃんと四季ねこくん』月読マナ
すごく読みやすくて、分かりやすい詩です。でも、難しい。なにが難しいのでしょう。

花と四季。これは、便宜上の名前にすぎないのでしょうか。なにか意味があるのか。花ねこちゃんは花から生まれた妖精さんですが、四季ねこくんは、四季から生まれたのでしょうか。何にしろ、ふたりとも前は人でした。難しい。花に四季は、四季に花はつきものですが。共通しているのは、花も四季も姿を変えることです。とにかく、そんなふたりは、花畑に行くのが大好きです。
人。この詩で、人はかなり重要です。前まで人だったふたりは、どうして妖精になってしまったのか。どのような姿かたちをしているのか、そのあたりの説明は一切ありません。あまりの説明不足に(作者さんは意図してそうしていると思うのですが)狂気さえ感じました。あまりに広い想像の幅は、ときに人を恐がらせます。最後。<前のふたりは好き同士だった。/思い出したふたりは満月の夜にだけ/人に戻れるようになったんだよ。>どうして忘れていたのか。どうして思い出したら、どうして満月の夜にだけ、人に戻れるようになったのか。分かりません。あくまでおとぎ話と捉えた方が良いのでしょうか。読みやすいのに、分かりやすいのに、難しい。謎が多く、心に残る詩です。ホラーって、いきすぎるとこうなるのでしょうか。あるいは作者さんの意図しないところかもしれませんが。興味深いです。

傑作集Ⅱ

『あなたが死にたいとおっしゃるなら』現代詩お嬢様
現代詩お嬢様シリーズ(と呼ぶのはなんだか適切でない気がしますが)では、ちょっと異端に熱い詩ではないでしょうか。現代詩お嬢様の感情がここまで剥き出しになるのは、珍しい気がします。

なんだか、もう、憑依なんてものではなく、そのまま自分の身体に現代詩お嬢様を取りこんでいますよね。ここまでくると、もう敵わないです。完全に作者さんのなかに、この人はいる。予想だにしない答えだって返してくれるのではないでしょうか。
考察はとくに必要ないと思います。介入の余地がありません。穏やかに、ゆっくりと、なのに激しく、現代詩お嬢様は語りかけます。言いたいことはたくさんありますが、<光を柔らかに跳ね返すひびが入ったビー玉のようにあなたとの思い出を眺めることでしょう。>ここ、こういうところが、現代詩お嬢様がこれほど長い間、高く評価され続けている理由だと思います。狭間狭間のピリッとした、リアリティのあるたとえ。現代詩お嬢様だから、すっとイメージできるんです。
誰しもが考え、悩む、生について死について。現代詩お嬢様は、ただ、お話しくださいませんこと。と、受け身の姿勢です。何かを響かせようとか、そういう欺瞞を微塵も感じさせません。死にたい、という言葉を言い淀んでいるところもいい。これは、現代詩お嬢様が書いています。


『フルシティーロスト』空見タイガ
フルシティローストというコーヒーの焙煎度合いをあらわす言葉があるらしいです。この詩ではコーヒーは重要なのですが、タイトルは誤字ではないです。シティーがロストするから。

すごく好きです。ぞくぞくする。だけど、こういうものは何を言っても蛇足にしかならない気がして、なんだか難しいですね。読んだまま、浮かんだままが正解だと思うので。
これは、土砂なのでしょう。なぜ土砂なのかというより、なぜコーヒーじゃないのかを伝える方が簡単で、似ているのは色あいくらいでしょうか。「これはコーヒーだよ!」は、2度出てきますが、2度目は主人公の反芻なので、発せられたのは1度だけです。なぜコーヒーだと言ったのか。パニックのあまり、言葉がうまく出てこなかった、というのがまっすぐな見方でしょうか。登場人物は、「これはコーヒーだよ!」の隣人、溺れているのか、困っている地上の人、主人公、汚れのない足裏の上の階の住人、の4人です。言葉だけとれば隣人が異常ですが、行動をみれば、主人公と上の階の住人が異常です。飛び降りて助けなかっただけでなく、<飛び降りた人の浮かぬ顔が見えなかった>なんて言ってしまうのですから。抜けているというか、冷酷というか、とにかく少しおかしいです。助けに行かなかっただけならば、身の安全を守るという観点で正しいのですが、浮かぬ顔を見に行かせているのがうまいですよね。作者さんは、この主人公を異常にしたかった。でも、主人公は、これが土砂だと分かっている。分かっているのに、慌てている様子もない。逃げる様子もない。まちを覆ってしまうような土砂災害、隣人の言葉ひとつがずっと引っかかっている主人公。ここで想像するのは上の階の住人です。住人は何を考えているのか、どんな容姿で、何をしたのか、そのあたりはまったく書かれていません。なので正解はないのですが、私は、主人公と同じなのではないかと思いました。ずっと、<土砂だと思っ>ているのではないか。この、状況と配置、思考のアンバランスに痺れます。


