人の死に想う 2 死とは何なのか

先日、パートナーの母が亡くなったことは先にも書いたが、その死に接して思うこともあったので、少し書いてみたい。

そもそも、これほどの急な死を想定していなかったので、今でも信じられない思いが消えない。亡くなってから2週間近く経つのだが、以前のように部屋で椅子に座ってにっこりと微笑んでいるか、ベッドで眠っているか、そんな姿があるのではないかと、そんな気がして、部屋を見てしまうのだ。そして、片づけられたベッドと、遺影をみて、やっぱり死んだんだなあと思う。この繰り返しである。

事情があり、わたしはもともと暮らしていた場所から車で3〜4時間のところで暮らしているのだが、毎月必ず帰るようにしている。義母が亡くなった時も、ちょうど帰ると決めていた日の前日だったのだが、当初の予定の日は朝から退院してくると聞いていたので、それならば前日に行こうと思って、彼女が好きな蕎麦をお土産に、会えるのを楽しみにして向かっていたのだ。

運転中に、パートナーからLINEでメッセージが入った。「先生(医師)に呼ばれて、病院に向かってる」

少し嫌な予感が過ぎったが、退院とリハビリのことかなあ、という思いの方が大きく、あまり深刻には受け止めてはいなかった。

夕方家について、しばらくしてからパートナーが帰ってきた。

「どうだった?」

「もう今夜あたり持つかどうかだって」

「そんなに悪かったの?退院してリハビリだっていうから、少しは元気になったのかと思っていたのに」

急いで支度をして、彼女の父、兄も車に乗せて病院へと向かった。面会表に記入してから、看護師と一緒に歩き始めると、なんだか様子が変だと感じた。病室とは違う方角へ向かったからだ。看護師と話していたわたしのパートナーの様子を見て、最悪の事態を予想した。案内されたのは、ドアの上に「処置室」と書かれた部屋。開けて中へと入ると、目の前にはベッドに寝かされた義母の姿が。見た瞬間に、すでに命がないことを確信した。

「17時10分に亡くなりました」

その言葉を聞いて時間をチェックすると、17時12分。さっき面会表とか書いていた時間に、すぐに案内してくれたら臨終には間に合ったのではないか。強い憤りを感じたが、口には出さなかった。そんなことよりも、義母とのお別れをしなければならない。彼女の顔には、哀しみの表情が浮かんでいるように、わたしには見えた。薄く開いた両方の目からは涙が浮かび、周りに立つわれわれがわかったのか、微かに目が動き涙がさらに溢れてきたように見えた。

わたしのパートナーは、

「辛かったね、頑張ったね」と声をかけ、手を握りしめて、頭をそっとなでた。義父と兄、わたしはこみ上げる涙を堪えられなかった。

わたしの中では、もっと話をしたかったという悔いがとても大きくて、それがまた哀しみを増幅させていた。パートナーがいつも、義母がわたしのことをとても気に入っていて、来るのを楽しみにしていると聞いていたから、良く話をしていたのだが、最期になってしまった昨年の11月のときには、わたしが帰ると聞いた時に、「もう帰っちゃうの?もっといなさいよ。どうして帰るの?」と言ってくれ、それがいつもより執拗だった気がするのだが、それももはや後の祭りだ。「またすぐに来ますよ」と言って別れたが、結局それが最期となってしまった。

わたしたちがさまざまな思いを胸に、最期の別れをしている間にも、看護師たちには、それを尊重している気配が感じられず、それもまたとても残念であり、哀しいことだった。とくに、処置室となりがナースステーションで、わたしたちが部屋にいる間に、何度もドアが開き、義母の死とは関係の無い事務的なことで五月蠅かったことは、忘れることはないだろう。人の命を預かり、それで報酬を得ている彼らは、もっと場を弁えた、あるいは人間の尊厳に寄り添って欲しいものだが。それとも、忙しいということが、人命より優先されるのか、あるいは他のまだ生きている患者が優先なのか。

いずれにしても、この病院にはもうこれからは、係わることはないだろうと思う。人の死という敬意と慈しみで満ちた瞬間に、事務的で敬意の片鱗も感じなかった看護師たちの態度は極度に例を失していたと感じる。彼らもCovid-19対応で大変なことは理解しているつもりだが、それは言い訳にはならないだろう。

