騒がしい社会の中で

もう何ヶ月も書いていない。
これは、諸々あって書けなかった、あるいは集中力が落ちていた、ということもある。ここ最近は少し落ち着いてきたが、世間はますます騒々しくなり、耳を塞ぎたくなるような雑音が世界を覆っているかのようだ。
もっとも、それらの多くはメディアを通して流れてくるものだったり、SNS等から流れてくるものだったりする。
結果として、できる限りそれらに接しないよう、精神の安定を乱すような情報に触れないようにしてきた。

ここ最近日本で騒がれているのは、安倍元首相の国葬の件、旧統一教会と政治家の問題等々だが、これらもある意味大切な問題ではある。それについて冷静に考えて、倫理的に正しい帰結へといたるのであれば、議論をすることも有意義であろう。

しかし、世の中には、目先の利権や金銭欲に塗れた政治家、それに群がる有象無象の勢力、人々に満ち溢れている。
メディアも、表層の問題にこそ触れながら、本質的な問題を提起するところなど一つもない。メディアに出てくる専門家や識者と称する人間たちも、結局のところ何も知らない輩ばかりで、自らの知識や優位性をアピールしているだけである。
旧統一教会というのは、わかりやすいほどに悪意に満ちた組織であり、普通に考えれば、こんなものがのさばり、メディアに出て自らの正当性を主張したりすることは論外なのだが、なぜかそれが許され、また何の罪にも問われていない。
万単位の被害者が存在しているという明らかな事実がある。にもかかわらず、この犯罪組織はいまだに至る所に存在し、宗教活動と称する活動を続けている。
犯罪者、悪人の言い分を聞いてどうするのか。即座に解散命令を出し、指導者たちは逮捕され、財産は没収されるべきなのに、それが実現するかどうかもあやふやな状態である。
またメディアや多くの人々は、旧統一教会のことばかり取り上げるが、同類の犯罪集団、邪教集団は、残念ながら他にもいくつもある。
主なものは、創価学会であり、幸福の科学であるが、他にもあることは、知っている人も多いだろう。
今回の機会は、浄化のチャンスであり、これらを全て解散させるべき好機であり、機械を逸してはならないと思う。
そして何よりも大切なのは、宗教とは何か、神を信じるとはどういうことなのか。このことを、日本人一般がより真摯に考えてみるべきだということ。
キリスト教やイスラームなどと比べ、日本人は信仰心が薄いとはよく言われることだ。実際には、薄いのではなくて、信仰の基準が非常に緩やかであるということではないかと思う。
キリスト教のような一神教では、厳格に神があり、正邪が二元論で語られることも多いが、日本の場合は文化的にも歴史的にも、その辺りが曖昧であり、それが良さでもあるのだけれど、悪意を持ったエセ宗教からはつけ込まれる原因にもなっているのではないか。
信仰というのは、自身と神との直接の対話であり、契約(と書くと、一神教みたいだが)であるということ。エセ宗教を見抜く基準もここにあると考えると、それほど難しいことではない。

世の中には、苦しいこともある。悲しいこともある。どうにもならない、解決できないのではないかと悩み、落ち込んでしまうことだってある。
これは、どんな人だって経験することなのだ。
自分だけが苦しんでいると思わないこと。どんなにどん底にいると思っても、絶対になんとかなると諦めないこと。
そんな状態の時に限って、満面の笑みを湛えた悪意のある人間が擦り寄ってきたりするのだ。それは偶然ではないし、ましてや神の救いなどではない。人を陥れて、利益を得ようとしている人間たちは、不幸な人を探し出すことが仕事でもあるので、そういったことに長けているものだ。

こうすれば救われる、こうしないと地獄に落ちる。等々言われるだろう。しかしそれらは聞き流し、そういう人間とは関わらないこと。
本当に助けようと思っている人は、絶対に何かを強制したり、煽ったり、ましてや金の話などはしないものだ。
忘れてはいけないのは、先にも書いたが、信仰というのは、神と自身との対話なのだ。そこに割り込んでくる人間には多かれ少なかれ警戒心を解かずに対応しなければならない。
心からあなたのことを心配してくれている人もいるはずだ。そういう人たちは、絶対に金の話などしない。これだけは断言できる。
神は金など必要ないのだから。

この騒々しい世界。情報が溢れている社会。物事の真偽でさえも、わからなくなりそうな中で、私たちは生きているけれど、だからこそ自分の心と向き合い、対話するべきなのだ。

まずは、周囲のあらゆる雑音を断ち切り、雑念を振り払うことから始めたらどうだろうか。テレビを見たり、スマホを漫然と眺めたり、そういうことを一旦断ち切ってみよう。
こんな世の中、とネガティブに捉えてしまうこともあるだろうが、本質的なところでは世界は変わっていない。絶対に救いはある。ただそれは、フリを装って近づいてくる人がもたらすものではない。自らの心の中から現れるものなのだ。
それを忘れなければ、必ず救われると、私は信じている。


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