吉野家と私

「吉野家」と私…

午後11時半、銀座で強かに飲んだあと新橋から山手線に乗りホテルのある神田に到着、明日も午前中から「東京バーショー」である。何か食わねば酒が残る、二日酔いでのセミナー参加は辛い、などと思案しながら南口を歩いているとうまい具合に目の前に何と「吉野家」があるではないか。千載一遇、これは入るしかないと決断し、カウンターに座るや否や「牛丼並!」と威勢よく注文したのである。さて小生と「吉野家」との付き合いは古い。付き合いといっても別に社長さんを知ってるとかという話ではなく長い間食べに通っているというだけのことである。それは昭和51,2年のことに遡る。だから話が長くなることは申すべくもない。小生がまだ24,5歳の時分であるが梅田は阪急東通り商店街の外れで怖々小さなジャズバーを開業して間もない頃の事である。当時は京阪沿線の森小路に住んでいたのでいつも行きは市バス、帰りはタクシーであった。ある時森小路と関目を分ける交差点の南側に見たこともない「吉野家」という牛丼屋が出来ていたのをタクシーの窓越しに見つけたのである。運転手に「ストップ‼︎ 」と大声を発し車を止めて勇気を振り絞ってその店に入ってみることにしたのだった。当時の森小路から関目界隈はガラが悪く赤提灯などにウッカリ入ってしまったらチンピラに絡まれて金を無心されることなどしょっちゅうであった。だから空腹を抱えていても我が八畳一間のアパートに直行して「明星チャルメラ」か「エースコックのワンタンメン」でも茹でて腹を満たすのが無難だったのである。さてガラス戸を開けて固定椅子のカウンターに座し生まれて初めての「牛丼並」なるものを食したのであった。すき焼きの残りが乗ったような「すき鍋丼」なら松坂の町で何度か食べて いたがこんな脂身が縮れ捲くった骨ぎしの薄っぺらい細切れ肉と玉葱しか入っていない丼を食べたことはこの時までまるでなかった。因みに今は当たり前にある「ケンタッキー」や「マック」や「モスバーガー」などもその少し前から出来始めた新進気鋭の店であったのである。殆んどの新しい食べ物を最初に食したのは我らが団塊世代であるように思う。今だに目新しい食を探す卑しき習性はこの頃に身に付いたものに相違あるまい。この時の丼の味は忘れられない、当時小生らは玉子丼や木の葉丼、親子に他人位が丼の常識で玉子で閉じたものばかりが当たり前であった。天丼や鰻丼などの高級お江戸文化はまだ大阪旭区の場末の貧民窟エリアには浸透していなかったのである。だから汁が掛かっているだけの犬メシのような丼には違和感があったが、紅生薑を乗せ七味を振り掛けて食べてみると少々醤油辛いが、肉と肉汁が沁みたご飯が醸し出す一体感が小生の口腔に幸福感を大いに齎してくれた。確か当時の金で300円であったと記憶するがタクシーを止めて食べるに値する丼だと思ったものだ。食後アパートまでテクテク歩いて帰ったが食した満足感と比ぶれば苦にもならなかった。その後直ぐに阪急東通りにも出来たことを知り、其方を利用することにした。東通りと新御堂筋が交差する辺りを50mほど北に上がった所だったが小さな狭い店で何時も混んでいたから諦めて「都そば」へ行く日もあった。また此処の「吉野家」では何故だかよくインド系の客が来ては「此れは豚肉であるか?!?」と聞きながら食べている姿に遭遇したものであった。ところで「吉野家」の牛丼は汁の量がポイントである。森小路の「吉野家」は加減がジャストで丁度ご飯に染み渡る汁な量で大満足であったが、此処東梅田の店は店員が下手なのか何時も汁が足りなくて混ぜても底の辺りは真っ白い米が残る状態であった。もう少し掛けて欲しかったが当時はまだ「ツユダク」なる造語もなく我慢するしかなかったのを覚えている。尤も「ツユダク」となるとベチョベチョとして此れも好きではないのではあるが…。