人の死に想う

かつて、数え切れないほどの人の死に接してきた。

多くは、自然ではない死だった。

たとえば、銃で撃ち殺されたり、砲撃の破片を浴びて死んだり、鉈で斬り殺されたり、あるいは伝染病で死んだり、あるいは溺死や焼死・・・・。そんな死をたくさん見つめてきた。

それぞれの死に接して、目の前で横たわる肉体の、先ほどまでは生命を確かに宿していた肉体の、躍動していた筋肉の、何かを話していたかもしれない口元の、何らかの動作をしていただろう指先の、何かを見つめていただろう見開く瞳孔の、それらの抜け殻のような肉体を前にして、それらが動きを止めたことの原因に思いを馳せ、そんなことになった状況を想像し、ただ静かに見つめ続けていた。

今、日本という国にいて、そんな死に接する機会はなくなった。いや、日本にいても死に接することはあるはずだし、交通事故や殺人、公衆の面前で起きる自殺などもある。つまり、不条理な死は突然に眼前に現出する可能性は小さくはないはずだ。とはいえ、日本にいて人の死に接する機会はほとんどない。

実際に、死に接することはほぼ無く、そういうことが起きるかもしれないという気持ちも、いつの間にか無くなっていた。

パートナーの母が亡くなった。

高齢であり、遠からず死ぬ可能性は高いとはわかっていたはずだが、まだ数年は生きると信じていた。最近は入院が長かったが、元来旅行好きの人で、元気になったら、軽井沢に行きたいといつも言っていた。行こうね、といつも答えていた。

仕事等の関係もあり、この一年は離れたところで暮らしていたが、毎月必ず会っていた。少し弱ってきているかなとは感じながらも、話しぶりや食欲は相変わらずであり、彼女と話していて、死というのは現実感を伴って迫っては来なかった。

4日前に久しぶりに会う為に、わたしは高速道路をひた走っていた。じつは、1日後に出発するはずだったのだが、突然1日前に行った方がいいかなあと思いたったのだった。彼女が好きな蕎麦を買い、元気になったかなとか思いながらハンドルを握っていた。パートナーも、少し元気になったよと言っていた。リハビリの病院に移って歩行訓練などして、春には元気になるかなと言っていた。

都内を走っている時、パートナーからLINEで連絡が入った。医師から呼ばれて、病院に向かっているという。一瞬嫌な予感が過ぎったが、すぐに頭を切り換えた。退院のことで話があるんだろう。そう考えて、運転に集中した。都内の渋滞にハマり、多少いらいらしながら走っているうちに、ネガティブな思いは消えていた。

夕方病院から帰ってきたパートナーと会った。

容体が急変して、もう持たないらしいと聞いた。急遽、パートナーの父親、兄を迎えに行き、病院へと車を走らせた。
 病院の中を幾分急ぎ足で歩き、エレベーターで彼女が入院している階へ行き受付へ。面会表に記入して病室へ案内されるときに、いつもと違う方へ行くなと思っていると、看護師に告げられた。今まさに亡くなったとのことだった。
処置室、と書かれた部屋に招かれると、やせ細った老人が仰向けに横たわっていた。一ヶ月ぶりにみたパートナーの母だった。かなりやせ細ってはいたが、間違いない。死亡診断を聞きながら、思わず涙が溢れた。彼女の目からもうっすらと涙が滲んできた。かすかに動いた気がするが、気のせいか。
 彼女との様々な記憶が、ページを速送りするように次々と脳裏に蘇っては流れていく。とても懐かしく、とてつもなく哀しい。この人の肉体は眼前に横たわっているが、その精神はすでにそこにはない。そう思うと、感情の海に押し流されそうになる。

人の死に直面したとき、それがどこであろうと、相手が誰であろうと、精神が異様に落ち着き、気持ちが安らぐのを感じる。戦場で、自分がシンパシーを感じる側の人間であっても、内心憎いと思うことがある側の人間であろうとも。死の場面では、そういうことは超越して、ただ眼前の死に向き合い、哀悼の意を表するのだ。

今回のパートナーの母親は、もちろんそういった場面とは違うのだが、とはいえ根幹では同じものだと思う。人の死に直面したとき、遠い過去から遠い未来まで、この地球の全ての場所と、時空も超え、国や人種、言語、慣習、宗教などといった些末なことを超えて、細胞のレベルで繋がることが出来るとわたしは信じている。

日本は火葬の慣習があるが、そのときまでは家にいて貰うことにし、今これを書いている階下では、彼女の肉体が静かに横たわっている。魂はもうそこにはいないのかもしれないが、不思議とその存在を感じ、遺体のそばで静かに見つめていると、暖かい気持ちになる。

かつてわたしがさまざまな場で邂逅した今は死んでしまった人々も、安らかに、その魂は永遠だと信じている。そしてその人々を知る人たちにとって、実際に彼ら、彼女らは永遠なのだ。

かつて生きた人々、今この瞬間にも亡くなっていく人々、これから死んでいく人々、そういった多くの死とともに、生者の生は支えられ、多くの魂と併存し、生きている、そして生きていく。

思いもかけず、身近な人の死に接して、わたしは哀しみを超えて今、希望と確信に満ちた心持ちでいる。

今は、共に過ごしてくれた時間に感謝し、これからの永遠の命に祈り、自身の生への希望を持ちながら、そしてこれからしばらく生きるわたし、わたしたちへの暖かい息吹を感じながら、歩んでいこう。


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