『春の孤独死』熊野ミツオ
悲しいとか寂しいとか、そういう簡単な言葉で人間の感情は表せません。複雑な心理を描写できてしまった作品を目の前にすると、奇妙な感覚に陥ります。

春の孤独死です。ひとつの作品として、すごく綺麗にまとまった、という感覚が引用していて伝わりました。たくさん引用してきましたが、初めてかもしれない。自分が書いたかのような気持ちよさ。
春の孤独死ですが、孤独死したのは春でしょうか?<ルルル/春が来た>が少し合わないですよね。冬に孤独死してしまったのでしょうか。虫が湧いてきたので春を感じたのでしょうか。主人公は死んだことを時々忘れます。そういうところが、本当にひとりだったんだろうな……と。細部まで抜けがありません。そして、最後に出てくる恋人。これは奇妙なあだ名をつけた恋人でしょうか。<恋人が笑顏を浮かべていた/ぼくはもう死んだんだよ>これはどういう笑顔なのか、どういう報告なのか。孤独死したくらいですから、生きていたとき、この恋人との縁は切れたのでしょう。そして、主人公の死んだことを恋人は知りません。死体が誰にも見つかっていないから。こちらまで沈痛な気持ちにさせられます。改めて思うのですが、この短い文字数で、ここまで読者の感情を揺さぶられる人って、ものすごいですね。しばらくこの詩のこと、主人公のこと、恋人のことを考えてしまいます。

傑作集Ⅲ

『あなたがスティーヴン・キングなんかに詳しいといいんだけど』西川真周
これはたしかに傑作です。この記事を書いていて、ココア共和国における佳作と傑作のちがいに疑問を抱いたことがあります。すごく面白いのに、傑作に選ばれていないものが多々あるんです(私の審美眼は置いておいて)。傑作は、なにをもってして傑作なのか。未だ定義を掴めずにいるのですが、これはたしかに傑作だ、と思いました。というより、佳作ではないよな、と。どうしてか分からないのですが。