さてその後の「吉野家」は1980年頃一回倒産の憂き目に会うことになり小生も「吉野家」離れを余儀なくされたのであった。肉の品質が悪くなった上での値上げなどが響いて客離れと批判が相次いだ結果の倒産であった。そしてそれから5、6年してから「吉野家」は立ち直り復活するのであるが小生との関わりでとなると平成に入って小生が新地に出店する1990年頃からのことになる。復活した「吉野家」は曽根崎のお初天神の横に清潔感の漂う綺麗な大型店舗をが開店させる。この頃から誰が言い出したかは知らないが吉野家のことを「吉牛」と呼ぶ習わしが完全に定着し始めたのであった。この店ではよく深夜に知り合いのバーのマスターや新地のソムリエさんと鉢合わせになってお互いバツが悪いことも多かったのを想い出す。気取ってフレンチしか食べませんから、みたいな顔で仕事をしている我々だから「吉牛」で会うのは思いっきり体裁が悪いのであった。其れでも小生は「吉野家」通いを隔月に一度のペースで守っていたと思う。然も浮気の一回もせず「牛丼並」を貫き通したのであった。しかし悲劇が再度「吉野家」を襲うこととなる。それがアメリカのBSE問題であった。汚染された牛を使う訳に行かぬ「吉野家」経営陣は2003年苦渋の選択をして牛を諦め「豚丼」の販売に踏み切ることとなった。此れは詰まる所、小生にとっても大問題であの牛丼が食べられないという悲しき事態が訪れるという事であった。仕方がないから「豚丼」を食してはみたが匂いも臭く明らかに「なか卯」の方が美味かったのであった。因みに吉野家のコピーのような「すき家」「松屋」は牛肉の時代から好きにはなれなかったことを付け加えておこう。時が経てBSE問題が収まった2005、6年頃「吉野家」経営陣は漸く牛丼の販売再開に踏み切る。価格は並盛り280円、400円から値下げした2001年と同価格の設定であった。これで「うまい、やすい、はやい」の三要素を満足させようと努力したのであった。そして2009年遂にライバル二社を引き離すヒット商品をも生み出すことになる。「牛すき鍋膳」と「牛チゲ鍋膳」である。此方は630円の設定で「吉牛」としては高級路線であるが食してみると充分値打ちはあると思った。長々と述べてきたが、斯様に「吉野家」は小生の青春時代から前期高齢者となった小生の人生に少なからず良き影響を及ぼして来ていると言えるだろう。今は深夜飯も色々とバリエーションも増えたことで半年に一度程しか食すことはないが、それでも忘れることはなく通い続けてはいる。然もデッタイ「並盛り」である。今、小生の目の前に「神田南口店」の牛丼並が運ばれてきた。間もなく午後零時になる神田駅前で東京で初めての「吉牛」を食そうとしているのである。先ず箸で牛肉を少しばかり摘み口に運ぶ。正しく「吉野家」の変わらぬ味である。次にご飯を丼の底の方から掬い上げ口に放り込むと丁度良い具合に汁が滲みていて、また「ツユダク」にもなっていず、過去食した牛丼の中でベストのバランス状態で御座った。七味を掛け紅生姜を乗せて、肉とご飯を混ぜ混ぜして口に掻き込むと若い頃に頂いた森小路の牛丼と同じ味がして、あの頃の貧しいが幸福であった記憶と合わさって、数倍に増殖した口福感で口中から鼻腔まで一杯になった。また二日酔いにはならない予感もした。そう、明日もまた「東京バーショー」である。早く宿に戻って眠ろうと思った。一気に丼の残りを掻き込んで味噌汁とサラダ込みの料金440円也を支払う。「うまい、やすい、はやい」の「吉野家」ワールドを東京で初体験できた満足感とレジで頂いた50円の割引券を握りしめながら暗い夜道の線路沿いを足早にホテルに向かう小生なのであった。

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