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日本人の自己肯定感が低いのは、「過剰な自己責任論」等が原因です。

2021年も終わろうとしている12月。Twitterのおすすめで、こんなツイートが私の目に飛び込んできました。

これはマジな話、自己肯定感が爆上がりする習慣は「髪をセットする」「スキンケアを楽しむ」「1日6分の読書」「週2の筋トレ」「声に出して笑う」「ちゃんと泣く」「白い靴をはく」「今の自分を受け入れる」ないものねだりより、あるものに感謝。自己肯定感が低い人にはプロフの最後の言葉も届けたい。

ツッコミどころ満載の内容に、思わず盛大に吹いてしまったのですが、あろうことか、これが5.3万いいねもついていたのです。「やってみます!」というリプが多々ついていたのですが、クリティカルシンキングができれば、これがデマだというのは小学生でもわかりますね。

たとえば、白い上履きを学校で毎日のように履かされている日本の子供たちは皆、黒い革靴の大人たちや、上履きの無い他国の子供たちに比べて、自己肯定感が高いのでしょうか? いいえ、当然ながら人それぞれです。むしろ他国の子供たちよりも低いという調査すらもあります。

◆気分と自己肯定感をはき違えている?

そもそも、自己肯定感は「ありのままの自分を肯定する感覚」というのが本来の意味であって、多少の状況の変化に左右されるものではありません。当然ながら、靴色、髪のセット、筋トレの習慣という表面的行動次第で簡単に上下するものではありません。

ツイート主の彼が髪をセットしたり、白い靴を履いたり、筋トレをして上がったのは感じたのは、おそらく単なる「気分」でしょう。気分か何か別のものと自己肯定感をはき違えたのだと思います。

この手の言説は、自己啓発界隈でありがちな「Toxic Positivity(有害なポジティブさ)」の一種であり、実際は「本当に自己肯定感を下げている要因」には向き合わず、「目先の一時的な気分の盛り上がり」を追い求めてるだけに過ぎません。

◆自己肯定感は上がらない、ゼロに戻るだけ

一方で、自己肯定感を「上げる」という表現は、非常に紛らわしいと感じています。筋トレと同様に、「頑張れば上げられるもの」として捉えられたり、語感から「自分が大好きな人」「キラキラしている人」のようなイメージと混同されがちです。

ですが、自己肯定感を上げるというのは、正確に言えば、「マイナスになってしまった分をゼロに向かって押し戻す作業」だと思っています。抽象的に言えば、「マイナス引くマイナスによるプラス」です。

要するに、自分の「自己肯定感を押し下げている原因」を一つひとつ明らかにして、その影響を日常生活から少しずつ減らしていくことによって、結果的に「下がった状態から脱出する」ものであって、「自分大好き」「キラキラ」のようなイメージとは全く違うわけです。

◆自己肯定感は社会環境の影響を強く受ける

では、どうすれば「自己肯定感を押し下げている原因」を見つけられるのでしょうか。基本的には、専門の医師や臨床心理士等によるノウハウが発達しており、それらを受診したり、彼らの書いた書籍を読むことが大事でしょう。

その一方で、場合によってはそれだけでは不十分な場合も多いと思います。というのも、自己肯定感は、彼らが専門とする「(1)認知の問題」や「(2)対人関係の問題」に加えて、社会、文化、制度、組織構成等、「(3)環境の影響」を強く受けるからです。

たとえば、子供の頃にイジメを受けて、自己肯定感が大きく下がったという経験がある人は少なくないはずですが、イジメの多くは、単なる人間関係のトラブルだけでは発生しません。

イジメとは、(1)学校や家庭において人権教育という予防策があまり施されていないことや、(2)刑法に抵触するような暴力や人権侵害であるにもかかわらず厳しく対応しないという学校や加害者の親の人権意識の希薄さや、(3)止めようとしない傍観者が多過ぎて抑止が効かないこと等、様々な環境的な要因があって起こる社会問題です。

システム的に分析・理解するスキルが不可欠

つまり、「自己肯定感を押し下げている原因」を正しく理解するためには、「認知の問題」や「対人関係の問題」に関する理解に加えて、環境的な要因を見極めるために、物事をマクロで捉えてシステム的に分析・理解するスキルが必要不可欠なのです。