分かったような気がしました。佳作と傑作は、推敲にかかった時間によるのかもしれません。もちろん、例外はたくさんあるのでしょうが……引用していて、すごく推敲に時間をかけたのではないかな、と感じました。たとえばここ。<それにしてもオリーブを食べるタイミング/というのが僕には今ひとつわからない>どうしてそう感じたのか、力不足でうまく言語化できないのですが、パッとでてくる文章、改行ではないように感じました。
内容ですが。まず、この語感がすごく良いですね。「あなたがスティーヴン・キングなんかに詳しいといいんだけど」。これって、何なんだろう。口ずさみたくなる。どうしてこの詩を書こうと思ったのかなって、色んな方を取り上げさせていただいているうえで、毎回考えるようにしているのですが、この詩は特にそう思いました。このタイトル。このタイトルの台詞を言いたかっただけなんじゃないか?まずこのことばが思い浮かんで。これを誰に言わせようか、どんな状況で言わせようか……。そのようにして浮かんだんじゃないかと思うくらい、素敵な台詞です。そういうものの作り方ってすごくよく分かるんです。
もうすこし潜ってみます。やはり、この女の人の話がミソでしょう。<「キングが子どもの頃、家にお風呂がなくて、/凍えるような寒い日でも、親戚のお風呂を借りに/かなりの距離を歩いていたらしいの。/けどね、それにもかかわらず彼はとびっきりの肥満児だったのよ」>これが事実かどうかは関係なくて、このエピソードをここに挿入した理由が知りたいです。彼女の台詞はこれだけなのですから(そして、主人公はついぞひとことも話さない)。
レイモンド・カーヴァーという作家の、『でぶ』という短編小説があります。これは文字通り、太った男がレストランで、たくさんものを食べるという話です。ウエイトレスに「私なんかずいぶん食べるのに、どれだけ食べても太らないんですよ。一度太ってみたいものだわ」と言われたその男の台詞。「私どもにもし選ぶことができますなら、答えはノオですな。しかし選ぶことなどできんのですが」この台詞が頭に浮かびました。選ぶことなどできんのですが。これは、この詩の女の人も同じなのではないか。
つまり、たくさんの(でも自分では気に入っていないと思われる)ホクロがあること。ドライマティーニのオリーブを完璧なタイミングで口に入れてしまうこと。それは、太っていること、太らざるを得ないことと同じ、自ら選ぶことができない、ある種の呪いなのではないか。キングが貧乏であること、なのに肥満児だったことも同じです。そこに環境とか、努力は介在する余地がない。にもかかわらず、それが人生に及ぼす力は絶大です。そう読むと、最後<二杯目のドライマティーニのオリーブを/完璧とも言えるタイミングで口に入れた/彼女の口元に/ホクロがひとつ/増えたような気がした>ここも納得できます。太っていることやホクロが多いことと同じく、ドライマティーニのオリーブを完璧なタイミングで口に入れてしまうこともまた、彼女自身の気に入らないことなのです。主人公の、女の人への細かい描写から彼は観察力に長けていることが読み取れます。だから女の人がほくろを気に入っていないことにも説得力がある。太りたくない、というのは多くの人の共通する願望ですが、ドライマティーニのオリーブのように、人間は、どんなことからも自分の醜さを見つけ、そして呪い続けて生きていきます。選ぶことなどできんのですが。の意味を、またすこし深く飲みこめた気がします。


『子供が見る、犬が見る。』楓糖
昭和初期を生きた文化人の、上質なエッセイを読んだ感覚になりました。それは、たくさんの要素、目線が含まれていて、視点が物静かであるからかもしれません。

おそらく、純粋な疑問から生まれた詩なのではないでしょうか。皮肉って言っている感じもしなくはありませんが。ここで重要な視点は、散歩しているのは犬ですが、散歩させている誰かがいるだろうということです。そこに、あえてなのか、言及していない。野良犬は歩いていても、散歩という感じがしませんものね。<大人になっていくにつれ/障害者の事 世の中の事 社会の事 病気の事/事故や怪我の事などいろいろ学んでいくだろう/そうしたら 私の姿も不思議には感じなくなるだろう>不思議には感じなくても、どうしても、不憫には感じてしまいます。この主人公の姿は詳細に語られていません。年寄りではない、杖をついている。そしておそらく障害者なのでしょう。子供はどうして杖を突いているのか?不思議に感じる。犬も同じなのでしょうか。
すこし違うのではないかな、と思うんです。それなら動物は何だって良かったはずで。飼われている犬、という点。犬は、リードを持つ飼い主の気持ちを敏感に察したのではないか。憐れみを、ある種の恐怖ーー倒れられたらどうしよう、杖で殴りかかってこられたらーーを。だから犬の目線は書かれていません。子供のそれとは違うのでしょう。子供が見る、犬が見る、大人は見ない。鋭く刺さる詩です。