帰りの車中で、パートナーと話しているとき、彼女は「あの病院の対応は納得がいかないよ。あんなところにおかあさんを預けなければ良かった。すごく後悔してる」と言った。

「いろいろ難しいこともあったけど、はやく家に連れて帰ってあげたらよかったね。おかあさんも家に帰りたいっていつも言ってたからね」

最期の時に、家族もいないところで、煌々と明かりが灯る部屋で、人工的な装置に繋がれて亡くなった義母を思うと、とても可哀想だったと思う。89歳という年齢を考えると、もう長くは生きられなかったのだろう。天寿を全うしたとも言えるだろう。でも、あと1日で退院して、久しぶりに一緒に過ごして、美味しいものを食べて、楽しい時間を過ごせると思っていただけに、ショックは計り知れない。また、その後リハビリを受ける予定だったから、そうすればわたしのパートナーもいつも寄り添っていることができたのに、どうしてこんなタイミングで逝ってしまったのか。哀しすぎる。

病院から葬儀会社に直行していた義母の遺体だったが(この辺の経緯もよくわからないところがあり、わたしたちには不満があるが)、火葬までの日にちが10日もあるので、葬儀社の無機質な部屋では可哀想だと思い、翌日家に連れてきてもらった。

おかげで、10日間はずっと近くにいてあげることが出来た。生前にいろいろとしてあげられなかったこともあるが、火葬までの時間はパートナーにとっても、わたしにとっても、そして義母の友人たちにとっても、とても大切な時間となった。
気のせいかもしれないが、部屋のベッドで横たわる義母の表情は、生前にもなかったほど穏やかで、全てを超越しているようにも見えた。辛いことの多かった人生なのだが、そういうこと全てを乗り越えて、最期の数年は、ずっと望んでいた娘であるわたしのパートナーと同居して世話になり、ある意味満足だったのかなあと思う。

荼毘に付された日。親族一同が集い、静かに送ることができた。亡くなってから日にちも経っていたのだが、相変わらず穏やかな表情であった。
 家に帰る途上で、パートナーと2人で食事した。食べることを愛していた義母だったが、この2年ほどは腸閉塞にもなり、思うように食べることも叶わなかった。肉体を離れた魂は、もはや老いや痛みさえもなく、安らかに過ごしているだろうか。

この30年の間に、世界のさまざまな場所で、多くの人々の死に立ち会い、いくつもの葬儀にも参列させていただいたのだが、どのような死であろうとも、人の死はとても重いものであり、残された人々の哀しみは深いものだ。一方で、死とは終わりではない、天上の世界、神の世界へと旅立ったのだと考えると、それは祝福だともいえる。しかしこの世界での再会が叶わないということもあり、わたしたちは悲嘆にくれるしかないのである。
 
 今、人の死が見えなくなっている、あるいは実感が湧かなくなっていると言われている。とくに日本ではその傾向が顕著だが、これはわたしたちの文化の変遷ということ以上に、わたしたちの精神性の問題でもあろう。死は誰にも訪れるうえに、生命あるものにとっては最大ともいえる大切なことなのだ。それは誕生以上かもしれない。だから、死を忌むのではなくて、厳粛に、五感でしっかりと受け止めながら、静かに送ってあげたいものである。現世での生を労い、新しい旅への旅立ちとして、見送ってあげることができたら、そして彼らが自分たちと共にあったときの記憶をいつまでも、心の片隅に持ち続けて、生きていきたいものである。
 誰の死に対しても、そんな心持ちで接することができれば、それは素晴らしいことである。そして世界の人たちが、誰の死をも悼み、哀悼の念を持つことができることが、本来の姿であり、求められていることなのではないか。世界にそんな空気が満ちたときには、憎しみや偏見もなくなり、平穏な世界へと変容していく可能性もあるのではないかと思う。そう思いたい。
 義母の死に接したことで、わたし自身も久しく忘れていた感覚を取り戻すことができた。そのことを感謝し、これからの生を全うしていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?