ところが、この点について、日本ではほとんど注目されていないのが実情でしょう。これにはやはり、教育の問題が非常に大きいと思います。

日本の教育は前例主義や大人による管理の視点が根強く、授業にクリティカルシンキングを取り入れている教師の割合は世界でも最低クラスと言われています。

自分の頭で考えて「当たり前」を疑うスキルを育たてていないため、「物事をマクロで捉えてシステム的に分析・理解するスキル」も身につかないのは当然ではないでしょうか。

◆賃金格差の理解が女性蔑視への逃走を止めた

ここで一つ、私自身の話をしたいと思います。businessinsiderさんから以前受けたインタビュー記事でも話したことなのですが、私は大学生の頃、「仕事はまだしないつもり」とパートナーに言ったら、別れを告げられるということがありました。

多くの場合、突然別れを告げられるのは、自己肯定感を押し下げる要因になるでしょう。そんな中、何とか自分を保とうとして、「所詮は女は地位や金目当てだ!」と女性蔑視を強めてしまう男性も多いかもしれません。

ですが、私は自己肯定感を下げずに済んだ&女性蔑視に逃走せずに済みました。それは、「女性が男性の収入を条件に据えなければならないのは、男女の賃金格差という日本の社会構造に原因があるからで、決して相手が悪いわけではない」と、社会をマクロで捉えて構造を正しく理解できていたからです。

◆誰もがスキルを身に着けることができる

このように、たとえ自己肯定感を押し下げる要因が発生したとしても、「物事をマクロで捉えてシステム的に分析・理解するスキル」があると無いとでは、受けるダメージの量が大きく異なるのです。

私は幼いころから「人と一緒は絶対嫌だ!」という意識が強烈にあり、「人と一緒にしろ!」という圧力に抵抗するための説得力を身に着けることに必死だったため、おのずとそのスキルを身に着けることができました。

確かに「人と一緒は絶対嫌だ!」という意識は生まれ持ったものですが、このスキル自体は生まれ持ったものではありません。あくまで後天的に身に着けたものであり、誰もがトレーニング次第で身に着けられるものです。

自己責任論が自己肯定感を大きく下げている

一方で、こういう環境要因・社会的要因を探る話をすると、必ず「いやいや、お前に原因があるのだ!」「何でも社会のせいにするな!」という反論が飛んで来ると思います。

ですが、私たち人間は「社会」を作って営む生物であり、そこで起こる出来事は当然ながら社会の影響がゼロではありません。60年代の第二派フェミニズムが、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを掲げたように、必ず社会の影響があるわけです。

それなのに、「社会のせいにする」ことを否定すれば、当然自分に起こった全てのことは自己責任になります。自分の効力が及ばないものも自分の責任として扱えば、自己効力感は失われ、自己肯定感が大きく下がっていくのも当然でしょう。

むしろ、そのようにして何でも自己責任にするという「過剰な自己責任論」が、日本人の自己肯定感を大きく下げている最大の要因ではないかとすら思います。

◆「何でも社会のせいにするな!」は反知性主義

確かに、自分の責任に過ぎないことまでをも社会のせいにしてしまう人はゼロとは言いません。それを認めるつもりは一切ありません。

ですが、そう思ったのであれば、「仮に条件の異なる社会であっても、あなたの状況は改善されるとは思えず、それゆえそれは社会的要因ではなく、あなた個人に要因がある問題ではないか」と反証すれば良いはずです。

そうした丁寧な反論を行うことなく、「何でも社会のせいにするな!」という雑な否定論を飛ばすのは、「社会的要因と個人的要因を切り分ける」という行程を完全に無視した反知性主義に過ぎないわけです。

◆自己責任論は本当の自己責任を見えにくくする

むしろ、社会のせいにして、社会のせいにして、社会のせいにし尽くした後で、どう考えても社会のせいにはできないもの、そこに「本当の自己責任」が見えてくるのだと思います。

逆に、「本当の自己責任」を見つめようとするのであれば、まずは社会的要因を明らかにしなければなりません。「個人的要因」はいったんは置いておいて、どんな人もまずは「社会的要因」を見つけることに取り組んで良いのです。

一方、自己啓発界隈のしていることはこれの真逆です。ひたすら自己責任にして、「本当の自己責任」を見えにくくしています。それゆえ、いくら自己啓発界隈のノウハウを吸収しても、自己肯定感が上がることはないし、もしくは上がっても一時的に過ぎないのではないでしょうか。