『妻の秘密』でおひでお
ちょっと、個人的な経験と重なってしまい、客観的に判断できる気がしないのですがとにかく、すごく好きです。この不思議な感覚は何でしょうか。

<忙しかった私の仕事もようやく落ち着き>とあるほどに年齢を重ねていて、ということは、共にした時間もかなり長くなっているだろうに、2人は、まだ恋をしています。そこがすごく可愛らしい。
愛は赦しだといいます。それでいうと、2人は恋をしていますが、愛しあってもいます。主人公は妻のことが好きでたまらない……そのことを、この詩を書き起こしながら気づいたのではないでしょうか?文字化される妻。こんなに魅力的だったのか、そして、こんなに惹かれていたのか、という改めての感情が、端々に感じられました。こういう女の子、僕も知っていますが、魅力を伝えるのがすごく難しいんです。嘘っぽく、あるいは自分がキザになってしまう。ふわふわと、うまく掴めないんです。本当に異星人なのかもしれない。それがみごとに描かれています。
なにかを書きたいと思う理由って人それぞれですが、抽象的な事象を、かたちとして実感したいという欲求もそのうちのひとつだと思うんです。文字として形づくってゆき、果てに何があるのかを知りたい。私はそういう理由で異星人を書こうとして、書けなかったのですが。作者さんは愛の確認、告白に行き着きました。自分まで書けてしまった感覚になりました。ありがとうございます。

佳作集Ⅰ

『コンゲンテキな、あまりにもコンゲンテキなネコ』英田はるか
詩自体のかわいらしさ、おもしろさはもちろんなのですが、技術もまた気になりました。なにを書いているのかと同じくらい、どう書いているのかが気になります。

うーん。いい。終わり方がすごいですね。私がここで取り上げたいのは、この終わり方にすべてつまっています。
メタ視点という言葉は、さほど珍しくもない言葉ですが、実は難しいテーマです。書かれているもの、書いているもの、このどうしようもない矛盾。これを読者は忘れて(忘れたフリをして)ものを読み、観ます。だから感動できるわけで。ジブリ作品だって、宮崎駿の顔がずっと浮かんでしまうと内容も頭に入ってこないでしょう。うまく説明できている気がしませんが……。
で、この詩です。<ネコのみいの頭の中で妄想が爆裂した。家の者が寝静まった後、こっそりソファの上で猛特訓。><ネコのみいの目には大粒の涙が……。/な〜んちゃって!><あたしはね、コンゲンテキな、あまりにもコンゲンテキなネコなのよ、馬鹿にしないでね、とネコのみいはキラリと目を光らせて悠然と闇に消えた>ここ。これを書いているのは誰なのか?普通はあまり気になりません。作品にはこういうことが往々にしてあるのだし、書き手の声はとても重要だから。なのに私が気になってしまったのは、この詩のなかのネコが、あまりにネコだからです。完全に憑依している。書いていてすっごく楽しいんだろうなあと感じました。引用していても楽しかったです。
なのに、完全に憑依しているのに、書き手の声ははっきりとしています。何なら、ラストも書き手に任せている。この違和感は、作者さん自身も気づいていることだろうと思います。読者よりも強く感じているでしょう。だから<ネコのみいの目には大粒の涙が……。/な〜んちゃって!>このくだりがあるのだと思います。この違和感。誰が書いているんだ?みいというのは、meと掛かっているのでしょうか。私はネコなのだ、私がこのコンゲンテキなネコなのだ、と。とすれば、ラストもネコのみいが書いているのか。
また、主人がすべて想像して書いているという見方もあります。脚を組み、タバコを踏みつぶすネコのみいの描写。だから、あくまで作者は人なのだと伝えたくて、こういう終わり方にしたのか。どちらも否定できません。おもしろいです。書き方の技術を考えさせられます。


『夢先案内状』山羊アキミチ
これも同じく。書いていてすごく楽しいのが伝わってきます。でありながら、技術が凄まじい。これだけ書けるなら、楽しいよなあ。

これは、誰が誰に向けて、何の目的で説明いているのか……というのは、最後まで謎のままです。そんなこと、どうでもよくなってしまうくらいに文章が見事です。たとえば<「ば」の字が剥げた「たばこ」の看板の酒屋を過ぎて二つ目の信号を右折すると黄色い公衆電話が見える>この凄さ。なんてことないように見えて、このさびれた雰囲気を醸し出すのは並じゃない。
この文章を読んで、読者はどのような情景を思い描くのか。それをテーマにしているのでしょうか。何より伝えることが難しい、文字という媒体。絵も音もにおいもない。なのに、この詩は同じ情景を無数の読者に向けて鮮明に浮かばせます。その気があれば訪ねてくれ、来れるものなら来てみろ、いや、もうお前はそこにいるんじゃないか?すごくかっこいいです。あこがれます。


