見出し画像

わたくしごとですが

自分のことを誰かに説明したいとき、当然のように「わたくしごとですが」と断りを入れるようになったのはいつからだろう。

基本的に人はあなたのことに興味などない。だから断りを入れるんだ。
「これから言うのはあなたの人生に全く関係のないことだけど、でも言いたいから言うね。すまんね。」

これは嬉しいことなんだろうか、悲しいことなんだろうか。そんなことどうでもいいけど、僕はこの言葉、結構好きで。

小さい頃、僕はこの世界の主人公だった。親と学校と、せいぜいスポーツクラブくらいの小さな小さな世界に生きながら、それでも。総理大臣もジュウレンジャーも。アメリカもフランスも。全部が僕の人生のために存在していた。僕の人生にほとんど関わりなんかないけど、テレビの向こうで僕の人生のために存在していた。

でも他の誰とも同じように、気づく時が来る。自分は自分の人生の主人公ではあっても、世界の主人公ではないと。他人はみんな、それぞれ他人達の人生の主人公として必死で生きていて、だから僕の人生に興味のある人の方が少ないのだと。

そんな、あきらめだったり、成長だったり、通過儀礼だったり、受容だったり、捉え方の変化だったりを前提としている「わたくしごとですが」。

だから自分の話をする時には、「あんたには興味もない話だろうけど」って前置きする。


僕がこの言葉を好きなのはここからで。

そんな前提を置きながらも、でも自分の話がしたいから。

他人は自分の人生なんかに興味はない。それはわかってるんだけど、それでも自分のことを聞いて欲しいから。

我慢できないから。

だから「私ごとですが」って言う。
そして他人には関係ない自分の人生の話をし始める。

これは構造的には、

「わたし今からマスターベーションしますね!」って元気に宣言したあとで
実際に元気にマスターベーションし始めるのと同じ。

別に何も言わずにベーションし始めたっていいんだけど、わざわざマスター宣言した後にお披露目されるベーションはやっぱり味わいが違うというか、香ばしさが違うというか。

冷静に考えると、やっぱり何も言わずにベーションするという行為は相当に無神経だと思うんだ。

それに対して、「ごめんね。ちょっとマスターするけどさ」と言う断りを入れるという行為は、それ自体に優しくも悲しい前提や、遠慮や、引け目や、気恥ずかしさを含みつつ、

それでも我慢できないからベーションしたいんだという切実な感情の発露も伴っている、という点で、
恥ずかしいケド、、この思い、キミに届けっ!⭐︎と同じ
思春期的ベーショニズムが逆に浮き彫りになる。

世界の真実に気づいて、自分の矮小さを思い知ってオトナになって、それで始めたマスター宣言が、逆説的にベーショニズムを醸し出す装置として立ち現れる。
これは皮肉か、それとも僕ら人間は生来逆説的生き物ということの証左か。

安心して欲しい。
書いている僕ですら何を言ってるのか分からないし、
そもそもベーショニズムという言葉はない。

要するに何が言いたいかというと。

ずっと家にこもってるだけだとこういう精神状態になるので、
StayHomeしつつ、適度な運動、健康的な食事、十分な睡眠をとってね!

#drinkcoronabeer #stayhome #masturbation

面白いなって思っていただけたら、ぜひサポートをお願いします! 面白くないなって思った場合も、ぜひサポートをお願いします! …狂ってる?それ、誉め言葉ね