◆加害行為の知識不足も自己肯定感低下を招く

次にもう一点、日本人の自己肯定感が低いマクロな原因として、「加害行為を言語化することが未発達」という点も非常に大きいと思います。

たとえば、かつて「セクハラ」という言葉が存在しなかった時代、セクハラ的言動がなぜ問題なのかという言語化された知識を持っていなかったため、被害者は明確に「それは人権侵害だ」と捉えることができず、モヤモヤを感じながら自己肯定感を下げてしまった人は多々いることでしょう。

このように、人権・尊厳・自他境界等を侵害する行動や言動に対して、それらがなぜ・どのように問題なのかということを言語化した知識が無いと、被害を受けた側の自己肯定感が大きく下がってしまうわけです。

◆ジャブのようにダメージが飛んでくる日本社会

確かに、昨今は「マンスプレイニング」「セカンドレイプ」「トーンポリシング」のように、世界共通言語として言語化されるものも増えています。ですが、それだけではすべての人権・尊厳・自他境界等を侵害する行動や言動を補足できるわけではありません。

とりわけ我が国は「他者の人権や尊厳を傷つけない限り、何をしようと個人の自由」という自由主義が根付いておらず、自他境界や人権を平気で侵害する行動・言動が広く深く社会に蔓延しています。

一例としては、他人のセンスや趣味に対して、謎に上から目線で「アリかナシか」でジャッジするようなカルチャーがあげられると思います。人の目を過剰に気にして、「浮くからやめたがよい」という事なかれ主義や、「みんな同じが良い」という強い同調圧力等も同様でしょう。

そうした周囲からの”アタック”が毎日ジャブのように自己肯定感にダメージを与えているにもかかわらず、それらの侵害性について言語化された知識が共有されていないわけですから、他国よりも自己肯定感が低くなるのは当然ではないでしょうか。

◆考察ミスは逆に自分が加害者になりかねない

これを防ぐためには、加害する側の行動・言動に含まれる問題点をしっかりと言語化し、「何となくモヤモヤを感じる…」という状態を脱することで、「相手の言っていることは典型的な間違いだ!」と受け止め、ダメージを軽減できるようになることが大事です。

つまり、「加害者やその言動に対して自分が感じているモヤモヤを言語化するスキル」を身に着けることが大事なわけです。社会が教えてくれないのですから、自分で身に着けるしかありません。

ただし、これには相当の注意が必要です。というのも、相手の行為・言動を正しく言語化できず、むしろ間違った考察をしてしまった場合、逆に自分が加害者になりかねないからです。

たとえば、アンチフェミニストによる「フェミニズムはモテない僻みだ!」のような分析はその典型例でしょう。一度、仮説を立てたらクリティカルシンキングで多方面から検証する必要があります。

◆強みを活かすのに加えて強み自体を伝えたい

以上、今回は自己肯定感を押し下げる環境要因と、それを見極めるための2つのスキルの必要性について書きました。で、これを書いている途中に、ふと気が付いたことがあります。

私はこれまでこの2つのスキル、つまり「物事をマクロで捉えてシステム的に分析・理解するスキル」と「加害者やその言動に対して人々が感じているモヤモヤを言語化するスキル」という強みを活かして、様々な社会問題を解説する文章を生み出してきました。

であれば、強みであるこれらのスキルそのものを提供すれば、一人でも多くの人が、自己肯定感を高めたり、QOLを高めたり、何かに挑戦するためのエネルギーを高めるために役立てるのではないか、そうしてより社会に貢献できるのではないか、そう思うようになりました。

◆2つのスキルを伝授する講座を開設したい

というわけで、時期は未定ではあるものの、今年中に、これら2つのスキルを身に着けるための講座やワークショップを開設したいと考えています。かなり抽象的でニーズがあるか自信が無いのですが、必要性はひしひしと感じているので、とりあえず挑戦したいと思います。

具体的には、ZOOMやTeamsのようなオンラインツールを使って、提供を開始するつもりですので、もしご興味がありましたら、ご参加いただけると幸いです。まずは講座をしっかりと作りこむために、モニターをしてくださる友人・知人に協力を仰ぎたいと思っています。

そして願わくば、『自己啓発本をいくら読んでもあなたの自己肯定感が上がらない理由』みたいな挑発的なタイトルにして、自己啓発界隈に殴り込みをかける(笑)ような書籍が出せれば最高だなと妄想しております。どうぞお楽しみに。

現代の新しい社会問題を「言語化」することを得意とし、ジェンダー、働き方、少子非婚化、教育、ネット心理等の分野を主に扱っています。社会がちょっとでも良くなることを願って、今後も発信に力を注いで行こうと思うので、是非サポート頂けると嬉しいです。