『ポエジー』太田尾あい
映像を文字化することは、その道を志す者なら誰でも憧れるところです。さらに、この詩のすごいのは、映像でさえ難しい表現を映像化(文字で)してしまっています。

わああ。すっごくいいです。書きながら心があたたかくなって、ドキドキしていました。
誰にでも詩は書けます。そして、すこしでも詩や文学に興味があって、そういう人が詩を書くと、こういうものになると思うんです。でも、その類とはまったくちがう。似たジャンルでありながら、比べものにならない。一文一文が光り輝いていて、重く、熱い。
<その花びらをひろいあつめることは、花のポエジーをあつめることだ。花びらはてのひらで、ひとつの詩になる。季節と日々が手をつないではずかしそうにしているから、そっと背をおすとたのしそうに走り出す。>ここ、花びらをひろいあつめ、季節と日々に背をおしてやるのは、作者さんです。自然たちのまどろみ、それだけを書いて優れた作品にすることはかなり困難で、やはり人間が必要なのですが、作者さんは違和感なくここに混ざっています。出てくるのが、手だけだからかもしれない。
そして、なんと言ってもここ。<風が薫る。緑が光る。雲がながれて、影ができる。あたりいちめん詩であふれる。>この重み。難しい言葉ではないけれど、使いこなすのは容易ではないです。詩のかたちを詩にしてしまっている。好きとかじゃなく、もう、感服してしまいました。

佳作集Ⅱ

『世界の始まりについて』宇月 湊
すごいです。7行にすべてが詰まっていて。究極のかたちのひとつだと思います。

これは恋人にむけてのもの、でしょうか。子どもかな、とも思ったのですが、やはり少し違う気がします。
多くを語らずとも読み取れてしまう詩は、なるだけ扱わないようにしているのですが、この詩はどうしても載せたかったです。すごくいい。この詩の何が異質かというと、この詩の「君」はずっと悲しんでいるんです。ただ目だけにフォーカスをあてているところもすごいのですが、恋人を描くうえで必要な笑顔や、明るさがない。それと創造を重ねています。ありきたりでなく、なのに説得力がある。世界の始まりは君の涙だったんだろう。同感です。


『珈琲色の詩集をどうぞ』工藤哲椰
珈琲、私もすごく好きです。珈琲が好きなひとが詩を書いてみようと思うと、珈琲を扱ってみたくなる気がします(なんとなく、詩、ぽいし)。だけどうまくいきません。ありきたりな言葉でしか表現できない。この詩はちがいます。

珈琲好きじゃなくても飲みたくなるような、そんな詩です。珈琲を詩にしようとしてうまくいかないのは、人が足りないからかもしれません。この詩は、珈琲と同じくらい人を大切に、描いています。そう、珈琲は人が飲まないと完成しないんですよね。軽く丁寧な口調の文体が、この詩と合ってさらに深みを増しています。

佳作集Ⅲ

『眼』天原・落
鋭く冷たい。作者さんは、詩を書くことが好きなんだろうな、と思います。そしてだから、壊してしまうことが快感なんじゃないか。

詩は、一定のリズムを刻みながら進んでゆきます。教科書に載っていそうな、美しい花畑。皆の笑い声、写真、漂う香り。なんといっても、最後の1行に尽きるのではないでしょうか。こわい。これを書くために6行を費やしたのか。初めから企んでいたのでしょうか。
そうではないのではないか。作者さんは、ただ菜の花畑を書いてみようと試みたのではないかな、と思いました。初めから前座と思っていたにしては、この6行もすごく力が入っているから。で、最後の1行、ふと溢れてきた。そんな雰囲気を受けました。それは作者さん自身も自覚していないかもしれない、奥底に溜まっているものなのでしょう。そしてそれが、ものすごい力を持っています。こういう人を天才というのでしょう。

おわりに

この記事から、雑記についての説明(いいわけ?)を添付するようにしました。まったく、私はすごく傲慢だと思います。本心で。どうせ傲慢なら、できるかぎりの力で読みこみたいと思います。まだ続けますので、よろしくお願いします。

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