カフェは本来革命的な場である

カフェ好きな人は多いだろう。
日常のちょっとした隙間時間にカフェに立ち寄り、好きなドリンクを飲みながら、読書したり、友人と語りあったり、最近は仕事をすることもあるかもしれないし、また休息の時間として過ごす人もいるだろう。いずれにしても、カフェで過ごす時間というのは、多くの人にとっては、リラックスできる時間だったり、しばし休める時間だったりするのだろうか。
 また最近では、カフェで食事をメインに取る人も増えているようだし、珈琲などドリンクの質を高めているところも増えているようで、そんな珈琲や各種ドリンクのファンなども増えているらしい。
 さて、カフェは革命的な場である、などというタイトルをつけると、なにか怪しい、なにか法に触れるような内容なのではといぶかる人もいるかもしれないが、そんなことではない。

ご存じの方も多いと思うが、カフェ文化が花開いたのは、フランスのパリである。18世紀頃から興隆を極め、それは現在まで続いているのだが、とくに20世紀半ば頃までのカフェというのは、一種独特の雰囲気があり、ある意味流行や新しいことの発祥の場だったり、知的、文化的な交流や発見の場でもあったようだ。また、カフェから新しい社会運動が起きたりもした。
 また、ロシア革命前にレーニンらが集ったのも、パリのカフェである。そういう意味では、まさに「革命的」であったのだ!

わたしがここで触れたいのは、カフェという場は、本来新しい文化と出会ったり、社会の様々な問題を語りあったり、解決を模索したり、あるいは社会を変えていくうねりの原点だったりする場であり、さまざまな階層の仕事もバックグラウンドも年齢も異なる人々が、そこで出会い、語り、議論する場であるということ。
そして、現在の日本では、そんなカフェがほとんど存在しないのではないかということであり、そういうことにわたし自身は危惧を覚えている。
なぜなら、現在の日本は政治のみに留まらず、極めて危機的な状況であり、懸念すべき問題も山積しているのであるが、そういことをわたしたちが語り合う場がないのだ。さらにいえば、そもそも政治とか社会問題とかの、ある意味まじめな、堅い話題を語る雰囲気がないのだろうか、そういうことが語りにくい雰囲気があるのかもしれないが、それは日本独特の感覚かもしれない。
 あくまでも、気軽に、自由に語り合うという意味での場がないということだ。政治集会とか偉い先生が話すイベントとか、特定の主義主張を喧伝する集まりはある。そういうことではなく、あらゆる人々が自由に語ることが出来る場が必要であり、本来そういう欲求を満たすのは、カフェの主要な役割ではないかと思うし、そこにこそカフェの存在価値があると思うのだが、残念ながら、そんな思いを抱く人は少数派なのだろうか。

わたし自身も、じつはそんな場を実践していたのだが、諸事情あり店を畳んで一年以上経つ。
そこでは、古書販売や、ブックトークや哲学科フェ、社会問題やアート文化等に関するイベント、こだわりのドキュメンタリー映画の上映等をやっていた。コアなファンも増えてきて、これからというときだったが、思いを残したままの閉店となった。
 そこでの経験と、自らも様々なカフェを渡り歩いたり、いままでの人生でも知見等も含めてあらためて考え続け、やはりそういう場は必要だという確信的な思いに囚われている。
 いや、今以上にそんな場が必要な時があっただろうか?そして、これからさらにそういう場の必要は高まるであろう。
とくに、昨年からのCOVID-19のパンデミックが、良い意味で人々がシリアスなテーマに関心をもつきっかけになったのかなと感じている。パンデミックで生活や仕事の環境が大きく変わっていく中で、社会の矛盾とかおかしさとかに気がつく人も増えているのではないだろうか。

 元来そういう思いが強かったのだが、今年の秋以降くらいから、かなり強くカフェの再開を意識しだしていた。情報も集め、自分の中であらためてどういう場を作りたいのかを練り直したりもしていて、来年には何らかの形を作り始めたいと意志を固めつつあったところだ。
 そんなときに、書店で偶然見つけたのが、「カフェから時代は創られる」という書籍だ。この本は、タイトルがそのまま内容を現しているのはもちろんだが、装丁や判型、紙も含めて、いわゆる欧米のペーパーバック版なのだ。カフェ関係の書棚にあったのだが、無意識にこの本を手に取り、少し立ち読みしてから、すぐにレジの前に立っていた。人の真似をするつもりはないし、わたしには他の人とは違った思いもあるので一概にはいえないにしても、パリのカフェがどういう形で存在してきたのか、フランス社会の中でどういう立ち位置であったのか、その歴史も含めて知っておくことは有益であることはまちがいないだろうと思ったのだ。
 もともとわたしが運営していたカフェも、カフェという以上に文化的なサロン的な店だった。かなりこだわった古書を揃えていたし(作家でいえば、ジュネ、ル・クレジオ、ジェバール、タブッキ、澁澤龍彦、ロートレアモン等々)、ドキュメンタリー写真集、画集等も自身の感覚で入れていた。また、文化的、あるいは世界の情勢に関するイベント(専門家や作家を呼んでのトーク等)、写真展や絵画展等も何度も行っていた。とても手応えを感じていたし、何とか続けられるとも思っていたのだが。
 さて、いつまでも考えているだけでは駄目だ。また、考えている間にも世界は動き続け、新しい動きもあったり、新たな知見を得たりするなかで、また出来るだけ早い段階で、カフェを開きたいと思い始めている。
もちろん、カフェと言っても一般的なドリンクを飲むだけのカフェではないし、既存のほとんどのカフェとは全く違うものになることは確かだろう。
 わたしが考えるカフェの最大の存在意義は、そこから何かが起こるような場であることである。今の日本では、そこが革命の発火点になるようなことはあり得ないだろうが、長い目で見て社会に何らかの影響を与えうる人間が来たり、育ったり、誰かの考えや人生に少し影響を与えたり、またそこから何らかの社会的な動きが芽生えたりもするかもしれない。
いや、そういう可能性を秘めた場にしたい、なんらかの意識を持っている人が自然と集う場にしたい。そんな思いを強くしている。
 「場」を持つ地域はほぼ決まっているが、まだ自分の頭の中で像を結びつつある程度のことだ。これから地域を歩いたりして、より具体的なイメージを固めていきたい。
 今は、先に挙げた本を買ったことを契機に、勢いで綴っている部分が大きい。これも、きっかけということか。しかし、どんなことも、存外些細なきっかけから始まるものだ。
 来月からも少しずつ動き始めて、どんなことを形にしていけるのか、自分でもわくわくしている。
 またこの件に関しては、関心のある人たちとの話し会いも大切だと思うので、さまざまな意見を聞いたり、アイディアを聞くことも必要と思っている。
 
 

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