年初の誓い、新たに

これからやるべきこと、やりたいことを考えたとき、心の奥からの本音とか、この何十年の間目指してきたこと、自分の本性として考え続けてきたことがあるが、それらも含めて自分のなかで大切なのは、書くということだった。

だった、と過去形になっているのは、そのことがこの数年ほぼ思うように出来ていないからだ。

その理由はいろいろとあるのだが、ひとつはこの数十年やってきたやり方で生きていくことが困難になり、まずは生活を立て直そうとしていることがうまくいかないこと。

もうひとつは、そもそもこの現実の社会のなかで、いかに生きていけば良いのかが、自分には明確に見えていないことがある。

突然こんなことを思い、書いたのには理由がある。今日偶然知ったのだが、長年の知人が(近年は会うこともなくなっていたが)最近本を出版したからだ。

彼が数年にわたってブログで書いていた文章をまとめたもので、ブログを時折訪れては、なかなか良い文章だなあと思っていたものだった。日々の些細なことから、時々の社会のことなど、一見何気ない日常のなかで、物事の本質をつくような、忘れてはいけないことやこれからのために知っておいた方がいいことなどを、気負わず、それでいて明晰に分析し、自分なりの考えをさらりと綴り、それが彼の暮らしのリズムや匂いとともに、流れるように記述されていた。

それが出版されたなんて、とても感慨深い。また、そういう形に持って行った彼の努力にも敬意を表したい。

一方では、その間のわたしはどうだったのだろうか?本来の自分がやることは書くことだ、などと言ってみても、そのために何かやってきたのだろうか?

もちろん、日々ものを考え、時折文章も書き、人との会話、議論もして、不特定多数の人たちが話す場も設けたりしてきたが、それらは結局どんな形にもなっていない。また、この一年くらいは、疲労困憊する日常の雑事に追われ、まともに物を書いたり、思考することも億劫になっていなかったか。

だから、彼の努力に敬意を表し、そこから力を貰いながらも、なぜか自分は駄目なのではないかという無力感にも苛まれている。

書くことに集中し、世界を旅し、また撮影もしながら、思うように形にしていきたい。かつてほぼ思うようにやっていたそれらを、また再開したいのだが、個人的な事情、社会的な事情もあり、それらは遅々として進まない。

彼とわたしとの感性の違いというものは、明らかにあり(当たり前だが)、そこは本を出す上での可能性の違いにもなっているとは思うが、どんな内容であろうとも、意味のある内容であれば、必ずそれは誰かの琴線に触れるはずだと信じている。その観点からいえば、わたしが諦めることは愚かなことだし、むしろ諦めずに多くの人に読んで貰うことを実現しなければならないと思う。これは、自己満足ではなくて、ある種の義務でもあろうか。

年初にこの思いにいたることが出来たのは、何かの救いかもしれない。さまざまなやらねばならないことがあり、ただ書いていれば良いということでもないのだが(それは、誰もが同じだ)、毎日少しでもいいので他の雑事を断ち切り、集中することをあらためて習慣化していこう。

わたしの背中を押してくれたことに対して、彼には感謝しかない。そのことによって、忘れがちだった本当にやりたいことをあらためて明確にヴィジョンとして自覚できたことを嬉しく思う。

こんなことは近年なかったことだ。これを僥倖として、また前に進んで行こう。長い間の停滞とも、今日で別れを告げて、また彼方に見える光へと向かって行く。

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